第9話 「文藝部、分裂」


 五月十二日、土曜日。

 午前七時に起床。眠気覚ましのコーヒーを一杯胃袋に放り込み、朝食を軽く済ませて身支度を整える。午前八時半から部活動の予定なので、十五分前には部室の鍵を保管している事務室に足を運びたい。


「朝からせわしいな……」


 昨晩の復習を済ませて歯を磨いていると、悟が欠伸交じりの声で苦言を呈してくる。悪かったね、俺がルームメイトで。


「部活なんだよ。じゃあな」

「おう……廃部されるなよ」


 はいはい、そんなこと言われなくても分かっていますよ。

 言葉を返すことなく部屋を施錠したのが午前八時過ぎ。事務室は寮から徒歩五分の距離なので、少し急ぎ過ぎてしまったかと後悔する。だが、何事も余裕が大切なんだ。今回は余裕を持って行動できたと切り替えることにした。こういうポジティブシンキングって大切だよね。


 休日の土曜にもかかわらず、早朝から出勤している事務室の管理人さんには感謝の念を禁じ得ない。お礼の言葉を述べて鍵を受け取り、ゆとりある足取りで部室棟へと向かう。

 午前中に活動がある部は早くても九時からなので、文藝部だけが異常なんだが……土曜も普段のペースを崩さず起きられるように、そういう意味で一条先輩が八時半スタートにした。正直なところ、休日なんだからもっと寝ていたい。


「……」

「……うん? 誰だろう」


 部室棟に目をやると、外から文藝部室を見上げる金髪ボブの少女がいた。誰なんだ、彼女は。面倒なことは避けたいので関わりたくないが、仮にキキの連中だったら払い除ける必要があるか……。


 それにしても彼女、高校生にしてはやたら背が小さい。一四〇センチほどだろうか。それに髪はブロンドヘアだ。新しい校則が適用されるのは来月からなので、きっと地毛なんだと思うけど……紫学舎では見たことないな。藝学舎の人かな。

 本校の制服を着ているので、間違いなくうち生徒だが……うーん、安易に話しかけられる雰囲気ではなかった。


「……!」

 やがてこちらの気配を察知したのか、獲物目掛けて野原を駆ける猫のような速さで移動すると、あっという間に姿をくらました。


 ……彼女は一体何者だったんだ。あれ、でも生徒会役員に背の小さな女の子がいると聞いたことがあるような。うーん、分からない。なにせ執行部の集合写真に彼女らしき人の姿がなかったから、たしかめようがないんだ。


「……」


 諦めて部室棟に入ろうとしたところ、視線を感じてその方向に首を向ける。今度はコンクリート塀の横から顔を覗かせる彼女の姿があった。俺としては、猫のような愛くるしさを感じたというか、小動物を眺める感覚だった。


「おーい」


 声を掛けると、全身を震わせるような幻覚が見えた。やっぱり大きな音に敏感な猫のようで可愛い。頭を撫でてあげたい。……えっと、勘違いしてほしくないんだけど、カエデに対する気持ちとは全く別腹だからね?

 そんなことを考えていると、彼女は今度こそ完全に姿を消したので、ちょっと悲しくなる。嫌われちゃったかな。


 ……まあいいや。本来の目的を思い出した俺は部室の扉を開錠した。


「流石は次期部長じゃ。全うしてくれて助かるぞ」

「あ、先輩おはようございます」


 数分後に部長の一条先輩が到着する。ありがたいお言葉だが、もう何度も聞かされたので、高揚感には満たされない。


「オッス、お願いしまーす」


 聞き覚えのある語録のような挨拶で現れた千晴は、名簿に出席の文字を記して席に着いた。ちょうどいいや、オカルト好きの千晴にさっきの話を聞いてもらおう。


「おはよう、千晴。ちょうどさっき部室を開けようとしたら、外に小さな女の子がいてうちの部室を見ていたんだよ。本校の制服だったから、生徒だとは思うけど……」

「え、それマジ? 容姿はどうだった?」

「えっと……背が小さくて猫みたいな挙動だったな」

「猫……? それ本当に人だったの?」


 言われてみれば。……いいや、制服を着ていたのだから、絶対に人である。覚えている限りの容姿を、もう一度彼女に説明してみる。


「本当だよ。身長は一四〇センチくらいで、俺に気付くとすぐどこかに消えていった。あ、それと髪の色はブロンドヘアだったな」


 ブロンドヘアとは、「柔らかい色味の金髪」を意味する。この学校の生徒に地毛が金髪なんて生徒はほとんどいないから、藝学舎に所属する千晴なら知っているのかもしれない。

 今度こそ通じたのか、特有の唸り声を上げて考える仕草を見せる。ただ、なぜか怯えているようにも見えたので心配になった。


「大丈夫か? 千晴」

「……う、うん。ごめん、やっぱり分からないや。うちもこの目でたしかめたかったよ」


 苦笑交じりに言う彼女は、どこか落ち着かない様子。この手の話をする時は目を輝かせながら聞いてくれるのだが……。一条先輩も彼女の様子に首を傾げていたが、ここは話題を変えた方がいいと考えたのか、扇子を左手に打って俺たちの視線を集めた。


「さて、本日の部活は引き続き来月刊行予定の冊子を作成するのじゃが……生徒会がなにやらよからぬ行動を起こそうとしておるな」

「はい。どうやら部活動見学を行うみたいです。文藝部も例に漏れず見学に訪れるでしょう。ただちょっと……」


 俺が言葉を詰まらせると、伴弘がしかめっ面を浮かべながら部室の扉を開いた。ああ、そうだ。君のことを忘れていたよ。


「おはよう、伴弘」

「少々早いのではないか。まだ我が来ていなかったのに」

「すまぬ。ちと確認しておきたくてな」


 一条先輩が有耶無耶にしてくれたことでなんとかなった。俺としても、今回の件で二人を反省させるべく遺憾砲を連射すべきと思っていたが、とりあえずその話は忘れて、良隆が伝えてくれた内容を共有することにした。


「生徒総会での振る舞いもあってか、この部活動見学が文藝部存続の天秤に掛けられるそうです……」

「なんじゃと!? それは一大事ではないか……」

「……!」


 両目を見開いて反応する千晴と、してやられたと嘆く一条先輩。


 ――しかし、もう一人の反応は意外なものだった。


 伴弘は右拳に力を入れてみせると、そのまま右腕を震わせてやり場のない怒りを机に向ける。打撃によって作られた音は案外大きくて全身が寒気立った。

 彼は唇を震えさせながら今の心境をゆっくりと語り始める。


「私は……人間が人間を制裁するために……支配という枠に収め置くために振るわれる暴力は断じて……断じて許さない。……聞いたことがあるだろう、島崎楓が秘密裏に操っている秘密組織のことを。同じなのだよ、かつての谷千代学園と。独自の教育方針を打ち立てているが、反抗する者には文字通り暴力で従わせる……その姿勢と」


 まぶたを膨らませ、瞳に涙さえ浮かべる彼は、感情に想いを乗せて話を続けた。


「入学式の日、それは胸を躍らされたさ。島崎楓が己の主義主張に基づいて学校側に抵抗する雄姿が、本当に素晴らしかった。憧れたさ、あれが真の革命家だとな。……だが、結果はどうだ。彼女は権力欲しさにいくつもの悪行をやってくれた。我々人民の気持ちをないがしろにしてな。……なあ、塚本。俺が見ている光景は、果たして正義なのだろうか」


 ……伴弘。これだけは断言できる自信がある。

 あれがカエデなんだ。なにかのためなら一直線に、一途に取り組める凄い子なんだ。目標達成のためなら手段を選ばない。だからこそ、彼女は生徒会長に君臨している――。


「我は恥の多い半生を送ってきた。きっと、そういう星の下に生まれてきたのだろう。しかし、今の彼女に正義の欠片もないことは明らかだ。我は飽くまでも抵抗するぞ。それが叶おうが叶うまいが関係ない。彼女が犯した過ちを自覚させるためなら、我は玉砕もいとわない覚悟だ」


 彼が表明した意思はこの場にいる全員に届いていた。

 だからこそ、いち早く同調する姿勢を示したのは部長の一条彩姫だった。


「島崎楓の件となると、おぬしとは驚くほど意見が合うな。……全く、できの悪い弟を持つと困るものじゃ。これを伝えなければ、わらわが本気で牙を向けることもなかったであろうに」

「ちょっと待ってください。それは文藝部を危険に晒してまでやることですか。それに、生徒会になにかあったら退学どころでは済みません。やり方次第では社会的な信用を失いかねないんですよ!?」

「できればわらわも正当な手続きを経て会長になりたかった。じゃが、生徒総会は果たして対話の場であったか。彼女の独壇場ではなかったか。照明技術や理解のたやすい言葉遣い、身振り手振りで聴衆の心を鷲掴みにするやり方はかの独裁者アドルフ・ヒトラーを思い浮かばせるものであった。考えてみれば、ローゼンはナチスドイツの親衛隊、秘密組織のキキとやらはゲシュタポを彷彿とさせる……今の彼女は独裁者そのものじゃよ」


 ……独裁者、か。

 カエデが目指すところに独裁は不可欠なのだろうか。

 なあ、カエデ……君は一体、なにを見ているんだ。俺には君が分からない。君が掲げた公約は、本当に本心なのか。なにか別の考えが眠っているんじゃないのか。


 ……だが、残念ながら俺はここまでだ。


 如何なる理由があったとしても、自分の学歴を捨ててまで彼女に抵抗することはできない。だってそうだろう。両親からもらった命に、つぎ込んでくれたお金……そのおかげで今の俺があって、自分一人の力で谷千代学園に入学できたわけじゃない。

 生徒総会で俺が声を上げなかったのも、そういった事情が俺を虫食んでいるから。いいや、虫食んでいるんじゃない。普通みんなそうじゃないか。目立ちたくない、無駄な労力を使いたくない、もし失敗したらどうしよう。


 ……いくら彼女を生徒会長から退けたくても、俺にはその度胸がない。


「俺には……無理だ」

「塚本……仕方ない、各々の人生だものな」

「うむ」


 自分の意思を口にした俺を肯定するように頷く二人は、誰よりも大人らしく思えた。

 ……こうなってしまった以上、俺は文藝部を辞めなければならない。同罪で標的となるのはそれこそ高校生活の終わりを意味している。

 ほら、言っただろ。俺は弱虫なんだよ。結局、誰かに抵抗するなんて無理なんだ。度胸がないから思ったことを言えず、窮屈な世界を生きていく日本人そのものなんだ。


 ……ああ、こうして充実していた空間ともお別れか。

 意気消沈した状態で退部の話を切り出そうとすると、先ほどまで沈黙を貫いていた少女が突然立ち上がり、伴弘を超える轟音をその両手から生み出していた。


「ど、どうしたのじゃ千晴……」

「……普通にびっくりした」


 二人がそう呟く中、千晴の冷厳を示す視線がここまでの雰囲気を無に帰した。文藝部を居場所だと言っていた彼女にとって、俺の決断は容易に受け入れられるものではなかったみたいだ。


「うちは反対。もちろん、今の会長は好きになれないしやり方だって極端で納得してない。でも、あらゆる可能性を試さずに廃部覚悟で抵抗するのだって極端。それでもやるの?」


 千晴の言葉を聞いてもなお、一条先輩と伴弘は頑なに実行を訴える。なにを言われようと、自分の信念を曲げる気はない二人にとって、至極当然の反応だった。


「……あっ、そう。分かった。じゃあ好きにやりなよ。うちも好きにやらせてもらうから」


 もう話すことはないと言って荷物を持ち、部室を去っていく千晴。先輩や伴弘と同じくらい迫力があった。彼女もまた、自分の信念を曲げる気はない人間なんだろう。


 ……俺を除く三人は、自分の信念のためにその身を捨てられる覚悟があるみたいだ。

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