吊革につかまりながら目をつむるが、なんの考えも浮かんでこない。ただ、泥のように眠りたいという欲求だけがたゆたっている。うとうととしているうちに、ふっと意識が消えたかと思うと、全体重を支える持ち手を掴んだ右手の痛みで目を覚ます。


 しかし、すぐに強烈な眠気が襲ってくる。駅に停まるたびにどこかの席が空いていないかを確認するが、空席がないばかりか、降車する客より多くの人が乗りこんでくる。車内は身動きがとれないほど混雑していた。


 車内の誰もが口を利かず、もし線路の上を電車が浮いていたとしたら、水を打ったように静かになるかもしれない。それでも時折、もの悲しい咳払いの音がどこからか聞こえてきた。電車が行き違うときの押し出されていくような揺れに、わたし自身も後ろへと吹き飛ばされそうになった。それは身体から魂が抜けていくような心持ちだった。


 しかし不思議なことに、だんだんと眠気はなくなっていき、かわりに落ち着かないくらいの不安に襲われはじめた。それは、会場から距離がはなれていくにつれて、俯瞰ふかんして今日のことを見ることができるようになってしまったからだろうか。


 自分の不甲斐なさと、傲慢さと、うぬぼれのことを冷静に分析しようとしたならば、熱湯をかけられたかのように身もだえをする、くらいのことでは済まないであろう。今日の総括は、甚大じんだい艱難辛苦かんなんしんくを伴うに違いない。それを引き受ける覚悟は、いまはない。


 夜道はひっそりとしていた。人がいないわけではない。店が軒並み閉まっているわけでもない。しかし、わたしの気持ちを晴れやかにしてくれるような、明るく響く音はひとつもない。


 歩道橋の下を行き交う車のエンジン音も、コンビニの自動ドアが開くとともに流れてくるメロディも、スーツの上にコートを着た男性の咳払いも、悲しく聞こえてならない。わたしの足音もすっかり疲れ切っているし、ライトに当てられてかすかに浮き上がってくるわたしの影も、すっかりくたびれてため息をついている。


 玄関にリュックを置いたとき、このなかに多くのものが詰まっていて、その重たさをわずらわしく感じていたことを思いだした。肩はすっかりこり固まっていたし、腰の痛みも堪えきれないくらいになりはじめていた。シャワーを浴びる前に荷物を解いておこうとリュックを開けると、会場で配られたトートバッグを取りだし、買い求めた同人誌を机の上に並べた。


 帰り道に、わたしを脅かし続けていたのは、この色とりどりの数寄すきらした同人誌の数々なのだ。もっというと、その作者の方々の情熱に圧倒されて、ひしゃげてしまっているのだ。


 自作の同人誌を手に取っていただくには、イベントまでにどれくらい宣伝をするかが重要である。と同時に、目に入ったときに好印象を与えるようなブースでなければならない。そうしたことを痛感させられた。


 知り合いの物書きの人たちは、販売する同人誌をまとめた「お品書き」をSNSに投稿するに際して、書影の配置や全体の色味のバランスに注意を払いながら、デコレーションを加えるなどして、かなりの気合いを見せていた。


 一方のわたしは、書影を画一に並べてタイトルと値段を書いただけの質素なもので、いま見返してもだれの心にも訴求しないようなものである。手に取ってもらう気がないとそしられても、弁解する気にはなれないし、その資格もない。


 こうした事前のアピールはもちろん、挨拶にうかがったときに見たブースの外観であったり、同人誌の梱包であったり、無配物の準備であったり、特典の用意であったりと、そのイベントに対する情熱には圧倒されるものがあった。


 わたしは、必要最低限のものを並べただけのブースに、剥き出しの同人誌を用意しただけで、なんの無配物も特典も作っていなかった。こうしたところに、ファンが増えなければ、在庫がはけることもない理由がある。


 今年一年を、プロになるための「勝負の年」と位置付けているにもかかわらず、こうした「サボり」をしてしまうところに、わたしの弱さがある。こんな情けない自分を慰めてくれる人はいない。だけれど、励ましの言葉をかけてほしいとは思わない。叱ってほしい。喝を入れてほしい。だがそんな贅沢を、誰が与えてくれるというのか。


 作品はもちろん、人としても多くのひとに愛されるには、あのような情熱と気遣いが不可欠なのだろう。愛されるということは、難しい。それなりの距離で関係を結び生活を営んでいくということは、容易たやすいとは言わないまでも、愛されようとするよりは簡単である。


 好意を持たれるということは、相手の実生活を少しだけ頂戴ちょうだいするということである。自分のために時間を使ってもらうことである。しかし、それに値すると見なされるには、氷のはった湖を向こう岸へと渡るような才能と努力が必要となる。


 わたしには、それに相応ふさわしい価値なんてない。わたしの作った本なんて、知らないところでごみ箱に入れられていても不思議ではない。興味本位で買ってしまったことを後悔し、二度とあのサークルには近づかないと憤られていても不思議ではない。


 そもそも、わたしは愛されたいのだろうか。構ってもらいたいのだろうか。それは「しかり」だろう。然りだろうが、それより先に立つのは、こうした自省をしなくてもいいように、興奮を引き連れて気軽に帰ってこれるようにしたいという、切実な願いである。


 反省や振り返りというものを翌日に持ち越せるような余裕というか、当日の夜くらいは良い気分でいられるような「成果」がほしいのである。一体、そんな日はくるのだろうか。いつになったらわたしは、同人活動を心の底から楽しむことができるのだろうか。

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