九
先生はお手紙を受け取ってくださった。事前にお手紙のお渡しは可能かどうかを聞いていないにもかかわらず。どのようなものも受け取りをしないという旨を表明しているサークルもあるみたいだが、先生はそのようなことを言明してはいなかった。しかしあらかじめ、このことについては質問しておくべきだっただろう。
それでも先生は、わたしのお手紙を喜んで受け取ってくださり、わたしは新刊とグッズを購入させていただくこともできた。寒さ厳しい港湾近くで一時間以上待機したあと、自由に身動きもできない混雑のなか苦労して先生のブースへたどり着いたのは、正午過ぎくらいのことだった。そして、先生のブースにお伺いしたあとは、すぐに会場を後にした。
まだ一時にもならないうちに最寄り駅についた分、電車は終電かと思うほどすいていた。後に聞いたところによると、三時ごろには駅の近くは大行列になっていたらしい。わたしはスムーズに帰宅し、疲労のいくらかをシャワーで洗い流し、残りの疲れをひきつれて眠りについた。外の厳しい寒さと熱のこもった会場に身をさらし、先生にお会いし緊張がほどけたあとゆえに、わたしはぐっすり眠ることができた。
日が変わるまであと少しというところで目覚めた。いつもなら横たわったまま考え込んでしまうところであるが、気分の良さと疲労の減退が
湯気が立ち上るコーヒーを一口飲むと、思った以上に熱くて舌がしびれてしまった。ここでクリックを連打したり、キーを叩いたりしたら、壊れてしまうかもしれない。だけれど、この遅々とした動作のせいで、先ほどまであった「やる気」がそがれていくのを感じる。変わりに胸中に去来してきたのは、茫漠とした不安だった。
先生にお会いした前と後で、わたしの先生に対する気持ちは、どう変わっただろうか。正直に言うと、もっと好きになった。先生と一緒にお仕事をしたいという夢を、必ず実現させなければならないという意志が、さらに強く固まった。
しかし、わたしにはその夢を叶えるに足りる力があるだろうか。作っている小説は、権威ある
やっと立ち上がったあとも、なかなか原稿のファイルを開くことができなかった。とある文学賞に応募する、初めての純文学の長篇小説は、なんらかの評価を得ることはできるだろうか。茫漠とした不安は、はっきりとしたものへと変わっていく。椅子の背もたれに身体をあずけて、この不安に対するなんらかの抗弁を探してみた。だけれど、そんなものは見つからなかった。
「何歳になったら、この夢は叶うのだろう。いつまで、小説を書き続けられるのだろう」
そのとき、腰のあたりに稲妻が走った。もう治る見込みのないあの腰痛がやってきた。すぐに、体勢を変えてはならない。しばらくはじっとしていないと、その場で倒れこんで動けなくなってしまう。知り合いからは整体に行くように言われているのだが、そんな余裕はない。
しかし、この余裕がないという言葉そのものを分析してみると、もしかしたらそこには、暇さえあれば小説を書き続けなければならないという強迫観念のようなもの、言い換えるなら焦燥感があるのかもしれない。
エアコンが稼働していないことに気づいた。いまのわたしみたいに、黙って動こうとしない。いや、あのリモコンを使えば、エアコンは温かい息をはきだすのだ。それにひきかえ、いまのわたしには、どのような勇気も芽生える気はしなかった。大岩を吹き飛ばすような衝撃が訪れないかぎりは、この倦怠は厳としてここへ居座ろうとするかもしれない。
しかしわたしは、ふと思い出した。いや、ふと思い出すなんて失礼なことだ。帰ってきてすぐに寝込んでしまったため、先生の新刊をまだ拝読していない。いまのわたしを突き動かしてくれるのは、先生の作品だけだ。痛む腰をかばいながら、テレビの前に置いたトートバックの中から新刊を取り出し、電気スタンドを最大の光量にしてから、そのあまりに美しい表紙をめくった。
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