この世で一番美しい青色は、先生のイラストの青色だ。先生の青色は、世界一の青色だ。不安と苦悩にさいなまれていたわたしを救ってくれた、先生のイラスト。もうすぐ修士論文を提出するという間近になって、将来に対して大きな不安を抱くようになった。中東部アフリカの歴史をフランス現代思想の理論を用いて分析するという、何人かの教員からは「遊び」とそしられていた研究を、このまま続けていくべきなのかどうかと。


 しかし研究を中断するという決意をしたとしても、そのオルタナティブとなる案はひとつも浮かんでいなかった。当時は社会情勢がいささか混乱していて、十一月の時点で就活をはじめるというのは艱難かんなんだった。それに、博士課程へ進学することだけを念頭に置いていたぶん、就職は視野に入っておらず、いまからそちらへ舵を切るには、多くの手続きを踏まなければならないため、いつ働くことができるかは明瞭めいりょうではなかった。


 よって、袋小路に陥っていたわけなのだが、先生のイラストを偶然目にしたことで、鬱屈とした日常に春の陽が降りそそいだ。そしてわたしも、不安や苦悩を抱えているひとに温かい気持ちを与えられる存在になりたいと思い、創作を再開した。小説を書きはじめた。


 それにもうひとつ幸運があった。わたしの研究の副指導教員から、少し特殊な位置づけにはなるが、研究を続けることができる制度があるという知らせを受け取った。調べてみると、研究を継続しながらも、ある程度、創作に時間を割くことができそうであった。早速、申請期限に間に合わせるために、研究計画書を作成し、無事に審査が通りめでたく(特殊な立ち位置ながらも)大学に残ることができた。


 そしてわたしは、創作に打ち込みながら研究を続ける生活を、2年のあいだ送った。博士課程への進学も、再び視野に入りはじめていた。しかしそんなときに、家庭の悲劇が起こった。だが、それでもわたしの手には、物語を書くペンが残った。そしていまにいたる。


 美しく温もりのある新刊に感動し、自分の創作の原点を思い出したところで、わたしのするべきことは、ただひとつしかないということが確認された。小説を書く。これだけだ。いまなら、なにも恐れることなく執筆ができる。なぜなら、わたしのこころのなかで、先生への強い想いが燃え立っているからだ。


     *     *     *


 大晦日。今年は下宿先でひとり年越しを迎えることとなった。しかし朝に鹿野唯しかのゆいからメッセージが届き、昼から作業通話をすることとなった。翻訳の仕事をしている鹿野とわたしは、会話をしながら各々の作業を進めるというのをよくしていた。夜はひとりでかの有名な歌番組を横目に執筆をしていることだろう。しかし陽が沈むまでは、鹿野という数少ない親友と話をすることができるのは幸運だ。


 鹿野はわたしの創作活動に対して、なによりも深く影響を与えている人物だった。多くの教えを授けてくれたし、作品の感想も細かく伝えてくれた。数学科に在籍していたということもあり、数学に関して分からないことは、度々、彼女にいていた。それに鹿野は、その方面に関して、わたしに気遣いをすることなどなく、厳しい批評を加えてくれる。創作に燃えるいまのわたしにとって、話し相手として申し分ない人物だ。


 昨日の疲労はもう残っていない。少なくとも意識的には感じていない。大学院に在籍していたころに、オンライン授業で酷使して動きが鈍くなったパソコンを、一度シャットダウンして休ませる。しかし「創作」まで休むつもりはない。ノートを開いて、連載中の小説のこの先の展開のプランを書き記していく。コーヒーを胃に流し込んだ回数は覚えていない。


 窓の向こうは、いつまでたってもうす暗いままで、重苦しい雪曇りの空に光のあなはひとつもない。雪がちらちらと舞ったかと思えば、すぐにぴたりと止んでしまう。大学寮は寒さに凍てついて、なんの思惟もすることなく寂しくたたずんでいるように見える。


 唸ったり鎮まったり忙しないエアコンのためにも、カーテンを閉めてしまい、冷気の大規模な侵入を防いでしまう。すると唸り声は潜んでしまい、部屋の温度が揺るがぬことを悟り眠ってしまった。


 先生の新刊は、いままでの先生の作品が収まった本棚に大切に並べた。もう恐れることはない。わたしのこころでは、いつか先生とお仕事をしたいという強い気持ちと、そのために血眼になって努力しなければならないという固い意志のふたつが、炎々と燃え立っているのだから。

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