最終話 勇者(カケル)と魔王(ルト)
「どうデスか、着心地の方は?」
「おお……。すげえ、ぴったりだ。採寸なんて一度もしてないはずなのに、よくこんな凝った服が作れたもんだなあ。素直に感心するわ」
「うちの被服スタッフは優秀なので。それに採寸ならカケルさんがワタシの病室で療養していた頃に測っておきましたから。そりゃもう、アナタのウエストからムスコさんのサイズまでバッチリ把握してますヨ。ソーセージで喩えるなら『ウイ◯ー』程度の大きさのムスコさんを」
「オレが寝ている間にそんな事してたのかお前!? つーか『ウイ◯ー』じゃねぇし! 『シャ◯エッセン』くらいはあるし!」
とある一室でのやり取りだった。
いくつものタンスや裁縫道具があちらこちらに並んでいる中、一見しただけで高価とわかる豪奢な姿見の前で、カケルは自分の見慣れない格好に眉をひそめていた。
「しっかし、ずいぶんと堅苦しい衣装だなあ。これじゃあ野山でいくつもの罠を掻い潜りながら突っ走る事なんて、到底出来そうにないな」
「そんな鬼を倒すためのような修行をその格好でやる必要なんてどこにありませんから。そもそも婚礼衣装で暴れないでくださいヨ。せっかく良い素材を使用してカケルさん専用に仕立てたんデスから、その努力を無駄にしないでもらいたいデス」
婚礼衣装。
そう──今カケルは、この後に行われる儀式──魔王城で古来より受け継がれている夫婦の儀に備えて、婚礼衣装に身を包んでいた。
上は何かしら複雑な紋様が彩れた、さながらロングスカートのようにふわっとした質感の黒のコート。中は襟詰の白のシャツを着ており、首に緩く灰色のマフラーを巻いていた。
一方下は、コートの裾が足首近くまで伸びているせいで見た目ではわかりづらいが、上と同じ黒色のぴっちりしたズボンを履いており、コートの上から細身のベルトを巻いているおかげもあってか、より皇族のような高貴さが際立っていた。あくまで衣装だけ見ればの話ではあるが。
そして最後の極め付けが、ベルトに下げられた短剣──それも一兵卒が持つような代物ではなく、いかにも高価そうな装飾がキラキラと眩いほどに施されている。きっとこういった式典などで、衣装の一部として使われている物なのだろう。絶対庶民が手にできる品ではない。
それにしても。
てっきり婚礼衣装と聞いて、一般的な結婚式で着られるタキシードのようなものを想像していたのだが、実際に見てみたら思っていたよりずっと特徴的だったというか、どごぞの民族衣装だった。ヨーロッパとか、そのあたりで着られていそうな感じの。
ただ、唯一西洋とは違うというか、異世界ならではの独特な点もあったりして──
「なあ、なんで裸足なんだ? こういう場合、ブーツとか革靴を履くもんじゃねぇの?」
「そういう習わしがあるんデスよ。それこそワタシが魔王城に勤める前よりずっとずっと以前から。それと裸足でいるのはちゃんと意味があって、皆の前で何も履かない──つまり嘘を吐かないっていうのを掛けているんデス。要は言葉遊びのようなものデスね〜」
「履かない──嘘を吐かない、か……」
なんとなく、今頃カケルと同じように別室で婚礼衣装に着替えているであろうルトを想起する。
ルトを愛している事に偽りはない。夫婦になる覚悟だってとっくに出来ているし、何なら神の前で命を掛けて守ると誓っていいくらいだ。
だが、それはそれとして別の問題があるというか何というか──
「……これから大勢の魔族のいる前で夫婦の儀式をやるんだよなあ。どうしよう、緊張でぽんぽん痛くなってきちゃった……」
「ぽんぽんって。幼児かデスかアンタは。長男なんデスから、それくらい我慢してください」
「え、何その謎理論」
確かに長男ではあるが。
「そんな事言われてもさー。ただでさえ人間で元勇者ってだけでも嫌われてるのに、魔族の王を大勢の前で娶るんだぜ? 絶対ヤジを飛ばしてくるよ。むしろ殺意の波動を飛ばしてくるよ……」
「大事な式典でそんな愚かな真似をする輩なんていやしませんヨ。それこそ、魔族の皆が崇拝してやまない我らがルト様の前で。まあ、心中で呪詛くらいは呟いているかもしれませんけれど」
「ほらあ! やっぱりそういう奴もいるんじゃん! やだやだ怖い! 助けてミラえも〜ん!」
「人を猫型ロボットみたく呼ばないでくださいヨ。言っておきますが、秘密のポッケで何でも叶えるなんて不可能ですからネ。ワタシに出来るのは、せいぜいのび太君の髪型をスネ夫ヘアーにさせる事くらいデス」
「え、それはそれですごくね?」
ほぼボウズのような髪型なのに、あそこからどうやって横に直角なヘアースタイルを作るというのだろう。いや、そもそもスネ夫の髪型自体が物理法則に反している気もしなくもないが。
「ていうか、今さら何を怖気付いているんデスか。ルト様と共に生きると決めた以上、いずれこういう機会が訪れる事はとうにわかっていた事でしょうに」
「それはそうなんだけどさー。いざとその日が来たらやっぱり緊張するっていうか、頭が真っ白になりそうというか……」
「頭が真っ白って、もしや儀式中の段取りなんかも全部忘れたわけじゃないデスよね?」
「それは今までさんざんお前に叩き込まれたから大丈夫だけどさ、もしかしたら儀式中に何かトチるかもしれん……」
「情けないデスねー。男ならどっしりと構えてくださいヨ。そんな事だから、いつまで経ってもアナタのムスコさんも真性のままなんデスよ。少しはルト様と出会った頃より成長したものだと思っていたんデスけれどねー。正直残念デス」
「真性じゃねぇし仮性だし! それと、オレなりに努力だってしてんだぞ!? 最近だって『デュランダル』をすぐ召喚できるようになったし!」
詠唱中はあらゆる攻撃を無効化(ルトのような規格外の存在を除いて)できるとはいえ、その間は何も動けないし、敵に態勢を立て直す余裕さえ与えてしまうデメリットが、かねてより聖遺物召喚にはあった。
そこでカケルは敵の強襲にも対応できるよう、密かに詠唱時間を短縮する修行をしていたのだ。そのおかげで今は『デュランダル』の名を呼ぶだけで召喚できるようになったのである。
「そんな事言われましてもネ〜。ワタシは聖遺物を所持していませんし、そもそもそれがどれくらい大変なものかわからないので、何もコメントできませんヨ。まあ努力自体は買いますけれど、私的には精神面の成長を見せてもらいたかったところデス」
「ぐぬぬ……っ」
思わず歯噛みするカケル。正論過ぎてぐうの音も出ない。
「くそっ。こうなったらわかりやすく筋肉を付けるべきだったか。肩の僧帽筋にスイカを乗せて割るくらいのマッチョマチョに……!」
「ボディービルダーにでもなる気デスかアンタ。まあどうしてもと言うなら、すぐに筋肉が付く薬を投与してあげてもいいんデスが」
「マジで!? どんな薬よ!?」
「『キャシャリン』という名の筋肉に直接投与するタイプの薬なんデスが、投与すればたちまちムキムキになれますヨ? その代わり副作用ですぐに痩せてガリガリになったり、突然『オクレ兄さん』と叫んでしまうような幻覚作用もあったりしますが」
「完全に
あれは医療行為であって、決してニンニク注射のような栄養補給を目的としたものではなかったはずなのだが。というか医者のくせして、なぜそれくらいも知らないのだ。
「そもそもの話、ムキムキのマッチョを好む女子なんて一部しかいませんヨ。大抵は引きまス」
「え、そうなの? オレはてっきり女の子はみんなムキムキのマッチョが好きだとばかり……」
「──あら。あたしは好きよ? ムキムキマッチョな男の子」
と。
不意に開け放たれたドアから、修道女のような神聖な格好(これも変わった紋様が刺繍されている)をした銀髪美女が、二人の会話に割り込む形で声を掛けてきた。
「先代様じゃないデスか。もう準備の方はよろしいんデス?」
「あたしの方わね。ほら、着替えもバッチリ」
言って、銀髪の美女──フレイヤは、修道服に似た衣装を身に纏ったままその場でくるりと一回転した。
「それにしても、あたしが儀式の司祭役をするなんてねー。てっきりミーちゃんがやるものかと思っていたわ」
「ルト様たっての希望でしたから。それにワタシではその衣装は似合いませんしネ。胸元がパックリと空いちゃってますから」
そうなのだ。
フレイヤが今着ている衣装──見た目は修道服に似ているが、その胸元だけは扇状的に谷間を晒しているのである。
確かにこれでは、ミランの体型では似合いないだろう。なにせ奴はホライズン胸──
「しょうちしタ。キサマはきル」
「エスパー魔美か!?」
「いや、魔美はいらんでしょうが。というか、カケルさんの考えそうな事なんて、エスパーじゃなくてもまるっとお見通しデスよ」
さすがはミラン。これまで何度もカケルとボケツッコミの応酬をしてきただけの事はある。
「まあ、これにも意味があるんデスけれどね。胸の部分に切り込みを入れる事で、心を開いて祝福していますよって暗に示しているんデス」
「『心を開く』かー。裸足の件といい、色々考えてあるんだなあ」
「今回の儀式に限らず、昔からある祭事なんて大抵そんなものデスよ。一つ一つの言動や物に意味を含ませてゲンを担ぐのなんて、さして珍しい風習でもありませン。蛇の抜け殻を財布に入れておくと金運が上がるというのも、蛇が何度も脱皮して無限に増える事から由来しているみたいデスし。お金が大好きな日本人らしい発想デスよね〜」
「なるほどなあ……ってお前、今はっきり『日本人』って言ったよな? 間違いなく言ったのよな? やっぱお前、オレが元いた世界の関係者だろ」
「……カケルさん」
「なんだよ」
「そういうご意見は事務所を通してからでないと困りまス。ほら、『こりん星』と同じデスよ。こういうのはオバサンと言われるような歳になってから暴露した方が面白味が増すんデス」
「それもう自分でキャラ付けだって認めているようなもんじゃねぇか。つーか『こりん星』とか今の中高生には絶対通じないネタを出すなよ」
「ふふ、相変わらず仲の良い二人ねー」
と、それまで二人の会話を黙って聞いていたフレイヤが、我慢できなくなったと言わればかりに失笑を零して言葉を発した」
「気付いてなかったでしょうけど、外からもあなた達のはしゃぎ声が聞こえていたくらいなのよ? 『貴方がわたしを好きになる自信はありませんが、わたしが貴方を好きになる自信はあります』とか『俺を好きなのお前だけかよ』とかなんとか色々ね」
「いや、そんなラブコめいた会話はしてませんから。ええ、一切合切微塵たりとも!」
「ワタシもカケルさんと同意見デス。この人とそんな仲になるくらいなら、首を掻き毟って死んだ方がマシなくらいデスよ」
「お前はもう死んでいるだろうが」
それこそ、そんな雛見沢症候群の末期症状になるよりずっと前から。もしかして、ミランならではのゾンビギャグだったのだろうか? しょうもないわ〜。
「あたしには、すごく仲良しさんに見えるんだけれどね〜。まあいいわ、話を戻しましょう」
そう言って、フレイヤはドアを閉めて、室内へと優雅な歩調で入ってきた。
「さて、あたしが具体的にどの筋肉が好きなのかと言うと──」
「あ、そっちの方まで戻るんですね……」
「え? だって最初は筋肉の話だったでしょう? おかしな事を言うわねー」
「ええ、カケルさんは(頭が)おかしいデス」
「おいこらミラン。お前今、余計な言葉を付け足しただろ?」
小声で呟いたつもりだったのだろうが、はっきりと唇の動きを見て確信を得た。こいつは隙あらばこっちをバカにしてくるので油断ならない。
「そうじゃなくて、儀式の方ですよ。その、フレイヤさんは以前にも同じ経験をされているんですよね?」
もう筋肉の話はおしまいなのー? と残念そうに眉尻を下げるフレイヤだったが、嘆息をついたあとにやれやれと言わんばかりに肩を竦めて質問に答えた。
「ええ、経験ならあるわよ。もっとも前にやった時は祝われる側で、こうして司祭をやるのは初めてだけどね」
「それってどんな感じだったんですか? やっぱり大勢の前で祝ってもらったとか?」
「まあそうね。言っても厳粛な式だし、バカ騒ぎするような事まではしなかったけれど」
あたしは酒盛りとかしたかったんだけどねー、と豪胆な事を言いながら、フレイヤは話を続ける。
「だからと言って、カケル君の時までそうなるとは限らないわよ? 何せ今回は人間が魔王と契りを結ぶっていうのだから。表立って騒ぎは起こさないでしょうけど、裏で暗殺しようと画策している奴がいてもおかしくはないわね」
「暗殺って……」
ミランも似たような事を言っていたが、さすがにそこまで物騒な単語は出さなかった。それだけ人間に対して──とりわけ勇者に対して悪感情を抱いているという事なのだろう。
「仕方がないわよ。
「…………」
思わず口を閉ざすカケル。千年近く前に起きた戦争はともかくとして、現状は人間に攻められてばかりでこちらから手を出さないままでいるし、いくら歴代から続く魔王の方針とはいえ、鬱憤が溜まっている魔族がいてもなんら不思議ではない話だった。
いわんや、それが魔王の天敵である勇者ともなればだ。
それこそフレイヤの言う通り、カケルの暗殺を企てている奴がいても不思議ではないくらいに。
「大丈夫デスよカケルさん。間違って暗殺なんてされないように、ルト様も裏で色々動いてらっしゃるのデスから」
と、先ほどからよくない想像ばかり頭に巡るカケルに対し、ミランはいつになく優しげな口調で話しかけた。
「先代様に司祭役を頼んだのも、そういった不穏な動きを牽制するためでもあるんデスよ。先代様の前で──何より愛娘の大事な儀式中に狼藉を働こうものなら、一種で消し炭デスよ。デスよね、先代様?」
「ええ、汚物は消毒よ」
言って、フレイヤは指先に
「ワタシも事前にいくつか監視用のアイテムを仕込んでおきましたし、万に一つでもカケルさんに危険が及ぶ事は絶対にありませン。そもそも本当に暗殺なんてしたら、この闇の大陸ごとルト様の手で沈められかねませんしネ。連中もそこまでバカではないでしょウ」
「え、ルトってそこまで規格外だったの……?」
ジャンプ系バトル漫画にでも出てきそうなラスボス設定だった。泣いてる場合ではないほど、ハチャメチャが押し寄せてきそうだ。
「ていうか、先代様も先代様で何を余計に不安がらせているんデスか。ただでさえこの人、式を前にして緊張しているんデスから」
「ごめんなさい。カケル君を見てると、どうしてもいじめたくなっちゃうのよ〜」
テヘペロと悪戯っぽく舌を出してみせるフレイヤではあるが、こちらとしては引きつった笑みでしか応えられなかった。
やっぱりこの人は苦手だ。初対面時にさんざんトラウマを植え付けられたせいもあるが、フレイヤが元々持っていた性質なのか、やたらドS過ぎて怖いのだ。一体自分の何がそんなに嗜虐心を擽るというのだろうか。
「まったくこの人は……。儀式の時はちゃんとしていてくださいヨ。全体を見渡せるのは司祭であるアナタぐらいしかいないんデスから」
「かしこま☆」
「『かしこま☆』じゃねぇヨ。もっとご自分の年齢と見た目を考えてくださイ」
ギャルっぽく横ピースするフレイヤに、厳しめのツッコミを入れるミラン。
前々から思っていたが、この二人、ひょっとして旧知の仲だったりするのだろうか。でなければ、こんな気安げな会話なんてできないだろうし。
「ところで、ルト様の様子はどうでしたカ? 同じ部屋で着替えていらっしゃったんデスよね?」
「ルーちゃんなら落ち着いたものだったわよ。魔王だけでなく母親という立場にもなって、芯から凛としてきた感じね。ちなみにルーちゃんの婚礼衣装に関してはまだ秘密にしておくわね。カケル君もその方が楽しみが増えるでしょうし。良かったわねー、カケル君。あんな可愛い女の子の旦那さんになれて」
「それは、まあ、はい」
ルトが可愛いのはカケルが誰よりも知っている。何せこちらは
フレイヤの言った通り、ルトがどういった衣装を着るのかは知らされていないままだが、さぞや美しい姿に違いない。
「おや、少しは元気が出てきたようデスね」
「……まあな。だんだんと吹っ切れてきたというか、ルトの話を聞いたら少し緊張がほぐれた」
さすがはルト──花嫁姿を想像しただけでテンションが上がるなんて、よく出来た嫁だ。惜しむらくは、こちらの婚礼衣装ではなく、カケルがいた世界のウエディングドレス姿も見たかったものだ。
「ところで、儀式ってどこでやるんだ? だいたいの雰囲気とか広さはそれとなく聞いてはいるけど、具体的な場所に関してはまだ聞いてないぞ?」
「ああ、そういえばまだ伝えていませんでしたネ。儀式の場所なら、城内にある
「? 内魔殿って?」
「歴代の魔王を祀っている神殿のようなものよ」
と、カケルの疑問に、今度はフレイヤがミランに代わって答えた。
「魔王が婚姻する際は、代々その内魔殿で儀式を行う習わしになっているのよ。初代魔王の時のような
「過ち……ですか」
フレイヤの言葉を重々しく繰り返すカケル。
フレイヤの言う『過ち』とは、人間を憎むあまり歯止めが利かなくなってしまった初代魔王の所業の事を指しているのだろう。
初代魔王の伴侶が人間達に殺され、その憎悪で人間と魔族との間で決定的に軋轢を生んでしまった悲しき過去。今日まで語り継がれ、そして今なお続く人間と魔族の対立。
そういう意味では人間、魔族双方に問題があったと言えるが、初代魔王が踏み止まってさえいれば、確かに
まあそれは結果論でしかないし、そもそも今となっては人間達が勝手に難癖を付けて利権を貪ろうとしているだけなので、もはや人間側に肩入れする理由なんて微塵もないが。
「誓いと言ってもそれほど大した事はしないわよ? 祭壇の前で誓いの言葉を述べるだけだから。それはカケル君も知っているわよね?」
「あ、はい。何度もミランと練習したので」
それこそ、入学式とか卒業式の前にやるような段取り確認みたいな感じで。
もしかして日本の結婚式とかも、こんな練習を事前にしていたりするのだろうか。ただでさえ大金が必要になると聞くのに、新郎新婦も何かと大変である。いや、自分も似た立場ではあるのだが。
「そう。なら、まずは一安心と言ったところかしらねー」
言いながら、フレイヤはおもむろにカケルの横まで歩み、そっと耳元でこう囁いた。
「あとは、カケル君の懐にある物をどうにかしてもらうだけねー」
その心の臓を抉るような一言に。
カケルはビクッと肩を跳ねさせながらも、どうにか悲鳴を呑み込んだ。
対してフレイヤは、ニヤリと邪悪に微笑んで、そのまま何事もなかったように踵を返した。
「じゃあ、あたしはもう内魔殿に向かうから。ミーちゃん、あとはよろしくね〜ん」
「……? あ、はい。わかりましタ」
軽く挨拶を済ませて退室するフレイヤに、ミランは眉をひそめながら肯く。どうやらフレイヤの囁き声だけは聞こえずに済んだようだが、カケルの様子がおかしいのを見て訝しんでいるようだった。
そんな無言で怪訝な視線を向けるミランに構う余裕もなく、カケルは苦渋の表情で懐にある物を服の上から撫でた。
◇◆◇◆◇◆
フレイヤが言っていた通り、今回の儀式の舞台である内魔殿は城内の最上階付近──普段カケルやルトが使用している階層から少し離れた位置にあった。
しかもそこはいつも鉄扉で固く施錠されているらしく、ルトかフレイヤしか鍵を所持していないという話だった。さすがは歴代魔王が祀られているだけの事はある。
内装は魔殿というだけあってか、物々しくも豪奢な造りになっており、所々に職人の技というか、柱や壁の一つ一つに彫り込みやアーチなど様々な技巧が施されていた。さながら隠しダンジョンの最奥に潜む裏ボスの住処のようだ。全体的に石造りで、所々に悪魔じみた石像が設置されているせいで、余計魔境じみた雰囲気を醸し出しているのもまた恐怖をそそる。
ただ唯一救いを言えば、いくつかの窓が大きめのステンドグラスとなっており、日差しが少ないこの地でしっかりと明かりが照らされていた。もしかすると魔法か何か全体を明るくしているのかもしれない。
と。
ここまで魔族が集まる前に少しだけ全体を眺めた時の話ではあるのだが、今のカケルは内魔殿の奥──言うなれば舞台袖の方で待機していた。
ちなみにフレイヤはすでに舞台上に立っており、歴代の魔王が祀られている石碑の前にスタンバイしているらしい。きっと今頃、今か今かとカケルとルトの登場を待っている事だろう。
一方のカケルはというと、カーテンで仕切られた廊下でずっと深呼吸を繰り返して気持ちを落ち着かせていた。
「コオォォォォォ……! コオォォォォォ……!」
「いや、どんな深呼吸なんデスかそれ。水面でも歩くつもりデスか」
と、奇怪な呼吸を繰り返すカケルに、半眼でツッコミを入れるミラン。
本来なら儀式が始まるまで召使いなどが新郎新婦の身の回りの世話をしてくれるそうなのだが、今回は特殊な例(婚約相手が人間)というのもあって、ミランがお世話役としてカケルと一緒に舞台袖まで付いて来てくれたのだ。
「き、緊張してるんだよ〜っ。察してくれよ〜っ」
「ワタシにはギャグが言えるくらいの余裕があるように見えてなりませんが?」
そんなわけあるか。ただいつもの芸人魂で緊張している中でもギャグを飛ばしてしまっただけだ。
「というか、ちょっと前に緊張が取れたとか仰っていませんでしたカ?」
「もうじき儀式が始まると思ったら、また緊張してきたんだよ〜。足もプルプルだよ〜」
「情けないデスねー。ここまで来たなら、いい加減覚悟を決めてくださいヨ」
「そう言われてもさー……」
などと応えながら、暗幕の向こうに大勢いるであろう魔族達の姿を想像して、カケルは身震いした。
「あ、だめ。この向こうに魔族達がいると思ったら腰が抜けてきた……」
「しっかりしてくださいヨ。それでもアンタ、数々の強敵を倒して魔王であるルト様の元まで辿り着いた勇者デスか」
「それとこれとは話が別だっつーの! あの時はただ目の前の敵を倒せば済む話だったけど、今度はその敵の前で魔王との婚儀をするんだから!」
「お気持ちはわからなくもないデスけどね」
そう溜め息混じりに呟きつつ、「ただ」とミランは続ける。
「これからはその魔王様と一緒にこの城を守る立場になるんデスよ? 何もこの城にいるすべての魔族を従えるようになれとまでは言いませんが、せめて威厳くらいは持ってくださいヨ」
「そんな簡単に威厳なんて持てるかよ……。今まで人の上に立った事すらないのに……」
この場合「人の上」というか、「魔族の上」になると思うが。
「じゃあせめて虚勢でもいいからしゃきっとしてくださいヨ。そんなヘタれた姿で皆の前に立たれては、示しが付きませン。それとも、このまま皆の前に出て、ルト様に恥をかかせるおつもりなんデス?」
「ぐっ……。わ、わかった。努力する……」
「ええ、ぜひそうしてくださイ。それに着替えの時にも話しましたが、暗殺される心配なんて全然ないんデスから。仮に突然襲われても、ちょこっと
「
こいつは安心させたいのか心配させたいのかどっちなんだ。
「まあ、なんにせよ──」
言いながら、ミランは不意にカケルのそばに立ち、甲斐甲斐しく婚礼衣装の乱れを丁寧に直し始めた。
「紆余曲折あれ、あのルト様が伴侶として認めた方なんデスから、もう少し堂々としていてもバチは当たらないと思いますよ。ワタシだって、なんだかんだでカケルさんならルト様を任せてもいいと思っているんデスから」
「ミラン、お前……」
「アンタみたいな超ド級のバカタレ、世界中どこ探してもいないデスもん」
「ミラン、てめぇ」
先ほどまでの感動を返せ。
「いえ、これでも褒めているんデスよ?」
「どこがだよ? 完全にディスってたじゃんか」
「だって、カケルさんがおバカだったおかげで、ルト様は救われたのデスから」
その言葉に、膨れっ面だったカケルも虚を衝かれたように目を瞬かせた。
「先代様も言葉がキツい時もありますが、そういった意味ではちゃんとアナタの事を認めていたりするんデスよ? ま、去り際に何かまた余計な事を仰ったようデスが」
思わずギクリとするカケル。
てっきりどうにかはぐらせたと思っていたが、しっかり勘付かれていたらしい。
「心配せずとも詮索するつもりはありませんヨ。ワタシも口ではああ言いましたが、やはり魔族の王との婚儀ともなれば、たとえカケルさんみたいに元勇者でなくとも、少なからず迷いは生じてしまうものでしょうから」
「ミラン……」
「はい。男前になりましタ」
そんなおばちゃん臭い事を言って、ミランは最後にカケルの肩に付いていた埃を払い落とした。
「アナタなら大丈夫デスよ。確かに城内にいる魔族に認められるのは時間が掛かるでしょうが、それでもカケルさんでしかルト様の隣には並べないんデスから。いつか皆さんもわかってくれる日が来ますよ」
「来るかな。そんな日なんて……」
「きっと来ますヨ。少なくとも、ワタシはそう信じていまス」
「祝え、同胞達よ。今この時、魔王の伴侶が現れる瞬間を──」
と、不意にカーテンの向こうから、フレイヤの甲高い声が聞こえてきた。ついに婚儀が始まってしまったのだ。
「さて、出番が来たようデスね」
そう言って、ミランはカケルから距離を取った。
「ワタシが付いてあげられるのはここまで。あとはカケルさん次第デス」
ミランがまっすぐカケルを見据える。こんな真摯な表情を見せたのは、アレスが攻めてきて一緒にルトを助けに行こうとした日以来かもしれない。
「自信を持ってくださイ。アナタはバカはバカでも、世界すら敵に回せるバカなんデスから。そんな人でもない限り、ルト様を幸せになんてできやしませんヨ」
「いまいち褒められている気がしないな……」
だが。
「ありがとよ。ちょっとだけ勇気を貰えた」
「はい。お礼は十億でいいデスよ?」
「ああ、ジンバブエドルで払ってやるよ」
「ゴミ屑同然じゃないデスか」
お互いにクスリと笑う二人。やはり自分達は、こんな風にくだらないやり取りをするくらいの方がちょうどいい。
「じゃあ、ちょっくら決めてくるわ」
「はい。行ってらっしゃいまセ。──旦那様」
冗談混じりに見送るミランに、カケルはフッと笑みを零してカーテンの前に立つ。
そうして、瞑目して心を落ち着かせたあと、意を決してカーテンをくぐった。
殺意。
それは悪意なんて単語では生温いほど、舞台外から多くの殺意がカケルに向かって飛んできた。
さながら視線の雨──全身が射抜かれるような錯覚に捉われるほど、皆の視線が痛い。明確にヤジを飛ばされたわけではないが、誰もがカケルを前に「くたばれ」などが「消えろ」などと小声で囁き合っていた。
魔族達のいる舞台外からここまでは距離もあるし、小高い壇上にいるせいもあってすぐに襲われる心配はないが、しかしながら所狭しと集まる魔族達──それこそどれだけの数がいるかもわからない殺意の集合体に、カケルは思わず体を硬直させる。
いや、ビビるな。泰然としていろ。皆の前で醜態を晒すのだけは絶対に避けろ。段取りを忘れるな。
そう自分に言い聞かせて、カケルは前方を見据えて胸を張る。その前方にはカケルが今し方出てきた所と同じようにカーテンで仕切られており、中は窺えない仕様になっていた。きっとあのカーテンの向こうでルトも待機している事だろう。
チラッと横目で舞台中央を窺ってみると、見るからに荘厳な石碑──まるでピラミッドみたいな菱形状の黒々とした巨大な物体の前で、フレイヤが毅然とした物腰で佇んでいた。
あんな物静かなフレイヤを見るのは初めてだ。着ている服が修道服に似ているせいもあって、なんだか本当にシスターに見える。さすがに今回は司祭役というのもあって、至極真面目に式を進行するつもりでいるようだ。
「さあ、次なるは我らが主役──この世すべての美と力と才を集約せし魔族の王のお披露目である!」
フレイヤが左手を上げて口上を述べる。フレイヤが左手に指したカーテンの向こうで、何かが動いた気がした。おそらく、ルトの付き人がカーテンを開けようとしているのだろう。
いよいよだ。
この緊張と不安だらけの舞台の上で、唯一の楽しみとも言えるルトの花嫁姿が。
やがて、勿体ぶるように徐々に開かれていくカーテン。果たして──
絶世の美少女が、そこにいた。
紫色のレースに、胸元と袖口に特殊な刺繍が施されている華美なドレス。腰元に羽衣のような薄生地の布を靡かせ、その足元はカケルと同じように裸足ながらも、爪にピンクのマニキュアを付けていた。
そして当然のように顔にもメイクがされていたのだが、あくまでも素材を活かす形で──しかしながらナチュラルになり過ぎない程度に絶妙な化粧が施されていた。
息が止まるような美しさとはまさにこの事か。それはカケルだけでなく舞台外にいた魔族も同じで、皆揃いも揃って言葉を忘れたように陶然としていた。
いつもは童顔なせいもあって幼く見える姿も、今や優艶な雰囲気を漂わせているせいもあって、ますます魅力的に映る。それと妊婦であるルトの体型も考慮してか、傍目には妊娠しているとは思えないほどにドレスも所々に工夫がされていて、いかにルトが魔族達の間で大切に扱われているのか、重々に理解できた。
普段から可愛いとは思っていたが、まさか着飾る事でここまで大変身するとは。今夜はもう、ルトの姿ばかり脳裏に浮かんで眠れないかもしれない。
そんなルトではあるが、少し照れたようにはにかみながら、じっと直線上にいるカケルを見つめていた。ルトはルトで、カケルの婚礼衣装を見てカッコいいと思ってくれているのかもしれない。自惚れかもしれないが、今のルトの表情を読んで、そう思わせるだけの予感めいた何かが、カケルにそう告げていた。
「双方、己が前へ。そして石碑に宿りし王達の魂の前で、誓いの言葉を──」
フレイヤの指示に、ルトが楚々とした足取りで舞台中央へと歩いていく。
そうして、カケルも前に出ようとして──
足が、一歩も前に出なかった。
前に出ようにも足が鉛のように重く、どうあっても言う事を聞いてくれない。まるで自分の体ではなくなったかのようだ。
なぜ。どうして。声に出して己の足に罵倒しようにも、その声すら掠れて単なる吐息しか出せなかった。
もしかして、臆した? ルトを前にして足が竦んでしまったとでも言うのか?
情けない。あれだけミランに背中を押してもらったのに、こんな重要な時にまでヘタレてしまうなんて。羞恥と悔しさで今すぐ消えてしまいたいくらいだ。己を自戒するように握りしめた拳の中で、爪が肉に刺さる痛みでさえ、自分みたいなチキン野朗にはなんの罰にもなる気がしなかった。
少しは成長したとばかり思っていたのに、結局自分は何も変われていないのか。ルトの妊娠が発覚して、彼女に言われるがままに魔王城を去ろうとした、あの時の情けない自分のままなのか──
「カケル」
と。
不意にルトから名前を呼ばれて、カケルは顔を上げた。
ルトが、目の前で静かに微笑んでいた。
何も心配していないと言わんばかりに──先ほどから一歩すら踏み出せないでいるカケルを前にして、両手を優しく差し出していた。
それはまるで、初めて立ち歩きをした幼子を待つ母親のようで。
もしくは、夫の帰りを玄関先で待っていてくれたような良妻のようで。
泣きたくなるほど、心が震えた。
本当に何も疑っていないのだ。カケルが来る事をただ純粋に信じているのだ。
「やっぱすげぇな、あいつは……」
それまで出なかったはずの声が、何事もなかったかのように自然に出た。
一体自分は何をしているのだろう。あんな最高の妻を前にして、何も不安がる必要なんてなかったのに。
本当に、自分はどうしようもないバカ野朗だ。
「──来い、聖剣『デュランダル』」
と。
カケルはその場で、聖遺物召喚──それも詠唱を大幅に短縮してデュランダルを喚び出した。
そして、何事かとざわつく魔族達を意に介さないまま、カケルは懐からある物を取り出した。
それはアリシア──この異世界に喚び出した張本人の一人である一国の姫様から渡された、交信用の小さな円鏡だった。
実を言うと、これまでずっと懐に忍ばせてあったのだ。フレイヤにはばっちり見抜かれていたようだが。
本来なら、フレイヤに最下層まで呼び出されて忠告された時点で、捨てるなり何なりすべきだった。
それでも今日まで捨てきれなかったのは、この円鏡を捨てたら最後、自分の帰れる唯一の居場所が無くなってしまうようで、どうしても捨て切れなかったのだ。
それに、これにはカケルの生存を知らせる機能がある。つまりこの円鏡を壊せば、すなわちアリシア達に自分の死を知らせるも同然な行為となる。それがどうしても嫌だったのだ。
自分に好意を寄せてくれている女の子に──たとえもうこちらにその気が無くとも、自分を好きでいてくれている女の子に唐突な死の知らせで悲しませるなんて、あまりにも辛いと思っていたから──
この瞬間までは。
今は違う。もう自分には、ちゃんと居場所がある──心からこんな自分を慕ってくれる愛しい女の子がいる。
だから──
──すみませんアリシア様。そしてさようなら。どうかお幸せに。
そうして。
カケルは、手のひらサイズの円鏡を突如頭上高く放り投げ──
それを、デュランダルの一撃で粉砕した。
頭上でキラキラと舞い散る円鏡の欠片──その中をカケルは裸足で歩き出した。
ザクザクと足の裏に刺さる鏡の破片を物ともせず。
これは最後の自戒だ。そして今日までの情けない自分に別れを告げるための覚悟の証明だ。
──もう二度と迷わない。
──オレは、ルトと共に生きる!
そんな何かが完全に吹っ切れたように堂々とした歩みを見せるカケルに、一瞬声を上げて駆け寄ろうとしたルトではあったが、すぐに口を閉ざしてその場に留まった。
本当は血だらけになって歩くカケルが心配でならないはずなのに、それでもいじましく待ってくれているルトの姿に、カケルは次々に走る痛みも忘れそうなほど心が癒される思いがした。
いつしか、場が水を打ったように静まり返っていた。最初は意味不明な行動を取るカケルに戸惑いの声を上げる魔族達も、今や視線を奪われたようにその成り行きをじっと見つめていた。その手に握っていたデュランダルも無き今、裏切りのような危険はないと判断したからなのだろう。それ以上にカケルの行く末が気になると言わんばかりに、誰もが無言で直視していた。
フレイヤの方はというと、カケルの突然の行動に少し驚いたように「ひゅう♪」と小さく口笛を鳴らしていた。きっとカケルが何らかの形でケジメを付ける事は予想していたのかもしれないが、こうなる事までは予想外だったのかもしれない。結局最後まで手のひらの上で遊ばれたような気分だが、せめてその意外そうな顔を見れただけでも良しとしておこう。
ミランの方はどうだろう。背中を向けているのでどんな顔をしているかはわからないが、案外驚いているより、カケルが最後の未練を断ち切った事に喜んでいるかもしれない。あいつは口は悪いが、なんだかんだで性根は優しいのだ。周りが自分に悪感情を向ける輩の中で、唯一心から信頼できる友人が持てて嬉しく思う。願わくば、これからもそっと見守っていてほしいものだ。
やがて、カケルはルトのそばまで辿り着いた。
あとは練習通りにやるだけだ。大丈夫。何も心配はいらない。ここには信頼できる友人も、そして愛する人もいるのだから。
そうして、そのまま血の付いた裸足を拭う事もせず、その場で短剣を抜いて片膝を付いた。
「今ここに、私は貴方の手となり足となり、剣となり盾となり、この身を捧げて生涯を支え、そしていついかなる時も貴方のそばから離れず守りきる事を、ここに堅く誓います」
短剣をルトの前でかざし、カケルは何度も練習したセリフを淀みなく発する。
対するルトも、そんなカケルに応えるように、目の前にかざされた刃にそっと手を添えた。
「我に忠誠と愛を誓いし者よ。そなたを我が伴侶と認め、生涯添い遂げる事をここに誓う」
ルトの言葉を聞き終え、カケルは静かに立ち上がった。
目の前には、ルトの幸せそうな顔。
この顔を見ているだけで、カケルの胸の中が温かな気持ちで満たされる。幸せな思いが溢れ返ってくる。
ルトが目の前で微笑んでくれている。
それだけでいい。ずっと永久にこの笑顔さえ見られればそれでいい。
この笑顔を守れるなら何でも出来る。何だってやれる。
カケルにとって、それがすべてだから──
「今ここに、しかと誓いの言葉を聞き届けた。最後に皆の前でその証を見せよ!」
フレイヤが高らかに両手を広げて告げる。まるで己が高ぶりを抑えられないと言わんばかりに。
互いにそっと歩み寄るカケルとルト。カケルはルトの頬に手を添え、そしてルトもカケルの頬に手を伸ばす。
誓いの証──古今東西、たとえそれが異世界だとしても、式のクライマックスに愛し合う二人の証を見せる方法なんて、ただ一つだけだ。
「カケル、愛している」
「ああ。オレも愛しているぞ、ルト」
そうして、どちらからともなく顔を寄せたカケルとルトは、甘く優しい接吻を交わした。
いつしか、空まで届くような万雷の拍手が、二人の口付けが終わったあともしばらく鳴り響いていた──。
◇◆◇◆◇◆
微睡みの中で、誰かに名前を呼ばれたような気がした。
聞き慣れた、自然と安堵を覚える声音で。
その声に、それまで夢心地の中にいたカケルは、上空から差す眩い陽光に眉根を寄せつつ、ゆっくり瞼を開いた。
「──カケル。起きた?」
すぐ目の前にルトの顔があった。
夢──というより記憶の中で見た時よりも、少しだけ大人びた姿で。
その姿を見て、カケルはようやく今の自分の状態を思い出した。
そうだ。今日はいつになく天気が良かったから、散歩がてら魔王城の外にあるベンチの上──それも見渡す限り野原が広がる自然の中で、ルトに膝枕をしてもらっていたのだ。
「カケル、さっきまで泣いていたみたいだけど、大丈夫? 何か怖い夢でも見た?」
言われて、カケルは自分の頬に触れた。確かに少し湿っている。
「夢を──昔の夢を見てたんだ」
「昔の夢?」
「うん。オレとルトが夫婦になった日の」
カケルの言葉に、ルトは「そっか」と感慨深そうに視線を遠退かせて呟く。
「もうあれから七年も経つんだねー」
七年。
ルトに初めて出会った日も含めれば、八年も経つ計算になる。
「今まで色々あったからねー。カケルが泣いちゃうのも無理はないかも」
「辛い思い出ばかりというわけでもないけどな。どちらかというと懐かしさで涙が出た感じに近いかも」
ルトの言う通り、色々あった。
辛かった事も悲しかった事も。今でも後悔してもしきれない記憶だってある。
それでも先ほど口にした通り、悲哀に満ちた思い出ばかりというわけではない。むしろそれらの艱難辛苦を乗り越えて、今日の平和を掴み取ったと言っても過言ではないのだから。
何より、最もカケルの記憶を占めているのは──
「今日までずっと隣にルトがいてくれたからな。だから頑張れた──魔王城を守る事ができた」
「……私も、カケルがずっとそばにいてくれたから頑張れた。カケルがいなかったら、きっと今の平和はなかったと思う」
「全部解決できたわけじゃないけどな……」
平和と口にしつつも、今は人間と魔族の間で休戦協定を結んでいるだけだ。今でこそ魔王城に攻める人間はいないが、未だ世界のあちこちで人間との魔族の小競り合いは続けている。カケルとルトの努力、そして人間や魔族の協力を得てどうにか得た平穏だが、それもいつまで続くかわからない。小競り合い共々、今後の課題である事に違いはない。
「でも、昔に比べてこの大陸もずいぶん穏やかになった。それはきっと、カケルがいなかったら出来なかった事だよ?」
「それはルトも、だろ?」
「……うん。そうね」
カケルの言葉に、ニコリと微笑むルト。
「私、今すごく幸せだよ? カケルに出会えて、本当に良かった」
「ああ。オレもだよ」
この異世界に来たのは自分の意思ではないけれど。
こうして魔王──ルトと夫婦になるなんて、それこそ夢にも思わなかったけれど。
それでも、今は声に大にして言える。
ルトと出会えて良かったと。
ルトのそばにいられて、とても幸せだと──。
「それに、どんどんルトも綺麗になっていくしな。これから先も楽しみだ」
「……そういうカケルは、歯の浮くようなセリフを平気で言うようになった」
「嫌か?」
「い、嫌じゃないけど……。というか見た目も大人っぽくなって、すごく様になってると思う……」
照れたように顔を赤らめながら言うルトに、カケルは「ははっ」と笑声を零す。
夫婦になってから七年も経って、口調もずいぶんと柔らかくなったが、こういう照れ屋なところは相変わらずだ。そこがまた嬉しくて、いっそう愛おしく感じる。
「お父様ー! お母様〜!」
と。
野原の向こうで、自分達を呼ぶ声が聞こえてきた。
先ほどまで嬉々として野原を駆け回っていたはずなのだが、どうやら一人で遊ぶに飽きてきたようだ。
「カケル。あの子が呼んでる」
「ああ、そうみたいだな」
ルトに言われ、カケルはゆったりと体を起こす。
今日は例年にない青空──それも年に何度あるかもわからない晴天だ。たまには太陽の下で愛する我が子と遊び尽くすのもまた一興だろう。
「行こうか、ルト」
「うん、カケル」
カケルの差し出した手を、ルトが優しく掴んでゆっくりと立ち上がる。
そうして、視界の向こうで元気よく両手を振る我が子の元に、カケルとルトは手を繋いだまま笑顔で駆け出した。
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