寝てしまったということが、わたしを安心させた。どれくらい浅い眠りだったとしても、その事実を得られるというだけで気持ちが楽になるのだ。眠れないことは人間にとって生命に関わることだという摂理が、わたしは怖かった。眠らなければ、死んでしまう。


 だから、毎日が恐怖なのだ。これに似た恐怖と闘っていた作家をひとり知っている。しかしその作家は、新時代の訪れとともに自ら死んでしまった。それだけではなく、家族との確執や精神的な衰弱もまた、晩年の彼が悩み苦しんだことだった。こうした類似は、わたしにひとつの帰結を導き出させるかもしれなかった。わたしもまた自分で……などと。


 しかしわたしには、恩人の先生と仕事をしたいという夢があり、家族を看取らなければならないという責任がある。だからこそ、わたしはいかなる娑婆苦しゃばくの中でも生きていかなければならない。


 だが、そんな先生への特別な感情は、「ガチ恋」に包含されるのではないかという不安が、頭をもたげてきていた。先生に対して、二重の愛が向けられているのは確かだ。ひとつは「一人のファン」としての愛だ。そしてもうひとつが、恩返しをしたい、一緒に仕事をしたいという、自分でも分かりきっている「重たい」愛だ。わたしを不安にさせて止まないのは、この後者の感情をうまく自分の中に位置付けることができないことだ。


 先生と出会うことができたのは、あまりに幸せなことだった。それなのに、わたしはいま、先生への愛情に関する複雑な心情を整理することができず、苦痛を覚えている。なによりこの懊悩おうのうは、あまりにも失礼なことではないかと考えてしまう。もっと素直に応援させていただくことが、なによりの「ファン」としての振る舞いではあるまいか。


 わたしはいままで、先生の「生き方」に指図を加えたことなど一度もない。先生の作品や活動を、一方的に「受信」しているだけだ。もしこちらからなにかしらの指示を「送信」したのだとすれば、それは「ガチ恋」と言われることだろう。しかしわたしは、それとは違うのだ。


 だとすると、わたしがこの恩人の先生に対して抱いているのは、依存に近い感情ではないだろうか。わたしの創作活動の背後には、「先生と一緒に仕事をするため」という注釈が付いているのかもしれない。もし先生の存在を知らないまま創作活動をしていたとすれば、わたしはいずれ、なんのために小説を書いているのか分からなくなっていただろう。


 そこまで思考を進めていくと、こうした恐るべき事実が突きつけられる。わたしは、読者の人たちのことを考えていないのではないか……と。自分の小説を読んでくださる人たちに誠実であり続けたいと思いながらも、実は、先生のことしか考えずに執筆をしていたのではないかと。


 わたしはいままで、投稿サイトで「連載」をはじめては、ほとんど経たずして「休載」し、続きを書かないということを繰り返してきた。そのことが、なによりの証左ではないのか。投稿サイトを開き、未完結の物語を数えると、自分の不誠実さを実感せざるをえない。


 しかし「休載」した未完結の連載を一覧にして表示してみたとき、こんな気持ちがにわかいてきた。


 やっぱり、読んでくださる方に誠実でありたい。未完結のものをひとつひとつ完成へと運んでいこう。最初から読み返し当時の文体や思考を思いだし、それをいまの感覚へと接合させていこう。どれだけ時間がかかろうとも、待っている方がいなくても、続きを書こう。公募に応募する原稿を書きながら、ひとつずつ丁寧に紡ぎ直していこう。そうした決意が、忽然こつぜんと芽生えてきたのだった。


 しかしまずは、応募原稿を書き進めることである。家にある一番大きなコップにインスタントコーヒーをそそぎ、コラボ配信をパソコンの画面の横で流しながら、どんどん冴えていく頭といままで考え続けてきた見取図を頼りに、止まることなく小説を書いていく。


 そのうちにコラボ配信は終了したが、今度はまだ観ていなかった別のイラストレーターの方の作業配信のアーカイブを再生し、一枚、また一枚と原稿用紙を埋めていった。寝る前までわたしを支配していた負の感情は、いまやもう全身に瀰漫びまんするほどのものではなくなっていた。


 それから二時間は経っただろうか。わたしはもう一度眠りにつこうとしていた。猛烈な眠気が急襲してきたのだ。それは抗うつ剤と頓服の副作用に違いなかった。まだ書くことができるという気持ちはあるのだが、両方の眼を開けていることが困難になってきていた。


 最後の抵抗のつもりで、電気スタンドだけをけた状態で執筆を続けていった。しかし物語が一段落つく前に、机の上で伏せってしまった。そのままずるずるとベッドの方へとっていったが、力は尽きてしまい、ふとんの端に頭を乗せた状態で、ほとんど正座のかたちで眠ってしまった。


 しかし次に眼が覚めると、ベッドの上で毛布にくるまっている自分を見出した。物語が書かれた数十枚は、夢のなかに散ってしまったのかもしれない。ふらふらとした足取りでデスクの机に座り、パソコンの画面の左下のページ数のカウントを見て、安心した。あれは夢ではなかったのだ。


 二十度を下回りかけている室温に身の危険を感じたがゆえに、無意識にベッドによじ登り毛布にくるまったのだろう。風邪をひいているわけではないと思うが、吐き気をもよおすほどの肩こりになっていた。


 白湯を作り市販の頭痛薬を飲んで、もう一度毛布にくるまり、肩こりとそれにともなう吐き気が寛解かんかいするのを待った。昨日考えていたことのほとんどが、感傷的な色彩に薄められようとしているのに気付いた。すべてが、一時的な高揚感からくる感情の発露のように思えた。


 でも、そんなことはないのだ。イベントの終わりから考え続けたことは、わたしにとって本質的な苦悩なのだ。それを誤魔化そうとするこの感傷は、欺瞞ぎまんでしかない。それなのに、寒さのなかにもやとなって立ち消えようとしている。どうしてこの朝は、そんな酷い仕打ちをしてくるのだろう。


 カーテンの隙間から朝の陽が差して、床の上を走っている。身体を横へ向けてじっと見ていても、その光の線が延びていく変化を見て取ることはできない。


 苦痛と懊悩おうのうの日々は、これからも続いていくに違いないし、一時として苦悩から解放されることはないだろう。そう観念し、もう一度目をつむった。

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