家にある便箋びんせんはあまりにも少なかった。手紙は、長ければ長い方が良いというわけではないだろう。二枚くらいが丁度いい気がする。しかし文字の汚いわたしからすれば、六枚で足りるはずがなかった。たとえ文面が出来上がっていたとしても、それを手書きにしたところで、納得のいかない文字になることは避けられない。いまの自分に書ける一番綺麗な字で手紙をつづりたい。その心がけを失した手紙は、不愉快を届けるだけだろう。


 年末の同人誌即売会に、わたしの恩人のイラストレーターの先生が出店されるため、年末年始は下宿先で過ごすことに決めた。単身赴任中の父に家族の面倒を頼んだのだが、そのことに対する後ろめたさはもちろんあった。だがどうしても、現地で新作を買いたい、お手紙をお渡ししたいという気持ちを抑えられなかった。


 一方で、この抑えがたい衝動のようなものが、狂暴な利己主義に転化しないかどうかということは、わたしを不安にせざるを得なかった。理性的な考え方に基づいて立ち回るのではなく、欲求におもむくままに振る舞うようになるのは恐ろしいことだ。


 わたしの先生への特別な想いは、来るところまで来ている。この恩人の先生に対して依存を深めてしまうことは危険だ。もうひとつの極を作り、絶え間なく極の間を行き来するような状態を作った方が、精神的にどれくらい楽だか分からない。「想い」を一極だけに注ぎ込むのは、あやうい。


 しかし、この「想い」は、親しい物書きの人たちへのものとは違い、わたしの人生の本質といえるものなのだ。生きている理由の片翼であるのだ。先生と一緒に仕事をしたいという一心で、家庭の悲劇と心身の不健康に負けずに執筆を続けている、生きることができている。先生への特別な感情を希釈してしまうことは、わたしの生への執着の解体に繋がりかねない。だから、いままでこの問題を真剣に考えるのを避けてきた。しかしいまこそ、気持ちの整理が必要なのかもしれない。


 とはいえ、書くことができないことはある。それは、私小説という形式の問題ではない。わたしの勇気が足りないのだ。それらをさらけ出すには、まだ時間が早すぎるし、わたしの性格上、事実を意識的に取りつくろってしまうだろう。しかし先生への特別な感情の整理というのは、そうした秘匿ひとくにしておきたい事柄があるということからも、一筋縄にはいかないのは確かである。


 そして、この手紙には、絶対にこの一文を書くことができなかった。


「いつか先生とお仕事ができるように、精一杯がんばります」


 なんというエゴイズム。「愛」を伝えるためのファンレターに不要な一文。そんな風に思ったから、書かなかった。そういう自制ができるのは、わたしが大人になったからであり、そして、先生への特別な感情が暴走していないことの証のように思った。


 一度も直接お会いしていない先生に、ファンレターをお渡しすることの緊張感は、わたしを眠らせもしなかったし、こころを落ち着かせることも一度もなかった。もし拒絶されたらどうしようなどという心配も頭をもたげていたし、なにより、無事にスペースまで行くことができるだろうかという不安もあった。わたしの心身は、それほど健康ではないから。


 クリアファイルにファンレターを挟む前に、便箋が入っていることを何度も確認したし、手紙を書くときのマナーも、何度も調べ直した。不手際があってはならない。絶対に、しくじってはいけない。


 そして、そういう強い気持ちの裏に、「嫌われたくない」という心配があることに気づく。その「嫌われたくない」というものが、「嫌われてしまうをしたくない」ということと等号であり、「好きになってもらえる可能性を消したくない」という「ガチ恋」的な発想ではことを、確かめていく。


 大丈夫だろう。ちゃんと、相手のためのことを考えることができている。自己中心的な思考にとらわれていない。


 リュックにファンレターを挟んだクリアファイルを入れて、何度目か分からない持ち物のチェックをした。もし入場証を忘れてしまい、家へ引き返すことになったとしたら、戻ったときには、先生は会場から撤収しているかもしれない。

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