第46話 スタンド・バイ・ミー
長い夢を見ていた。
それは元いた世界で家族と賑やかに団欒しているところだったり、異世界へと飛ばされたばかりの頃だったり、超人じみた能力に浮き足立って片っぱしから魔物を狩っている場面だったり、勇み足で赴いた魔王城でボッコボコに返り討ちにあった情けない思い出だったり、さまざまな光景がさながらアルバムを捲るように夢の中で目まぐるしく駆け巡っていた。
中でも、一番多かった光景は。
カケルの中で最も瞳の裏に焼き付いて離れない光景は──
『カケル』
茫洋とした真白の世界に一人ぽつんと佇んでいる少女が、儚げな微笑と共に正面にいるカケルの名を静謐さを漂わせる
その見憶えのある──否。決して忘れようはずもない愛しい少女にゆっくり手を伸ばしながら、「ま、おう……」とその名を呼びかける。
いや違う。そうじゃない。
魔王なんてただの別称だ。彼女の本当の名前ではない。
彼女の名前は、カケルが真に呼ぶべき名前は────
「ル──────」
不意に、その手が何かを掴んだ。彼我の距離までまだいくらかあるはずなのに、まるで壁にでも触れているかのような感覚が手のひらに伝わる。
瞼の裏を照らす仄かな光に、カケルは眩さを覚えつつもゆっくり視界を開けていくと──
そこにミランがいた。
しかも、何故か片手に持った注射器の針を目前に寄せて。
「あびゃあああああああああッ!?」
思わず飛び起きた上、FXで有り金をすべて溶かしたような大声を出してしまうカケル。
反してミランの方はと言うと、こちらは至って平常通りの無愛想な顔相で、
「おや、ようやくお目覚めデスか。カケルさん」
と、これまた無味乾燥な声音でそう呟いた。
未だ注射器を手に持った状態のまま、ではあるが。
「な、なんなんだよそれ! 一体オレに何をする気だっだよお前!?」
「何って、四日が過ぎても全然目を覚まさないものデスから、いい加減薬でも使って起こしてみようかと」
「薬って……。どうせまたステータス異常になるような危ない薬とかなんだろ?」
「失敬な。ちゃんとした薬デスよ。その名もズバリ『覚せい剤』といういかにも目覚めが良さそうな──」
「嘘吐けこの野郎! それ絶対別の世界に目覚める系の薬だろオイ‼︎」
それも、二度と元の世界には戻れない類いの。
というよりこいつ、人が寝ている間に何をするつもりでいやがったのだろう。危うくもう少しで取り返しの付かない事になるところだった。しかも本人ですら薬の効能を把握しきっていないときやがるし。
「ほら、こうしてバッチリ目も覚めてんだし、もう必要ないって」
「いやいや、それはまだわかりませんヨ? あくまでも意識が戻ったのは一時的なもので、またすぐに深い眠りに入ってしまうやもしれませんし、やはりここはこの
「不穏な言い方やめい! 余計恐怖しか湧かんわ! んなもん、死んでもお断りだ!」
「そう仰らずに。諦めないのが、あなたの魔法デスよ?」
「しかし、MPがたりない!」
断固として拒否するカケル。というか拒否する以外に選択肢なんてあるはずもなかった。薬ダメ。ゼッタイ。
「ほら、もういいだろ。さっさと離れてくれよ。なんか体中痛くて、出来るだけ動きたくねぇんだよ」
「それ、どちらかと言うとワタシのセリフなんデスけどねぇ」
「は?」
ポカンとするカケルに、ミランが「下、下」と呆れた顔で自身の胸元を指差す。
カケルの手が、ミランの胸をしっかり揉んでいた。
それも、ガッツリと。
「あ、すまん。絶壁過ぎて全然気が付かんかったわ。というか、本当に胸なのかこれ?」
「……アンタそれ、これがラブコメ漫画だったらヒロインに星にされているところデスよ? 悲しみの向こうに逝っていましたヨ?」
ま、ワタシは別に気にしませんけどネ〜、と何事も無かったかのようにあっさりベッドから離れるミラン。
うっかり口が滑ってしまったとは言え、あれだけの暴言を吐かれて歯牙にもかけないとは、さすがミランだ。セオリーをいともあっさり壊してくれると言うか、これくらいの事では一切動揺もしないらしい。
──結局こいつの驚いたところなんて、オレがあの金髪野郎に全力で飛びかかった時くらいだったなあ。
まあそれも、あくまで悪態のような大声を聞いただけなのだが。
状況が状況だったので無理からぬ話ではあったのだが、顔くらい見ておけばよかったと今更ながら後悔の念が襲う。後々、こいつを
「……って、あれ? お前今なんつった? なんか四日くらい寝てたとか口にしなかったか?」
「ええ、しましたヨ。あれから──あの勇者達がここに来て戦闘になってから、四日はとうに過ぎてまス」
奴曰く『覚せい剤』なる物を机に仕舞いながら言ったミランに、カケルは面食らった顔で、
「え? マジで?」
と聞き返す。
「ええ。死んだように寝ていましたヨ。というか実際あれだけ激しいの死闘をされた上、腹部の再出血が相当なものだったので、死にかけていたと言った方が正しいかもしれませんが」
「死にかけた……」
そうオウム返しに呟いて、すぐにアレス達との激闘の末、そのまま意識を落としてしまったのを思い出した。
改めて自身の体を眺めてみると、あちこち包帯だらけの上、そこかしこに擦り傷や赤黒く変色した痣まであった。それだけ命の危険に晒されたという証拠であり、我ながらこうして生きているのが不思議に思えてくる有り様である。
「そういや、あの後一体どうなったんだ? フレイヤさんも来ていたはずだよな?」
顔や額に貼られたガーゼを手で触って確認しつつ、カケルは近くの丸椅子に座ったミランに訊ねる。
「先代様なら、アナタをこの医務室まで運んだあと、そのまま地下に戻られましたヨ。ついでにルト様もまだ少し体調がすぐれないようだったので、ワタシが医務室まで連れていきましタ」
「え、大丈夫なのかアイツ?」
「ええ。単なるつわりデスからね。一日ベッドの上で安静にさせましたら、ずいぶん回復されましたヨ。まだ妊娠初期なので、いつまた悪阻になるともしれませんが、今のところ母子共に健康には問題ありませン」
「そ、そっか……」
ホッと胸を撫で下ろすカケル。アレスと凄まじい戦闘を繰り広げている最中に突然様子がおかしくなっていたので、ずっと心配だったのだ。
というか、それはそれとして、まさかあのフレイヤがここまでカケルを運んでくれていたとは。この間会った時に絶対嫌われていると思っていたので、正直かなり意外だった。
──そういえば気絶する前、フレイヤさんがオレに何か言っていたような気がするけど、なんて言っていたっけ……?
よく思い出そうと瞑目してみるも、記憶が薄らいでいてはっきりとあの時の光景が浮かんでこない。
ただあの時、何か胸が温かくなるような──命を張ってルトを守ったカケルを心から
「まあ、いっか。フレイヤさんがそんな事言うはずないだろうし」
「? 何か言いましタ?」
「いや、なんでもない」
そう
「オレが寝ている間に他の勇者達が攻めて来たりしなかったか? あの金髪野郎の仲間とか」
「安心してくださイ。あれ以来、一度もありませんでしたから」
「そっか。てっきりまたすぐ来るもんかと思ってたんだけどな。今度は他の仲間を引き連れたりして」
「まだあれから四日しか経っていませんし、怪我も癒えてないでしょうから、すぐには来られないはずデスよ。それにここから海まで数日、その上船で人間の大陸まで三日は掛かるでしょうから、応援を呼ぶにしても当分は大丈夫ではないかと」
なるほど。確かにそれなら、しばらくは大丈夫そうだ。
だが、あくまでも今は大丈夫というだけで、これからどうなるかまではわからないままなのだが。
つまるところ、猶予期間が与えられただけで、未だ油断は許されない状況というワケだ。
「──で、今回どれだけの被害が出たんだ? 詳しくは知らんけど、あちこち爆発が起きてたくらいだし、けっこう酷い事になってんじゃないのか?」
「……ええ。魔王城の修繕作業もさる事ながら、死者も含め負傷者も多く出ているので、当分の間は戦力の補強や罠の見直し、魔王城周辺の更なる警戒などで慌ただしくなるでしょうネ。正直、今まで魔王城を攻められた中でもだいぶ酷い状況だと言えるかもしれませン」
「あいつら、そんな派手に暴れやがっていたのかよ……」
幾度となく魔王城に侵入してきたカケルでさえ、できるだけ無駄な戦闘(ルトとの直接対決を前に、なるべく疲労を溜めたくなかったので)は避けていたと言うのに。
まあルト曰く、カケルが来た時はなるべく接触はしないで、そのまま謁見の間へ通すようにしていたらしいので、ちょっと事情が変わってくるかもしれないが。
あまつさえそれが、「だ、だって、一秒でも早くカケルと会いたかったから……」という桃色乙女な理由だったので、もはやちょっとどころじゃないかもしれない。可愛すぎかルトよ。
「それだけ、あの勇者達も追い詰めらていたって事でしょウ。聞いた話によると、増援が来るのを嫌がってか、ひたすら前方にいる我が軍を蹴散らしていったそうデスから」
だからと言って、そんな簡単に突破できるほど甘くはないはずなんデスけどねえ、と嘆息混じりに続けるミラン。
ルトはともかくとして、カケルでさえ手こずった奴らなのだ──そんじょそこらの戦士ではろくな勝負にもらならない事だろう。それこそ、数で物を言わせるくらいでないと。
「だったらなおさら、魔王に負担が掛かるな……。妊娠してんだし、出産するまでフレイヤさんとかが代われたりしないのか?」
「臨月ならまだしも、それまで代わるつもりは毛頭ないようデス。魔王ならば妊娠していようと役目を果たせというのが、代々の習わしらしいので」
「マジで? えらく厳しいな……」
「まあ先代様も同じように出産前を除いてはちゃんと職務をまっとうされていましたし、これくらいの難行は乗り越えて当然という考えなのかもしれませんネ」
「……これから人間達が大量に攻めて来るかもしれないって時にか?」
「もちろん、いざという時は助けに入るはずデスが、それまで手出しはしないと思いまス。親子であってもそのへんはきっちり線引きされている方なので」
「そうなのか……」
正直意外だ。娘であるルトをかなり溺愛している風に見えたのに。娘と言えどやはり魔王という立ち場である以上、何でもかんでも甘やかすワケにはいかないという事なのだろうか。
「言うまでもありませんが、ワタシやその他も部下達も全力でフォローするつもりではいまス。しかしルト様の妊娠をあちら側に知られた今、これまで以上に厳しい戦況に立たされる事でしょうネ」
「だろうな……」
アレスがルトの妊娠を秘匿する理由なんて皆無だし、それにルトが弱体化してしまった今、人間達がこの好機を逃すはずもない。
ミランの言う通り、これからは緊迫化した状況が続く事だろう。
「……まあ、こうなってしまったのも、ワタシの見通しが甘かったせいなんデスけどね。後悔先に立たずという話になりますが、改めて己の迂闊さに心底反吐が出ますヨ。あの時もっとルト様のお身体を考慮してさえいれば、あんな事にはならなかったかもしれないのに……」
珍しく無愛想な顔を悔やむように顰めるミランに、
「いや、さすがにあれは仕方なかったんじゃないか?」
とカケルは言葉を掛ける。
「慰めになるかどうかはわからんけど、まさかオレ以外にあっさり謁見の間まで辿り付ける奴らが現れるなんて──それも突然降って湧いたように現れるなんて、だれも想像しなかっただろうしさ。しかも調子が悪かったとは言え、魔王やオレをあそこまで追い詰めたんだぜ? こんなの急には対策仕様がないだろ」
「そう……かもしれませン」
「かもしれないじゃなくて、実際そうなんだって。それにお前、最後の最後にフレイヤさんを連れてきてくれたじゃん。あの時フレイヤさんが来てくれなかったら、今頃オレも魔王も殺されてたところだったぞ。マジで感謝する」
「いえ、感謝するのはワタシの方デスよ。カケルさんが時間を稼いでくれたおかげで、先代様をあそこまで連れて来る事ができたのデスから」
「一度お前にめちゃくちゃ止められたけどな」
「あの時のルト様の心情を思うと、止めざるをえなかったんデスよ。どれだけの覚悟を持ってアナタに別れを切り出したか、わからないでもないでしょウ?」
「まあ、な……」
別れ際に見せた、あの涙ながらの微笑。
あんな狂おしいほど切なげな姿を目の当たりにしてしまったら、身を切るような覚悟を持ってカケルに別れを告げようとしていた事は、想像に難くない。
「しかし、それも今にして思えば愚行でしかありませんでしたネ。あの時アナタがとっさに飛び出していなければ、きっと無事に済んではいなかったはずでしょうから。あの場で一番ルト様の身を案じていたのは、ワタシなんかよりカケルさんの方だったという事なんでしょウ。状況に翻弄されるだけのワタシと違って、アナタはご自分の命を懸けるだけでなく、その先に待つ未来まで背負ってあの勇者達に敢然と立ち向かった──いやはや、今回ばかりは頭が下がるばかりデス」
「……今日はいやにベタ褒めだな。お前らしくもない」
なんだか、背中がムズムズする。褒められるのは好きだが、普段褒め言葉を口にしない奴にこういう事を言われると、こんなにむず痒くなるものなのか。
「正直に褒めているんデスから素直に喜んでくださいよ。それにワタシが直接人を褒めるなんて、五年か三年かに一度、もしくは七年に一度しかないレアな出来事なんデスよ?」
「天下一武道会か」
ていうか、なんでそんなにバラつきがあるんだ。
「そもそも、お礼と言うのなら、相手が間違えてますヨ。どちらかと言うとそれは先代様に言うべきデス」
「うっ。フレイヤさんか……」
いや、カケルとしてもいずれはきちんと礼を述べなければならないと思っているのだが、結局向こうの言いつけを破ってこうして抜け抜けと出戻ってきたわけでもあって、正直かなり気まずい。考えるだけで胃に穴が空きそうだ。
「大丈夫デスよ。結果的に窮地を救ったのは先代様デスが、ルト様を命懸けで守ろうとしていた事は紛れもない事実なんデスから。アナタがいなければルト様が死んでいたかもしれないわけですし、胸を張って会いに行けばいいんデス」
「胸を張って、ねえ。むしろ緊張するあまり、胸が張り裂けそうな勢いなんだが……」
「今更何を言ってんデスか。緊張と言うのなら、これからもっと大事な話をしなければならない方がいるでしょウ?」
「? 大事な話って──」
と。
言っている意味がわからず、そのままミランに聞き返そうとした、その時だった。
「──ミラン、カケルの様子は……」
何の前振りもなく、唐突に開かれた目の前のドア。
そこには、カケルを見て心底驚いたように両目を見開いているルトが立っていて──
「カ、ケル……?」
まるで目の前の光景を再確認するかのような──さながら夢心地から覚めたかのような表情でぽそりとカケルの名を呼ぶルト。
そうしてお互い、不意の出来事に思考停止したまま、暫し間を空けた後、
「カケルううううぅぅぅぅぅぅ!!」
「ゆるきゃんっ!?」
全力疾走のルトに真正面からダイブされ、その凄まじい衝撃に苦しげな悲鳴を漏らすカケル。
一方のルトは言うと、感激のあまり周りの状況がよく見えていないのか、カケルに抱き着いたままさらにその腕の力を加え始めた。
「カケルカケルカケル! 良かった目が覚めて! あのまま意識が戻らなかったらどうしようって、私ずっと不安で不安で……っ!」
「ちょ、タンマタンマ! 首が! 首が万力みたく締められてるぅ! 苦しいっつーか折れるっつーか死んじゃう〜っ!」
我を忘れたように容赦なく首を両腕で締めてくるルトの肩を必死にタップするカケルだったが、まるで耳に入っていないのか、弱まるどころか強まる一方だった。軽く死ねますね。
そういえば、前にも同じような事が──具体的に言うと第7話くらいの頃にもこんな事があったような気がする。あの時も確か病室で目覚めてすぐルトに首を締められたんだっけか。デジャヴが止まらねえ。
って、これは本格的にまずい。いよいよ走馬灯まで見え始めてきている。早くなんとかせねば。
「おやおや。熱々デスねー。ではでは、お邪魔虫なワタシはさっさと退散しておきましょうかネ」
「うぉい! 待て待て! 変な気を利かせてオレを放置していくんじゃねえよ! お前この状況が見てわからんのか!?」
「熱い抱擁とお見受けしますが?」
「抱擁という名の殺人技でしかねぇよ! つーか本当にドアまで向かって歩いていやがるし! だから待てって! マジでこのままだと死ぬかもしれんからなんとかしてくれお願いしますっ!」
「なるほど。ではそんなアナタに、この言葉を送りましょウ」
言って、ミランは病室のドアの前で立ち止まった後、何故かその場でくるっとターンして、次にアイドルのようなキメポーズを取ってこう
「ポプテピピック☆」
「………………」
「………………」
「では、そういう事で」
「どういう事で!?」
なんだ今の呪文みたいなものは。
「えっ? 今ので一体どうしろと!? 意味がわからな過ぎて一瞬固まっちまったぞ! ってツッコミを入れている間にも無言で出て行こうとしてるし! 冗談抜きでオレの命が風前の灯火状態で──」
「カケルうううぅぅ!(バキボキガキグキっ!)」
「あばばばばばっ! ほ、骨が! 首の骨があああああっ!!」
──そんなこんなで数分後。
「す、すまないカケル。嬉し過ぎるあまり、腕を放すのをつい忘れてしまっていて……」
「うん。そーね。次からは気をつけよーね」
心底申し訳なさそうに低頭するルトに、カケルは首を真横に寝かせて状態でそう言葉を返す。間一髪骨が折れるところまでは行かなかったが、代わりに首が痛くて元の状態に戻せないでいた。昨今、首を痛めている系男子とやらが流行っているようだが、これじゃあどこぞの
そんな二人ではあるが、先ほどの会話にもあった通り、今は離れた位置かつ向かいあった状態でいる。
ちなみに、重傷人であるカケルがベッドの上にいるのは当然として、ルトも未だベッドの上で鎮座したままだ。
さて、もう一度よく思い出していただきたい。
ルトは今、カケルの正面にいるわけで。しかもちょうどカケルの臀部辺りに乗っかっているわけで。なおかつその両手をちょこんと可愛らしくカケルの胸に添えているわけで。
さて、おわかりいただけただろうか?
つまりこれは──この体勢は、世の男ならば誰もが夢見るあの──!
「……対面騎乗位とか、あざとさを通り越してもはや感動すら覚えるレベルなんだよなあ」
「? 何か言ったかカケル?」
「いえ、なんでもございません」
ただの下世話な妄想です。
というか、大方予想は付いていたが、やはり無自覚だったか。将来が楽しみと言うか、実に末恐ろしい娘である。
まあ対面騎乗位自体、すでに経験済みであるのだが。世界よ、これがリア充だ!
閑話休題。こうしてルトと対面するのは、気を失ってから約四日振りとなるらしいが、間近で見る分にはこれと言っておかしな様子はない。
最後に会った時よりだいぶ血色も良くなっているし、今はアレス達と戦っていた時の軽装鎧ではなく、いつもの軍服を着ているせいか、身動きも楽そうに見える。いずれはその軍服もきつくなって、マタニティー用の服を着るようになったりするのだろうか。見た目が中学生(しかも美少女)くらいなので、なんだか背徳感がハンパない。
「あの……カケル? さっきから私の方をじろじろと見ているが、何か変なところでもあるのか?」
「ああいや……あれからつわりは大丈夫なのかと思ってさ」
決まり悪く頭を掻きながら、そう訊ねるカケル。本当は全然別の事を考えていたのだが、さすがに正直に話すわけにもいかないし。
「私なら大丈夫。それよりも心配なのはカケルの方だ。あんなに大量の血を流したんだ……本当はこうして話しているだけでも辛いんじゃないのか?」
「そこまで酷くはないって。それにこれは自業自得みたいもんだし、お前が気にする必要はないから」
苦笑して言うカケルに、
「だが、私がもっとちゃんしていれば……」
とルトが気落ちしたように目を伏せて言葉を返す。
「それこそお前が気に病むような事じゃないって。だってつわりなんていつ起きるかわからないもんだし、そもそもオレがもっと早く助けに入ってれば、もっとマシな結果になってたかもしれないんだからさ」
「そんな……。カケルを追い出したのはこの私なんだぞ? それなのにカケルは私を助けてくれたんだ。こんなに傷だらけになりながら──死にそうになりながら必死で私を守ってくれたカケルに、これ以上を求めるなんて業が深すぎる……」
追い出そうとしたのは、どっちかっつーとフレイヤさんの方な気がしてならないけどな、と苦笑を零しつつ、カケルは首を横に振る。
「いや、やっぱオレのせいだよ。オレが優柔不断だったから……状況に流されるままで自分では何も決断できなかったから、こんな事態を招いてしまったんだと思う。お前にぶっ飛ばされても仕方ない愚行をしてしまったんだよ、オレは」
「ぶっ飛ばすだなんて、そんな気は微塵も……」
「本当に? 本当に一つもオレに対して怒っている事はないのか?」
「………………」
カケルの真摯な問いかけに、ルトは不意に目線を伏せて押し黙る。
そうして、一拍間を空けたのち、
「正直、戸惑っているんだ……」
「戸惑ってる?」
「……うん。カケルを巻き込まないようにと考えて、母様の言う通りにカケルを城から追い出したのに、結局私のためなんかにこうして戻ってきてしまって……。同族であるはずの人間達から命を狙われるようになるかもしれないのに、どうして私なんかを守ってしまったんだって憤りもあるのは事実だけれど、それ以上にこうやってカケルが目の前にいる事が何よりも嬉しくてたまらないんだ。ちゃんと別れたつもりだったのに、カケルともう一度会えた事が、幸せでならないんだ……」
そう漏らすルトの表情は、困ったように眉尻を下げつつも、頬と口許だけは穏やかに綻んでいた。
まるで再び手元に戻ってきた幸せを、心の底から噛み締めるかのように。
「ほんと、私はダメな奴だ。ちゃんと怒るべき場面なのかもしれないのに、どうしてもそんな気が薄れてしまう──カケルの顔を見ているだけで、無条件に満ち足りてしまう。他の事なんて、どうでもよくなってしまうくらいに……」
本当に厄介なものだな、この好きという感情は。
言って、ルトは苦笑を浮かべつつ、包み込むように両手を胸に添えて瞼を落とした。
それは、さながら秘密の宝箱に入れた大切な物に思い馳せるような。
そんな恋に生きる少女のような、愛らしい表情だった。
「……いいじゃんか、それで」
ややあって、独り言を呟くようにふと零したカケルの一言に、ルトは「え?」とキョトンとした顔で聞き返した。
「だから、いいじゃん。嬉しいならそれで。いや、お前から逃げてしまった奴が何を調子いい事言ってんだって話だけどさ、嬉しいんなら嬉しいって素直にそう思ってりゃいいんだよ。お前って嫌な事を我慢する癖があるみたいだし、しかもついさっきまで死にそうな目に遭ってたんだから、今くらい幸せに浸ってもだれも文句なんか言わねぇよ。つーか、オレが言わせねぇ」
それにお前の辛そうにしている顔なんて、二度と見たくないしな。
そう言い締めて、カケルは目線を横に逸らしつつ頬を掻いた。我ながらキザっぽいセリフを吐いてしまったというのもあって、正直ちょっぴり恥ずかしい。
「カケル……」
「ほら、喜べ喜べ! なんとかこうしてオレもお前も無事に生き残れた事だしな! 遠回しになったけど、お前に告って晴れて両思いになれたわけでもあるし、ここで喜ばなきゃいつ喜ぶんだって話──」
「カケル」
と。
一人舞い上がるカケルの言葉を不意に遮って、ルトは真っ直ぐ視線を合わせつつ、こう繋げた。
「無理はしなくていいんだぞ?」
「…………、は?」
ルトの言葉に、ぽかんと呆気に取られたように固まるカケル。
そんなカケルにルトはいかにも作ったような微笑を浮かべて、
「カケルはなんだかんだ言っても優しいから、きっと私に対する責任感や同情でそう言ってくれているのだろう? だったら私は大丈夫。何も心配なんていらないから」
「………………」
突然押し黙ってしまったカケルに対し、ルトは少し狼狽えるように目線をきょろきょろ泳がせつつも、
「あ、で、でも、好きって言ってもらえたのだけは素直に嬉しかったぞ?」
と慌ててフォローを混じえながら話を続ける。
「たとえ嘘だったとしても、カケルにそう言ってもらえたのは初めてだったから。あの時──カケルと別れた後は、きっと一生そういったセリフを言ってもらえる事はないんだろうなって覚悟していたから、あんな風に言ってもらえて、すごく嬉しかった」
「………………」
「それに、最後にカケルのあんなカッコいい姿も見られた事だし、私はもう十分に満足だ。これ以上幸せな事はない。だからカケルは、私の事なんて気にせず、傷が癒えた後はどこか安全な所にでも──」
と。
あからさまに無理やり明るく振る舞いながら一方的に喋るルトに対して。
カケルは、その口を黙らすように突然唇を奪った。
「……別に無理なんかしてねぇよ」
唐突なキスに、顔を真っ赤に染めて唖然とするルト。
そんな微動だにしないルトからゆっくり離れた後、カケルはぶっきらぼうに顔を横に逸らしつつ、口を開く。
「責任感や同情でこんな事するかっての。つーかそれ以前に、好きでもない女のために瀕死になりながら体を盾にして守ったりするわけねぇだろ」
おそらくルトと同じように真っ赤になっているであろう頬を誤魔化すように指で掻きつつ、カケルは言の葉を紡ぐ。
「そもそも、オレはヘタレなの! ちょっとキツい事を言われただけで逃げ出すようなダメ人間なの! あと、どちらかっつーとオレは恋愛に受け身な方なの! そんなオレがこうしてお前を命懸けで守った上に、人前で告白大会した時点でかなり大層な事なんだぞ! なのにそれを勝手に嘘にされるとか状態じゃねえっつーの!!」
未だ驚愕から抜け出せないでいる様子のルトに、カケルは羞恥心に苛まれつつ声を荒げる。
ああもう恥ずかしい! 自分からキスをしただけでも相当恥ずかしいのに、こうして婉曲ながらもまた告白する羽目になるなんて、全身が沸騰して消えてなくなりそうだ。
とはいえ、ここでやめるわけにはいかない。
ここまでルトを不安にさせてしまったのは、紛れもなく自分のせいだ。
今までちゃんとルトと向き合ってこなかった、優柔不断なこの自分のせいだ。
だったら、そのツケをちゃんと払わなければならない。
今度こそ、ルトから逃げないためにも。
きっとミランが言っていた『大事な話をしなければならない方』というのも、この事に違いないだろうから。
「それになあ、安全な所に行けって言うけど、今じゃどこに行っても安全な場所なんてないぞ。まだもう少し先かもしれんけど、いつかは勇者の一人が魔王に寝返ったって噂がそこら中の国に広まるだろうしさ。むしろここ以上に安全な所なんて、たぶんどこにもないんじゃないか?」
「──えっ? それって……?」
「まあつまり……あれだよ」
と、先の意味深な言葉でようやく正気を取り戻したらしいルトに、カケルは気恥ずかしそうに後頭部を掻きつつも、やがて真剣な面持ちになってこう告げた。
「これからは、オレも
「…………
「ああ」
頷いて、夢心地のように両目を瞬かせるルトをそっと胸に抱き寄せつつ、カケルは静かに続ける。
「ごめんな、今まで一人で抱え込ませてしまって──たくさん泣かせてしまって。お前を悲しませてばかりのろくでなしだけど、これからはちゃんとお前を支えられるくらい強くなるから。夫としても父親としても立派にやっていけるよう努力するから。だから──」
そこで一拍置いて、ルトの頭を優しく撫でながら、カケルは一息に声を発した。
「ずっと一緒にいよう、ルト」
カケルのその言葉に。
あの日──二人でお互いを激しく求め合ったあの夜以来、初めて口にした『ルト』という名前の響きに。
ルトはしばらく信じられないと言った風に両目を見開いた後、
「────っ。ふぇ、ふえええぇぇぇぇぇ……!」
やがて、今まで溜め込んでいた思いをすべて出し尽くすかのように、嗚咽と共にその涙腺を決壊させた。
一体、どれだけの人間がこの光景を信じられるだろうか。
世界最強と呼ばれた魔王が、好きな男の胸の中で普通の少女のように涙を流す姿を。
災厄の元凶と呼ばれた存在が、どこにでもいる少女のように恋をし、そして愛する人との新しい命を授かって、母となる喜びを当たり前のように噛み締める姿を。
きっと誰も信じやしないだろう。
ルトと出会う前のカケルだって、絶対に信じなかったはずだ。
けれど、今は違う。
おそらくカケルは、この世界で初めて魔族と──それも魔王と婚姻した人間の一人だ。
きっとカケルとルトは、人間と魔族との溝を埋められる唯一の関係性だ。今はまだ蜘蛛の糸のように細く脆くとも、いつかは何重にも繋がった縄梯子のように強固な架け橋となってくれるはずである。時間は掛かるだろうし、この一触即発な世界情勢やルトの妊娠などを鑑みるとすぐに公表するわけにもいかないが、いずれは平和な世の中を築く希望になると信じたい。
いや、信じるだけではダメだ。
この先ルトやお腹の子が平穏に生きていられる世界を作るためにも、カケルは勿論、皆が協力し合って頑張らないといけないのだ。
それが
「カケルっ……。カケル〜っ」
少しして、堰を切ったように泣きじゃくり始めたルト。
そんなルトの小さな体を抱き締めながら、もう二度とこの愛する少女から離れないと、カケルは堅く胸に誓った。
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