わたしは「ガチ恋」をしているのだろうか。そのような問いを立ててしまうのは、あるイラストレーターの方への熱情が、暴走しているように感じはじめたからだ。その問いは、わたしを不安にしてやまない。


 その方は、配信をしているわけではないし、こちらから頻繁にリプライを送っているわけでもない。だが、わたしは、唯一無二の特別な存在として「先生」を位置付けている。そのことは、いままで私小説で何度も書いてきたことだ。


 そのイラストレーターの方との出会いは、いまから約3年前にさかのぼる。当時のわたしは大学院生だった。正確に言うと、修士論文を順調に書き進めていた修士課程の2年生であった。修士論文が十一月には書き上がる目処めどが立っていたのに対し、その先の将来に関してはなにも決定していることがなかった。


 博士課程への進学は考えていたのだが、修士2年のときに研究の方向性が変化していったため、当時の指導教員には引き続きの指導が艱難かんなんであり、他の研究室を探さなければならなかった。しかし自分の少し特殊な研究を指導してくれる教員と出会うことができないでいた。


 と同時に、周りからすれば「言葉遊び」にしか見えないような、中東部アフリカの歴史とフランス現代思想を接合させる自分の研究が、ほんとうに誰かの役に立つのだろうかという葛藤もあった。自分はこれから、誰のためにもならないひとがりなことをし続けるのだろうかという苛立ちと不安が、頭をもたげていた。


 当時のわたしは、漫画といえば(ただ一作だけを愛していたほか)なにも読んでおらず、ライトノベルも一冊も耽読していなかったのだが、「イラスト」には尋常ならざる愛着を覚えていた。


 夏と冬の大型即売会で刊行される「推し」のイラストレーターさんの新刊を、専門店の通販を使用して買いあさっていた。新刊と委託の情報を得るためにSNSのアカウントも作っており、毎日、イラストレーターさんたちが投稿しているイラストをうっとりと眺めていた。


 SNSでは、イラスト関連のハッシュタグがたくさん作られており、たとえば、月日から想起される要素を持っているイラストが、そのハッシュタグ(例えば11月4日は「良いお尻の日」であり、少しセンシティヴなイラストがハッシュタグで共有されている)を通して一覧で見ることができる。


 わたしはそうしたハッシュタグを見つけ次第クリックしていたのだが、そのなかに「#青色のイラストを貼る見た人もやる」(正確なタグ名は残念ながら覚えていない)というようなものを見つけた。興味本位でクリックをすると、最初に飛びこんできたのが、その先生のイラストだった。


 そのハッシュタグにぴったりのイラストだった。その青色を、わたしはいまでも「世界一の美しい青色」だと思っている。わたしは、泣いてしまった。あらゆる温かい感情が胸に迫ってきたのだ。


 鬱屈とした日々を送っていたわたしに、その美麗な青色は、温かい気持ちを運んできてくれた。運命だと思った。どうしたわけか、その先生とは相互フォローの関係となり、何度かお話をさせていただく機会もあった。


 そしてわたしには、このような考えが宿るようになった。「自分も先生のように、だれかの心を温かくするような、悲しみに明け暮れている人を救うことのできるような、そんな作品を作りたい」と。


 しかしわたしには絵を描くことができない。だが、小説を書いていた経験はあった。消極的な選択と言われれば、そうかもしれないが、わたしは小説を通して、先生がわたしに与えてくれたものと同等なものを、誰かに届けたいと思うようになり、創作を再開し同人活動をはじめた――と、こういう経緯がある分だけ、わたしの先生への想いには特別なものがある。


 しかし実際は、何年経っても自分の小説が誰かのこころを揺すぶることもできていないと痛感させられたし、苛立っていたし、不甲斐ない自分をゆるせなくなっていった。


 そして、どんどん活躍していく先生を見ているうちに、わたしの卑小さはますます意識されていった。密かに抱いていた「先生と仕事ができる地位につきたい」という目標も、あきらめるべき身の程知らずの夢だったのではないかと思うようになった。


 自己評価がどんどん低くなり卑屈の権化に成り果てた原因は、もうひとつあった。それは、創作を再開し同人活動を始めるにあたり作成したSNSの「創作用アカウント」で知り合った、同じ「物書き」の人たちの実力と活躍に対して抱いていた劣等感である。


 毎日のように新しい作品が目に入る光景は、当時のわたしに焦りと羨望せんぼうを与えた。そしてそれを評価し合っている光景は、きらきらとした交流に見えて、憧れてしまうこともあった。


 わたしは大勢の物書きの人たちと知り合いになったが、物書きのコミュニティは蜘蛛の巣のようなものだった。わたしの知り合いは、わたしの知り合いの知り合いだったし、その人たちどうしがやりとりをしている様子というのは、いつでも目に入るものだった。


 ひとつの狭いサークルのように見えたし、それはそれで居心地が悪いわけではなかったのだが、あるときからその同調性のようなものに恐れを感じだした。被害妄想と言われればそれまでだが、この結束や連帯というものが自分への暴力として差し向けられるかもしれないという恐怖を感じはじめたのだ。


 もしこの「物書きサークル」を学校のクラスにたとえるならば、わたしは教室の隅にいる生徒であり、なにか気にくわない言動を起こしたと見なされれば、クラスメイトから一斉に叩かれかねない。しかしこうした正直な恐怖を、だれかに吐露することなどできず、劣等感のことと考え合わせた結果、SNSのアカウントをしれっと削除したのであった。

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