十四

 一枚のイラストが投稿されていた。「百合」をテーマにしたハッシュタグが附されていた――先生のイラストの青色は、世界一の青色だ。この青色より美しい青色は、この世にない。わたしは、この美麗な青色に救われたのだ。


 喪失しかけていたモチベーションが、ふたたび奮然と沸き上がってきた。今日は必ず、成功させてみせる。目標は、既刊の完売だ。勢いよく起きあがり、軽やかな足取りで、顔を洗いに洗面所へと向かう。パンを食べて、コーヒーを飲む。忘れ物がないか何度もチェックをする。そしてもう一度、先生のイラストを眺める。


 今後の人生に不安を感じ、押し潰されそうになっていた大学院生のときに、偶然、先生のイラストに出会うことができた。感動し涙を流した。わたしも誰かに、温かい気持ちを抱かせられるような存在になりたいと思った。


 そしてそれを機に、わたしは創作を再開した。高校・大学のときは、ほとんど趣味で書いていたに過ぎなかった。それがいまや、プロを目指して、文学賞に応募したりイベントに参加したりしている。こんな未来が待っているなんて思ってもいなかった。研究者を目指していた自分は、もうすっかり過去のものとなってしまった。


 ぶるぶると震えざるをえない日本海側の冬の朝、地下鉄に乗り会場の最寄り駅に降り立つと、トランクを引っ張ったり、大荷物を背負ったりしている人びとが散見された。この人たちについていけば会場にたどり着けると思ったが、一応、スマホのマップ機能を確認してみると、道に迷う心配はなさそうだった。晴れわたる青空から降りそそぐ陽の光が、いくぶんか寒さをやわらげてくれた。


 会場は駅からさほど遠くなく、予定していたよりも少し早くついてしまった。しかしサークル参加をする人たちはすでに列を作っており、わたしは最後尾を示すプラカードを受けとり、大勢の参加者で狭くなっている廊下に並んだ。前回参加したイベントより小規模な会場ではあるものの、目視できるだけでも大量のブースが並び大きな賑わいを見せることが予想された。わたしの後ろに並んだ男性にプラカードを渡す。そして、こんな考えを巡らせた。


 次のイベントのために作成する同人誌は、ふたつにしよう。既に、サークル参加が確定しているイベントがひとつある。今年の6月だ。充分に時間がある。ひとつは書き下ろしの短篇小説集、そしてもうひとつは、既に投稿サイトに掲載している長篇小説にアフターストーリーを付け加えたものにしよう。短篇集は「家族」をテーマにしたい。そして再録するのは、ふたりの高校生が、様々な苦難を乗り越えて文化祭で漫才を披露する、はじめて書き切った長篇小説に決まりだ。


 そんな計画を思いついたのは、すっかり「同人活動」モードになっているからだろう。気分が高揚しているのを、ひしひしと感じる。そして、そんなよい気分に浸っていると、サークル参加者の入場時間になった。


 自分のブースのある「島」の近くに、あらかじめ送っておいた荷物が置かれている。わたしに当てられたスペースに段ボールを置くと、ガムテープを剥がし、持ってきたビニール袋のなかに捨ててしまう。そして、ブースの設営を開始する。試し読み用の同人誌を、見本誌コーナーに持っていく。持ってきた釣り銭をまとめる。設営が完了したブースを撮影し、鹿野にその写真を送った。するとすぐに返信がきた。


《ちくいち反省点を書き留めるメモ帳は持ってきてる?》


 思わず、苦笑してしまう。鹿野のなかでは、わたしは必ず失敗をするという前提があるのだろうか。いや、それは違う。ここには、鹿野の哲学がある。彼女は、こう言っていた。


『成功した、という経験をしてしまえば、それを名目に椅子に腰をかけてしまう。でも、ほんとうの目標がその先にあるのなら、腰を落ちつけている暇なんてない。すぐに、次の仕事に取りかからないといけない。だからあーしは、常に欠点を見つけることにしてる。仕事が終わったらすぐに、欠点を自覚して、休む間もなく次の仕事に取りかかる。その先にあるのが、目標の実現なんだよ』


 このイベントを通して、成功をしたと思ってはならないと、鹿野は言っているのだ。一理あると思う。昨年のイベントで、帰ってすぐに応募作に取り組んだのは、そこで抱いていた気持ちがどうであれ、間違った行動ではなかったのだろう。これから五時間、どのような体験が待っているかは分からない。だけれど、良い方に転ぼうと悪い方に落ちようと、ホテルに帰ったらすぐに、創作に関する「なにか」をしよう。


 一般入場の時間まで、椅子に座りながら、メモ帳にアイデアを書き出す。実家に帰り次第、執筆する予定の小説のアイデアを。そうしているうちに、イベントの開始のアナウンスが流れた。サークル参加者たちの拍手が、会場中に鳴り響いた。

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