第45話 終幕



「末期の祈りは済んだかしら?」

 その女性はゆったりとした歩調で──さながらレッドカーペットの上を歩く貴族のごとく優雅な足取りでカケル達の前に姿を現した。

 腰まで伸びるウェーブがかった銀髪。顔は北欧系美人で、嘘のように一切の無駄がない。またその肢体も完璧に洗練されており、血のように赤い真紅のスパンコールドレスがこれ以上なく似合っていた。

 一見は単なるすごい美女が現れたというだけのように思える。だがその背に生えている悪魔のような黒々しい羽が、その美女がただの人間ではなく魔族であるというのを言外に語っていた。

 そんな銀髪の女性──フレイヤが、悠々とカケル達の近くまで寄って来たところで、酷薄とも凄絶とも言える禍々しい笑みを浮かべながら、両腕を広げてこう告げた。



「さあ、恐怖なさい。絶望なさい。今から始まるのは殺し合いなんかじゃなく──────暴虐の限りを尽くした一方的な蹂躙よ」



『──────っ!?』

 その静かながら、しかし尋常ならぬ殺気が篭った声音に、アレスとリタが圧されたように揃って息を呑んだ。

 アレスとリタが先代魔王の存在を知っているかどうかは定かではないが、先ほどからただならぬ気配を放つフレイヤに対し、本能的に脅威を抱いたのは確かなようだった。

 事実、もはやアレス達は満身創痍であるカケルやルトなどに目もくれず、双眸を剥いたままフレイヤの方を一心に見据えていた。

 無理もない。なんせ相手は先代魔王にしてかつての世界最強──その実力は未だ衰えを知らず、今なお魔族達の信頼も厚いと伝え聞く。

 そんな化物を前にして、戦士であるアレス達が警戒しないはずがなかった。

母様かあさま……。なぜここに……?」

 とそこで、アレス達同様呆気に取られていたルトが、今になって思い出したようにそんな疑問をふと漏らした。

「……げほげほっ」

「──カケル! 起き上がって大丈夫なのか? それにまだ血が……」

 不意に上半身だけ起こしたカケルの肩を支えながら、心配そうに問うルト。

「……オレなら大丈夫だ。さっきに比べて血の量も収まってきたし」

 もっとも腹は痛いままだし、貧血やらなんやらで体も超フラフラな状態ではあるのだが。

 まったく、ルトを助けるために無我夢中で飛び出しておきながらこの様なのだから、情けないったらありゃしない。

 まあそれでも、こうしてフレイヤが助けに来るだけの時間を稼げただけでも御の字としておくべきか。

「それより、フレイヤさんがここに来たのって、お前が事前に呼んでおいたからなんじゃないのか?」

「……ううん。私は何も伝えていない。私と配下の者達だけで対処しようと思っていたから……」

「じゃあフレイヤさんはどうやってオレ達のピンチを知って……」

 と、訝るカケルの視線の先に、大扉の陰でひょっこり顔だけ出しているミランが見えた。

 もしかして、ミランがフレイヤをここまで連れてきてくれたのだろうか。そういえば、カケルがルトの危機を救うために無我夢中で飛び出してからずっと姿が見当たらないままだった気が──

 などとじっと見つめていたせいなのか、こちらの視線に気付いたミランが、ニッと笑みを浮かべてサムズアップしてみせた。

「あいつ……やるじゃねぇか」

 思わず微笑が零れるカケル。どうやら、本当にミランがフレイヤを連れて来てくれたようだ。ミランのおかげで間一髪窮地から脱する事ができたし、今回ばかりは素直に感謝しかない。ミランが機転を利かしてくれなかったら、今頃ルト共々、命はなかった事だろう。

「でも母様、どうしてここまで? もう隠居した身だから魔王業に関わる事は一切しないって言っていたのに……」

「あら、いくら隠居した身って言っても、可愛い娘のピンチと知れば急いで駆け付けるわよ」

 ふと漏らしたルトの疑問に、フレイヤがニコっと微笑を浮かべて答える。

「もっとも、ミーちゃんが慌てて知らせに来なかったからこうして来る事もできなかったけれど。こういう時に備えて、地下に通信可能な魔法具でも置いておくべきかもしれないわねー。あ、そうそう。ここまで来るのも一苦労だったから、地下に転移装置も欲しいところねー。あとで頼んでおかなくちゃだわ」

 その場違いなほど能天気なセリフに、カケルは脱力したようにガクッと肩を下げた。あまりの緊張感の無さに、こっちまで気が抜けてくる。

「それはそうと、大丈夫なのルーちゃん? 少し顔色悪いわよ?」

「私なら平気。少し前と比べたら幾分落ち着いてきたから。それよりもカケルの方が……」

「あらまあ。こうしてじっくり見るとほんとにボロボロねー。今にも死にそうなほど血だらけだし。なんだかミーちゃんよりも死人っぽく見えるわよ?」

「あはは……」

 フレイヤの言葉に苦笑いするカケル。

 いや、正直全然笑えない冗談なのだが、なにかもう、笑い飛ばさないとやっていられない気分になってしまったのだ。

 それに、ゾンビであるミラン以上に死人っぽく見えるという事は、それだけ酷い状態を晒しているのだろう。これでカッコよくアレス達を退けていたら、今頃フレイヤにも良い印象を与えられたかもしれないと言うのに、ことごとくマイナスイメージしか与えていない事実に目眩すらしてきそうだ。いや、実際本当に貧血で目眩が起こっているわけだけども。



「──なるほど。魔王の母親か」



 と。

 それまで静観するのみだったアレスが、不意にミストルティンを構え直してそう呟きを漏らした。

「只者じゃない雰囲気を発していたから一体何者なのかとずっと疑問に思っていたけれど、君達の会話を聞いてようやく腑に落ちたよ」

 言いながら、フレイヤに剣先を向けるアレス。後ろに控えているリタもいつでも魔法を放てるように杖を構えていた。

「まさかここにきて魔王の母親が現れるとはね。まったくこっちも色々と限界だって言うのに、困ったものだよ」

「なんて言いつつ、逃げるつもりはないようだけれど?」

「もちろん。魔王を倒せるかもしれないこの千載一遇のチャンスに、乱入者が現れたからと言って退散するわけにもいかないしね」

「あらあら。殊勝な事ねえ。けれどあたしと戦えるだけの余力なんて、そっちにあるのかしら〜?」

 フレイヤの問いかけに、アレスはなにも答えず押し黙る。しかしそれは、言外に肯定しているも同然だった。

「ふふっ。図星だったみたいねえ。一応は状況を把握しているって事かしら? まあ無謀に突っ込んで来ないあたり、単純バカというわけではなさそうだけど」

 そこまで言って、フレイヤはニヤっと嘲るような失笑を漏らしたあと、さらにこう続けた。

「ただ諦めが悪いという意味では、あまり利口とは言えなさそうね〜」

「……諦めの悪さが勇者を長く続けるコツの一つなんだよ。覚えておくといい」

 フレイヤの挑発に、ふっとニヒルな笑みを返すアレス。しかしその笑顔は見るからに強張っており、明らかにフレイヤの威容に圧倒されているようだった。

 それでもまだ引くつもりはないようだが、しかしこうして様子を窺うに、どうにも攻めあぐねているようにも見える。実際にフレイヤが戦っている姿を、アレス達は当然として何度か魔王城に浸入しているカケルですら目にした事はないが、そのどこか超然とした立ち姿を見れば、攻めの一歩を踏み出せずにいるのもなんとなくわかるような気がした。



 なんと言うか、威圧が半端ないのだ。

 それこそ、血気すら冷えるほどまでに。



 こうして横から様子を窺っているだけのカケルですらこれほどまでに気圧されているのだ──実際に正面から相対しているアレス達なんて相当なものに違いない。

「あらまあ強がっちゃって。まさか本当にこのあたしに敵うだなんて思っているのかしら?」

「何事も、やってみなきゃわからないものだよ」

 言って、半歩だけ前に進み出るアレス。未だ臆している感じは拭えないが、どうやら今度こそ戦う決意が固まったようだ。



「戦う必要なんてありませんよ、アレス様。」



 と。

 それまでアレスの背の後ろにいるだけだったリタが、不意に前へと出てそう声を発した。

「リタ……? 戦う必要がないってどういう意味だい?」

「わざわざ相手にする必要はないって事です。この場の主導権を握っているのは私達の方なんですから。」

 主導権? といまいち意味が消化できずにいるアレスに対し、

「つまり、こういう事ですよ。」

 と言って、杖をまっすぐ振り上げた。



 ──その杖先を、ルトへと向けて。



「この距離ならば、私の魔法で十分魔王を屠れるはず。これなら、アレス様が直接斬り捨てる必要はないでしょう?」

『──────っ!?』

 事もなげに言い捨てるリタに、揃って声を失うカケルとルト。そんな慄然とする二人に構う素振りもなく、リタは一切表情を変えないまま話を紡ぐ。

「それに、いくらあれが魔王の母親で相当の実力者だとしても、一瞬で彼らを守れるような真似はできないでしょうし。元々、我々の目的は魔王の打倒──目的さえ果たせれば、あとはさっさと退散すればいいだけの事です。」

 確かに、リタの言う事はもっともだ。現状、フレイヤよりもルトに近い距離にいるリタならば、誰よりも真っ先に魔法を命中させられるだろう。

 そこに、カケルがいなかったらという話ではあるが。

「……そんな簡単にこいつがやれると思うなよ」

 リタの魔法から庇うように、ルトの肩を抱いて背中を向けるカケル。

 そんな盾になろうとするカケルに対し、

「カケル!? 一体何を──」

「見りゃわかるだろ。あいつの魔法から守ろうとしてんだよ」

 驚愕を露わにするルトに、カケルは血の滲んだ唇で弱々しく笑みを象る。

 可能ならばデュランダルを用いてリタの魔法を消せればいいのだが、いかんせん無理をし過ぎたせいか、もはや腕を振るうだけの体力もない。出来るとしたら、せいぜいこうして己の体を使ってルトの壁になる事くらいだ。

「……な、何を言っているのだカケル! そんな傷だらけの体で魔法を受けたりしたら──」

「バカ。それはお前も同じだろ? いくら魔法障壁が使えるくらいに回復したと言っても長続きはしないはずだし、それにまたいつ、お前につわりが起こるかわからねぇじゃねぇか。そんな状態でお前を敵前にさらけ出すわけにはいかねぇっての」

「で、でも……!」

「それに──」

 と、尚も食い下がるルトを宥めるように、カケルはその頭にポンと片手を置いたあと、穏やかな微笑みと共にこう続けた。



「それに、男ならここで命を懸けてでも好きな女を庇うべきだろ?」



「カケル……」

 カケルの強固な意志に、もはや何を言っても揺るぎそうにないと諦めが付いたのか、やがてルトはそれまで掴んでいたカケルの裾からそっと手を離した。

「わかった。カケルは結構頑固なところがあるし、これ以上私が何を言ってもどうせ無駄なんだろうな。

 だが、私とて何もしないまま傍観するつもりなどないぞ。好きな人を守りたいのは私だって同じだ。だから私の体力が持つ限り、魔法障壁ですべての攻撃を防いでみせる!」

「お前……」

 先ほどまで、あんなに弱々しくしていたのに。

 その頬を滂沱の涙で濡らしていたばかりだと言うのに。

 今やルトの瞳は、生気に溢れたように熱く燃えたぎっていた。

 まったく、かなり危ない状況だと言うのに、こんな勇ましい姿を見せられては断るわけにもいかないじゃないか──!

「……よし。こうなったらとことん抵抗してやろうぜ。あいつらが尻尾巻いて逃げ出すまでな!」

「うん!」

 カケルの熱い言葉に、力強く──そして嬉しそうに頷くルト。

 この瞬間、カケルとルトは今までにないほど深く繋がっていた。



 と言うの名の、最強の鎖で。



「ふふふっ。ルーちゃんったらあんなに嬉しそうな顔をしちゃって。これも愛のなせる業なのかしらねぇ。なんだか妬けてきちゃうわ」

 などと、カケルとルトのやり取りを微笑みましい顔で見つめていたフレイヤが、今度はフッとリタの方に冷笑を向けて、

「ですってお嬢ちゃん。残念だったわねぇ。多分あなたが魔法を打ち終えたその時には、あたしがお嬢ちゃんの首を即刻無惨に跳ねていると思うわよ?」

「………………っ」

 ギリッと憎々しげに歯噛みするリタ。確かに、今ここでリタが魔法を放ったところでルトの魔法障壁で防がれるばかりか、そのままフレイヤに強襲されるのがオチだ。どのみちリタは、リスクを負ったところで何も得るものがない事になる。

 さすがの彼らも、この状況では降参するしかないだろうと密かに勝利を確信したカケルではあったが──



「ならば、僕はそんな貴女の攻撃を全身全霊をもって防いでみせよう」



 一時いっときの間、静かにカケル達とリタの会話に耳を傾けていたアレスが、ミストルティンの剣先をフレイヤに向けて声高に告げた。

「銀髪の貴女がどれほどの実力を持っているかは定かではないが、少なくとも魔王以上というのは考えにくい。だったら僕でも十分に防げる自信がある。リタ、君はその間に存分に魔王への攻撃に集中していてくれ」

「アレス様……!」

 言って、微笑と共にリタの肩を軽く叩くアレス。そんなアレスに、リタが感激したように瞳を潤ませる。

「さあ、これで条件は五分だ。リタが魔王の魔法障壁を破って、あの少年もろとも魔王を屠るか。もしくは先に貴女が僕を打破し、リタを屠るか。結果は二つに一つだ」

「ちっ……」

 居丈高に宣うアレスに、カケルはほぼ無意識に舌打ちした。

 まったく、ことごとく諦めの悪い奴らだ。まあそれは、向こうとて同じ考えなのだろうが、しかし、なかなか思うようにいかない事態に、どうしても焦れてしまう。

 しかも性質たちが悪い事に、アレス達の言う事が決して虚勢やハッタリなどではないという点だ。

 フレイヤがルトに次ぐほどの実力を持っているというのはおそらく事実なのだろうが、翻ってアレスの方はというと、こちらもルトと比べたら遠く及ばないまでも、相当な熟練者であるのは、文字通りこの身で痛いほど実感している。

 今でこそだいぶ疲弊しているようだが、さりとて一瞬で片がつくほどヤワな相手ではないだろう。それこそ、全快状態のルトの攻撃を二、三度防げる程度には。

 とどのつまり、その間どうしてもリタがフリーになってしまう時間が生まれるという事だ。

 リタがこちらに向けて魔法を放てるだけの時間が。

 それをすべて防げるだけの余力がルトにあればいいのだが、あまり当てにするのも危険だろう。

 なんせ、今やカケルとルトは一連托生の状態──ルトの魔法障壁が破れれば真っ先に盾となっているカケルが死に、次いでルトが確実に狙われる。さすがにすぐやられてやるつもりはないし、死に物狂いでルトを守り通す気概ではあるが、それもいつまで保てるかわからない。

 つまりは、カケル達が無事に生還できるかどうかは、アレスとフレイヤの攻防次第という事になる。



 ──どうするつもりなんだ、フレイヤさんは。



 実際にアレス達の戦いぶりを目にしたわけではないが、彼らが只者ではないという事は、フレイヤも肌で感じ取っているはずだ。無策で突っ込みには、少しリスキー過ぎる。

 果たしてフレイヤは、この難しい局面をどう乗り切る気でいるのだろうか────



「ふふ──あはははははははッ」



 と。

 カケルだけでなく、誰もがフレイヤの動きに注目していた最中。

 当のフレイヤが可笑しそうに──それこそ世にも面白いものを見たと言わんばかりに哄笑を上げ始めた。

「あはははははははははははッッ」

「……なにがそんなに可笑しい?」

「ふふふ。なんでもなにも、こんなに可笑しいものって他にある?」

 不愉快げに目を眇めて問うアレスに、フレイヤは以前として小馬鹿にしたように口角を吊り上げながら言葉を次ぐ。



「劣勢な立場に立たされたままだというのに、五分だなんて寝ぼけた事を言うのだもの。こんなに可笑しい事はないでしょう?」



「…………どういう意味だい?」

 訝しげに眉を顰めるアレスに、フレイヤはニヤニヤと嘲笑を浮かべたまま、

「こういう事よ」

 と、ある方向に手を翳した。



 ──カケルに吹っ飛ばされ、壁にもたれかかったまま気絶しているカンナに。



「これでもまだ、五分だなんて言えるのかしら?」

『────────っ!?』

 フレイヤの所業に、アレスとリタが驚愕に双眸を向く。どうやら二人とも、この局面でカンナが狙われるとは露ほども考えていなかったようだ。

「さあ、どうするの? 二人があたしとルーちゃんの相手をしている間に、少なくとも大事なお仲間が確実に一人死んじゃうわよ。それでもまだ続けるつもり?」

「……っ!」

 怒りと動揺で肩を震わせるアレスに、フレイヤはいかにも愉悦そうに「ふふふ」と蠱惑的な笑みを零しつつ話を続ける。

「選べないわよねえ、そんな簡単には。よく小説とかで『世界のために大切な人の命を犠牲にするか、もしくは大切な人の命のために世界を犠牲にするか』なんて選択を主人公に迫る事があるけれど、これってどっちを選んでも主人公にしてみれば人生終わりよね。だってどっちも背負うには重過ぎる罪だもの。まともな人間なら発狂してもおかしくないでしょうね」

 まあこれが大衆向けの小説なら、みんな救ってハッピーエンドってぬるい結末で終わるんだろうけど。

 などと間に余談を挟みつつ、尚もフレイヤは言葉を紡ぐ。

「まあ、坊や達もそれなりの覚悟を持ってここまで来ているのでしょうし、それでもまだ挑むというのならもう何も言うつもりはないわ。最悪そっちは何の成果を得られないまま全滅する事になっちゃうかもしれないけど。あら、考えたらものすごく滑稽ね。あはははははっ」

 言葉通り心底愉快そうに笑声を上げるフレイヤに、アレスとリタも閉口したまま剣呑に顔を顰める。

 それは味方側(実際フレイヤがどう思っているかはわからないが)であるはずのカケルも同様で、フレイヤの終始飄々とした弁舌に、すっかり呆気に取られていた。

 さすがは元魔王。あれだけ息を巻いていたアレス達が、物の見事にフレイヤのペースに呑まれてしまっている。まああちらにしてみれば仲間の命を天秤に掛けられた状況なわけだし、当然と言えば当然とも言えるが。

 大胆不適にして傲岸不遜。並びに悪逆無道の冷酷無残。

 単純な力関係では、ルトの方に分が上がるのかもしれないが、権謀術数に関してだけ言うのであれば、フレイヤの方が魔王として優れているのかもしれない。

 なにはともあれ、これでアレス達もおいそれと手出しができなくなっただろう。

 無論、だからと言ってこれで終わりという事もないだろうし、いつまでもこの膠着状態が続くとも思えないので、どうにかして先手を──この戦いを速やかに終わらせる手を考える必要があるわけだが──



「……さて、場もようやく落ち着いてきたところで、ここで提案なのだけれど」



 と、皆が沈黙している中で──というか、これのどこが『落ち着いている』と言えるのだろう。どちらかと言えば、いつまた衝突してもおかしくない冷戦状態だと言うのに──フレイヤが緩慢に手を挙げてそう言った。

「どうかしら? 今なら無傷で帰してあげるどころか、この城から脱出させてあげるけれど?」

「この城から……? つまり僕達を魔族達に襲わせる気はないと?」

「もちろんよ。その証拠に、ほら──」

 言って、フレイヤはおもむろにその豊満な胸の谷間からとある青い液体が入った小瓶を取り出した。

「こうして、転移用の魔法具も用意してあるわけだし」

「──! あれは……!」

「リタ。あれが何なのか知っているのかい?」

「……はい。あの銀髪女が言っていた通り、地面に中の液体を振りかけるだけで建物の外へと即座に出られる魔法具です。大変希少な魔法具なので、私も見るのは初めてですが。」

 なるほど。そういう効果があるのか。初めて見た物だったので、今の説明で傍から聞いていたこっちまで助かってしまった。本人にそのつもりは一切無かっただろうけど。

 というか、フレイヤはこうなる事を見越してあの魔法具を用意していたのだろうか。だとしたらすごい先見だ。今や完全にフレイヤが場を支配してしまっているし、もはや最初からこの人がいればアレス達なんてどうとでも対処できたのではないだろうかという気すらしてきた。

「で? 坊や達の返事は?」

「………………」

 フレイヤの問いに、アレスは顔相を険しくしたまま沈黙を保った。おそらくああして沈思黙考しているのだろうが、相当頭を悩ませているのだろう──その額から時折大粒の汗が流れ出ていた。

 そうして、しばし時を置いた後、

「…………わかった。その条件を呑もう」

「アレス様っ!?」

 アレスの返答に、驚愕の声を上げるリタ。

「何を言っているのですか! ようやくここまで来れた上、魔王を倒せるかもしれないという又のない機会だというのに、それを不意にしてしまうなんてありえません!」

 よほど昂ぶっているのか、アレスの腕を力強く揺すりながらリタは言う。最初こそ無愛想で霊国な奴だと思っていたが、主人たるアレスの事となると、どうやら感情の自制が利かなくなるらしい。

「我々の事なら気にしないでください! 私もカンナさんも、いざとなればアレス様の為にこの命を捨てるだけの覚悟は出来ています! だからアレス様は、どうか正しい決断を──」

「リタ。前に言ったよね? カンナやリタを替えの利く従者だなんて微塵も思っていないし、自らを犠牲にしようだなんて以ての外だって」

 憤るリタに、アレスは優しく微笑みかけて、その頬にそっと手を当てた。

「だから僕は、世界の平和よりもリタとカンナの命を選ぶよ。世界はいつか救えても、失った命は二度と戻らない。それが大切な人の命となればなおさらだ。君達を犠牲にしてまで世界を救おうとは思わない。大切な人がいない世界なんて、僕には耐えらない」

「アレス様……」

 毅然と言い切るアレスに、リタも諦めが付いたようにその腕から手を離した。

 あそこまで言われてしまったら、従者としては素直に従うしかないだろうし、何よりアレスの気持ちを無碍にする事なんてできないだろう。



 それだけ、リタもカンナもアレスを想っているのだから……。



「交渉成立ね」

 そう言って、二人のやり取りを静かに見つめていたフレイヤが、手に持っていた小瓶をアレスに向けて高く放り投げた。

 綺麗な放物線を描いて頭上から落ちてくる小瓶を、見事キャッチするアレス。

 そうして、チラッと警戒したようにフレイヤを見た後、アレスはリタを伴って、未だ意識を失くしたままのカンナの元へと足早に赴く。

 約束通り、フレイヤは不意打ちを仕掛ける事もなく、ニヤニヤと人をおちょくるような薄ら笑いを浮かべたまま悠然と佇んでいた。

 そんなフレイヤの姿に、怒りを堪えるように歯噛みするアレスではあったが、向こうも攻撃に転じる事もなく、カンナの元へと辿り着いた。

「僕がカンナを背負うよ。リタは代わりにこの魔法具を使ってくれるかい? どのみち僕だと使い方もわからないから」

「……わかりました。」

 カンナを背負いつつ、小瓶を差し出してきたアレスに、リタは不承不承とした態度ながらも、こくりと頷いて小瓶を受け取った。未だこの場から逃げ出す事に納得がいっていないのであろう。

 そして、そのまま小瓶のコルクを取り、軽く円を描くように中身を床に振り撒けた。

 すると床に撒かれた液体から煌々と青い光が溢れ、次第に魔法陣のような紋様が浮かび上がった。おそらく、あれが転移へと至るための陣なのだろう。

 そういえば、ミランと共にここまで来た時は、やたら大仰な転移装置を使用したものだが、あれはあんな小瓶一つで済んでしまうのか。最初からあれを使っていれば、もう少し楽に来れたんじゃないかという気もしなくはないが、よくよく思い返してみればかなり希少な物だと言っていたし、日用品みたく気軽に使える物でもないのかもしれない。そう考えると、なおさらあんな奴らに使わせるのが勿体ない気がした。



「──勇者が魔王を守って悪いかと君は言ったね」



 と。

 三人同時に魔法陣の中へと入っていく様子をルトと一緒に静かに見つめていた時、アレスがふとカケルの方に視線をやり、険を含んだ口調でそう声を発してきた。

「はっきり言って悪いよ。悪いに決まっている。勇者が魔王を守るなんて前代未聞だよ」

「………………」

 アレスの言葉に、カケルは黙って耳を傾ける。

 念のため、心変わりしたアレス達が突然こちらを狙ってきた際、すぐ対応できるようにデュランダルのグリップ部分を強く握りしめながら。

「君は今日をもって、すべての人類を敵に回した。今後は僕達だけでなく、様々な勇者が君達を狙う事だろう」

 まあそうなるわな、とカケルは内心苦笑した。

 事情はどうあれ、カケルは人類の敵である魔王ルトを庇ってしまったのだ。こうして勇者であるアレスと敵対してしまった以上、その悪評は次第に広まっていく事だろう。

「無論、僕達とてこのまま終わるつもりは微塵もない。今回は情けを掛けてもらう形になってしまったけれど、次は絶対に負けはしない。今よりもっと強くなって、今度こそ魔王を倒してみせる!」

 言って、アレスは片腕で背に負ぶっているカンナを支えながら、もう片方の手で握り拳を掲げてみせた。

 そしてそのまま拳を前に出し、しゅっと真っ直ぐ人差し指を突き立てた。

 ──指先を、カケルの方へと向けて。



「その時は、君だって容赦しない。魔王もろとも、目の前に立ちはだかる者はすべて打ち砕くっ!」



 そうして、暫し無言に視線を交錯させるアレスとカケル。

 お互いに言葉は無かったが、その瞳だけは猛烈な火花を散らすように熱く滾っていた。

 さながら、生来の仇敵を睨み付けるかのように。

 いつまでそうしていただろうか。やがてアレス達の足元にある魔法陣が前よりも眩しく輝き始めたところで、

「……言われなくてもわかってんだよ、そんなもん」

 と、カケルは静かに口を開いた。

 そうだ。そんなセリフはとっくに想定済みなのだ。

 命懸けでルトを守ろうとした、あの時から。

 だからこそ、返す言葉も既に決まっている。



「いつでも掛かってきやがれ。その度に全力で返り討ちにしてやるよ。に指一本触れさせやしねぇ!!」



 その決意に満ちた大喝に。

 アレスはここに来て初めて、気が緩んだようにふっと微苦笑を漏らした。

「敵同士ではあるけれど、大切な人を守りたいという気持ちだけは、僕らと何も変わらないんだよね」

 魔法陣がこれ以上なく青々とした燐光を放ち、天へと昇るように舞い上がっていく。

 やがて直視するのも難しくなるほど眩く輝き始めた頃、アレスは憂うように──されどどこか感傷的に微笑んでカケルを見据えた。



「君とは絶対にわかり合えないと思っていたけれど、別の形で出会えていれば、あるいは親しい関係になれたのかもしれないね──……」



 最後にそう言い残して。

 魔法陣と一緒に、アレス達は一瞬にして影も形もなく消え去ってしまった。

「……一生わかり合えるかよ。お前なんか」

 アレス達の去る姿を見届けた後、カケルは憎まれ口を叩くように呟きを漏らす。

 きっと、あいつはあいつなりの信念があって今まで戦ってきたのだろう。それこそ、元の世界で何の苦労もなくぬくぬくと生きていたカケルには想像も及ばないほどに。

 だが今のカケルは別だ。向こうに譲れないものがあるように、こちらにも譲れないものがある。

 たとえそれが同じ人間が相手だったとしても、決して折れるつもりはない。折れるわけにはいかない。



 カケルにはもう、命を替えてでも守りたい者ができたのだから──



「あんら〜。『オレの女に指一本触れさせない』だなんて、とても素敵な事を言ってくれるじゃないの〜」

 と、アレス達が完全に姿を消したところで、フレイヤが妙に嬉しそうに破顔してカケルとルトと元へと歩み寄ってきた。

「ねぇルーちゃん。ルーちゃんもそう思うでしょ?」

「うん。カケル、ものすごくカッコいい……」

 フレイヤの質問に、陶然とした顔で首肯するルト。完全に表情が恋に耽溺する乙女のそれだった。何だか今さらながらめちゃくちゃ恥ずかしくなってきた。

 いや、恥ずかしいセリフなんてこれまでも散々口にしたし、それこそ今さらって感じではあるのだが。

「いいわねぇ。あたしも言われたいものだわ〜。『惚れた女のために、男が体を張って悪いか』とか『父親なんだから、家族を守って当たり前だろ』だとか情熱的なセリフを」

「……いや、なんでその場にいなかったはずの貴女がそこまで知っているん──」

 ですか、とまでツッコミを入れようとして、カケルは突如としてガクッと全身の力を投げ出した。

「──!? カケルっ!?」

「あらあら大変。ミーちゃん、早く来てちょうだい」

 まずい。ついに限界が来たか。いや、限界なんてとうに超えている状態だったが、さすがに無理が祟ったのかもしれない。もはや指先にすら力が入らないほど、体力を消耗をしきっていた。

「──! ────っ!」

「────。──、──────」

 とうとう聴力まで無くなってしまったのか、ルトとフレイヤの言っている事がまるで耳に入ってこない。まあ、見るからに泣きじゃくっているルトをフレイヤが鎮めている時点で、何となく言っている事も想像が付くが。



 ──そういえばオレが腹を貫かれた時も、あいつ、今と同じように泣きまくってたなあ。



 だんだんと霞んできた視界の中で未だ滂沱の涙を流すルトを見やりながら、カケルはふとそんな事を思い返す。

 あの時はルトを降伏させるために負った怪我だったが、今度はそのルトを救うために重傷を負うなんて、人生何があるかわからないものだ。



 ──でもやっぱ、女の子の泣く姿を見るのは苦手だなあ……。



 思わず苦笑を漏らしながら、カケルはしみじみとそう思う。

 もうこれで何度ルトの泣き顔を見たかわからないが、きっとこの先も慣れる事はないだろう。

 いや、慣れるはずもないか。



 世界で一番好きな女の子の涙なんて──



 ああそういえば──と狭まる視界の中で、カケルはふと考える。

 結局、フレイヤの言いつけを破って、こうして抜け抜けと魔王城に戻ってきてしまったが、今後カケルはどうなってしまうのだろう。紆余曲折あれ、大事な愛娘を命懸けで守ったわけだし、それなりの温情をかけてもらえたいものだ。結果的にはフレイヤがルトだけでなくカケルの命まで助けたようなものだが。

 そうこうしている内に、意識も次第に保てなくなってきた。頭がすごくぼんやりとする。あと数分と経たずにこのまま意識を手放してしまいそうだ。

 そうして、完全に瞼が閉じようとした中で。

 たまたま最後に目に映ったフレイヤが、不意に穏やかな眼差しをカケルに向けて、



『よく頑張ったわね』



 と、優しく褒めてくれたような気がした。


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