十六
『あーしがR大の数学科のゼミにいたときに、すごく優秀な子がいたの。そのときあーしはもう、翻訳を仕事にしたいと思っていたから、語学ばかりやってた。だから、嫉妬もなにもなかった。だけど、周りにはその子をなんとかして
鹿野は、
『あーしが嫉妬をもたなかったのは、あのゼミのなかで、自分だけ別の道に進んでいたから。数学より語学、翻訳の仕事に就く……って。あーしはね、嫉妬なんて面倒な感情を持たなくてよかったって、いまでも思ってる。だってさ、嫉妬って、自分のしたいことの足手まといにしかならないから。ようは、他人を基準に置くってことでしょ。でさ、その基準というのが、決して高いとはいえないかもしれない。自分で決めた目標だったら、いくらでも高く設定できる。だからあーしは、嫉妬って、どんぐりの背比べみたいなものだと思ってる』
相変わらずというと鹿野に失礼かもしれないけれど、彼女の言っていることには説得力があるし、部分的に納得できないこともありながらも、全体的に見ると正しいように思う。だからこそ、わたしは自分の哲学のようなものを、うまく見出せずにいるし、創作活動において、彼女への依存度を深めてしまっている。
ところで、鹿野は超越的なものを信じているのかどうか、聞いてみたいような気がした。絶対に到達できない神のような存在を認めているのか。認めているとしたら、いままでの説諭とどのような
しかしいまは、鹿野の説諭と叱咤が調和した「言葉」を一方的に聞き、咀嚼し吸収していく。それは、心地よいことでもある。自分ですべてを考えなくてもいいからだと思う。本当は、自分ですべてを考えるべきなのかもしれないけれど、そうすると、客観性を担保することができないし、甘ったれた擁護をしてしまうことだろう。と、自己弁護する。
『あとは、じっくり考えなさい。語学の勉強に戻りたいから。こういう通話って、友だちだからしてるだけで、別のひとなら、応答しないと思う。ああ、なんかツンデレみたいに聞こえてしまうけど、ようは、洋ちゃんには期待してるってこと。あーしの言っていることを理解してくれるし、尊重してくれるし、自分の使命を全うするためのアティチュードも似ているし……もう今日は切るけど、またなんかあったらメッセージで送っといて。気が向いたら返すから』
鹿野の声が聞こえなくなると、動くものがなにもなくなったみたいに、あたりはしんとしてしまった。まだ、八時だ。ほとんどの客が起きているだろうに。相当の防音設備になっているのだろうか、それとも、周りの部屋には誰もいないのだろうか。ビニール袋からサンドウィッチを取り出すときの、かさかさという音が、雷の響きくらい大きく聞こえた。
設営に使った道具や余った同人誌は、箱詰めにして実家に送った。わたしは明日、久しぶりに郷里へ帰る。先生にお会いして手紙をお渡しする使命があったために、年末に帰省することはなかった。年始からは来たるイベントに向けて準備をしていた。
家族はみんな、生きているだろうか。死んでいるのに、生きていると偽っているのではなかろうか。悪い妄想が、わたしの平常心を破り侵入してくる。
眠れなくても身体を横にしようと、シャワーを浴びて寝支度を整えて、エアコンと電気を消し、ふとんにもぐりこんだ。そこで、廊下から足音と話し声がかすかに聞こえてきた。このひとたちは、わたしの部屋の前を通り過ぎるとき、ここに生きている人間がいるということを、決して意識しないことだろうと、ふと思った。認識の外側にいるということは、死ぬことと同義なのかもしれない。
そういえば、アラームを設定しただろうか。そう思いはしたものの、眠気はスマホを手に取る気力が生じないほどの深さにあった。もう眠りの底は見えようとしている。
そしてわたしは、奇妙な夢を見ることになった。真っ暗闇のなかで、高校生のときの同級生の声を聞くという、今日一日となんの脈略もないような夢である。
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