十一

 鹿野は、どんな厳しい意見もうそぶくように言う。しかし、そうしたところが彼女の魅力であり、わたしの気づいていないことを前景に押し出してくれる。


『洋ちゃんの気持ちは、あくまで洋ちゃんが抱いているだからね。もし、あーしがの立場だったら、一緒に仕事ができてもできなくてもいい……という感じだろうね。そもそも、そんな気持ちは知らないわけだし』


 わたしは「ガチ恋」をしているのだろうかという疑念と不安を、一言でまとめてくれたように思えた。相手の感情を都合よく憶測し、自分の感情に引き付けて肯定的に解釈する。その状態に陥ったとき、わたしの先生への想いは「ガチ恋」へと転ずるのだ。


 わたしの抱いている想いは、わたしのなかで独立して、他者の想いと繋がることなく存在しているという意識を、ずっと持ち続けることができるかどうかというのが「境界」なのだ。


『でもこういうのって、人間のどうしようもないところだよね。自分以外のだれかが存在するというのは厄介なことで、ひとを悶えさせるややこしい感情……煩悩のすべてが、に起因しているわけだから。煩悩の犬は追えども去らずとか煩悩即菩提ぼんのうそくぼだいとか、そういうコトバを肯定的に捉えられると楽だけれど、簡単にはいかないものだから』


「鹿野は、どうやって悟りを得たの?」

 わたしからは、鹿野はあらゆることに達観した聖人のように見えていた。煩悩というものを、俯瞰ふかんした立ち位置から考えることができるというのが、その証左に思えた。


『べつに悟りを得ているわけではないけど……そうだな、あーしは、自分の仕事がなによりも大事なわけ。やりがいがあるし、挑戦してみたいこともある。だからたとえば、友人と仕事のどちらかが世界から消えるみたいな選択に迫られたら、仕事を残すと思う。洋ちゃんの言葉を使うと、仕事という〈極〉に人生を全振りしているから、他人に対して抱く感情は、ほとんど物質的なわけ。冷淡だと思われるかもしれないけれど、自分にとってメリットのない関係だと思ったら、すぐに断交してしまう』


 思わず、こころのなかで笑ってしまった。ここまで割り切って生きているひとは、いったい、どれくらいいることだろう。少なくとも、煩悩を自分から切り離す生き方をしているひとは、鹿野しか知らない。わたしは、煩悩の塊なのだと思う。だからこそ、ひとつの〈極〉にのめり込んでしまう。そしてそれに悩み苦しむし、もう一つの〈極〉を求めようとしてしまう。


 しかしわたしは、こうも思う。わたしのように、ひとつの〈極〉に依存してしまい、嫉妬と懊悩にさいなまれて、どうしようもない状態に陥ってしまい、そこから抜け出せないひとは、少なからずいる。わたしは、そうしたひとたちに寄り添うことができるような小説を作りたい。


 でもわたし自身は、鹿野のようなメンタルやスタンスを手に入れたいと思う。自分の夢を叶えるために、無尽蔵の苦痛が降りしきる平野を突き進むエネルギー。それを手に入れたい。


 いくつもの言語を習得し、自由自在に翻訳をなし得るようになりたいという鹿野の向上心と努力には目を見張るものがある。そしてそのためには、メリットのない人間関係をバッサリと断ち、仕事に集中できる環境を維持することに努める。


 それくらいの覚悟を、わたしは持つことができるだろうか。いや、これくらいの覚悟がなければ、〈極〉から生じる夢、つまり、先生と仕事をしたいという夢を叶えることなどできない。


『こんな甘っちょろいことを言うのは躊躇ためらわれるけど……でも、大晦日にまで創作をするところは、評価できるな。この日ばかりは休んでいいだろうなんて思うメンタリティで、夢を叶えられるわけなんてないからね。でも、これだけは勘違いしないで。もし洋ちゃんの夢が叶わなかったとしたら、努力が足りなかったということだから』


 西洋における実存主義は、ひとは死ぬという事実から逆算して人間の生を考える。鹿野の言葉は、思考法において、それと軌を一にしているように思えた。目標が叶った状態から逆算して、努力の質を考えていく。実存主義は多くの批判にさらされているし、鹿野の考えもマジョリティとは言えないだろうけれど、努力というものの本質を突いているように思える。


 大晦日も元日もない。暦のなかから任意に選んだ二日間と変わりがない。そういう心持ちで、いつも通り創作に打ち込もう。鹿野との作業通話が終わってからも、わたしは小説を書き続けていた。コーヒーを用意するついでにカーテンをめくり外をのぞくと、大学寮のあちこちに光が灯っていた。しかしその出で立ちには、いつもよりかげりが見えていた。

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