第44話 この胸いっぱいの愛を



 これはまだ、アレス達が魔王城に攻め入ってくる前。

 ルトの妊娠が発覚したばかりの頃の話──。




「おめでたデスね」

 魔王城診察室──そこで対面に座るミランから聞かされた言葉に、ルトはぽかんと口を開けて放心した。

「おめ……でた?」

 椅子に座っているはずなのに、ふわふわと浮いているかのような──さながら夢でも見ているかのような心持ちで、ルトは先ほどミランに言われた言葉を反復した。

「ええ。ああ、念の為言っておきますが、某SFミリタリーアクションの方とは違いますヨ? あれは『フルメタ』であって、ワタシが言っているのは『おめでた』の方なので」

「いや、それは言われずともわかっているが……」

 むしろ『フルメタ』というのが何なのか、逆に訊きたいくらいだ。

「それよりもおめでたって……。つまり私に子供が……?」

「ええ。ルト様の最近の不調ぶりを間近で見ていてもしやとは思っていましたが、確認するに間違いなく妊娠していますネ〜」

 まさか『透Kっちん』がこんな形で役に立つとは思ってもみませんでしたが、などと机の上にある色メガネみたいな道具(たぶん魔法アイテムななにかだろう)をいじりながらミランが言う。

「ついでに申し上げるなら、状況から言って間違いなく父親は勇者さんでしょうネ。しかしたった一回で命中させてしまうとは……あの勇者さん、とんでもない名手デスねぇ。まあ一回と言うか、実際は何発か騎乗位でヤっているワケなんデスが」

 ミランがまだなにか口々に言っているが──というかなんでそこまで詳細を知っているのだと色々と突っ込みたいところではあるが、そんな疑問が霞んでしまうくらいに、ルトは妊娠したという事実に驚きを隠せなかった。

「おめでた……カケルとの、子供」

 言葉の意味を噛み締めるように独り呟き、ルトは夢心地にも似た心境で優しく自身の腹部をさする。

 触ったところでまだ腹部も膨らんでもいないし、ミランみたいに内部を見たわけでもないので妊娠したという実感は持てないが、しかし言われてもみると、ここ最近の不調はどれも妊娠を思わせるものばかりだった。

 何より医者であるミランがこう言っているのだ。妊娠したのは間違いないだろう。



 それも、愛する人の子を。



「──そうか。私はこの子の母親になるのか……」

 そう自覚した途端、胸の内に春の陽だまりにも似たとても温かいものが込み上げていた。

 この気持ちを何と喩えればいいのだろう。この言葉にならない幸福感をどう表現すればいいのだろう。



 カケルとずっと一緒にいられたらいいと思っていた。

 カケルさえいてくれたらそれでいいと思っていた。

 それだけで十分に幸せだと──これ以上の幸せはないと思っていた。

 だけど今はカケルの子供を宿しているとわかって、今までにないくらい幸せな気持ちで溢れていた。

 自分に息子か娘が出来る。カケルと同じくらい大切な存在が自分の中にいる。そう思うと、まだ見ぬお腹の子が愛おしくて愛おしくてたまらなかった。



 カケルにもこの事をちゃんと伝えなければ。最初はすごく驚くだろうけど、きっとカケルなら喜んでくれる。まだ正式に夫婦の契りを交わしたわけではないが、これがきっかけでカケルの方からプロポーズしてくれるかもしれない。

 そうしたら、晴れてルトはカケルと夫婦になれる。そして生まれてくる子供と一緒に、幸せな家庭を築いていくのだ。

「おやおや。ずいぶんと嬉しそうな表情をしちゃってまあ」

「ふえ!? わ、私がか!?」

「ええ。頬なんてこんな風にダルンダルンでしたヨ?」

 と、自分の両頬を下側に引っ張って垂らしてみせるミラン。言っても、普段通りの愛想もへったくれもない顔をしているので、ミランの言う嬉しそうな顔とやらには全然見えないが。

「そ、そうか……。魔王たる者、そんなだらしのない表情を皆に見せるわけにはいかないな。気を引き締めねば」

「まあ、ワタシの前ぐらいなら気を緩めても良いとは思いますけどネ。お互い、よく知っている仲なんデスから。しかしながら、正直意外でしタ」

「……意外、とは?」

「もっと動揺するものだとばかり思っていたんデスよ。ワタシの想像では」

 そこでルトの反応を窺うように一拍置いたあと、

「ワタシが差し向けておいてこんな事を言うのもなんですが、仮にも相手は魔族の敵。しかも勇者という魔王の天敵とも言うべき存在──そんな相手の子供を孕むなんて、たとえ意中の人でも、もう少し葛藤してもおかしくはないと思ったんデスけどねぇ」

 と、ミランはそばの机に頬杖を突いて言の葉を続けた。

 その表情は相も変わらずなんの感情を読ませない無味乾燥なものだったが、そこはかとなく緊張感の足りないルトを見て、呆れの眼差しを注いでいるようにも思えた。

「そう……だな。ミランの言う事はもっともだと思う」

 ついカケルとの子供が出来たと知って浮かれてしまったが、ミランの懸念は至極正しい。こんな事が他の魔族に知られでもしたら、きっと大混乱を招くのは必死だろう。しかも負傷した勇者を密かに匿っていたなんて発覚した日には、暴動が起きたとしてもおかしくはない。

 しかし、それでも──



「それでも、私は嬉しかったんだ」



 そっと自身の腹部に両手を添えながら、ルトは静穏な口調で言葉を紡ぐ。

「私にはカケルしかいなかったから──カケルと出逢う前はずっと独りだと思っていたから、こうして子供が出来て、純粋に嬉しかったんだ。この世界には私の知らない幸せな事がたくさんあるんだと思ったら、他の事なんて頭に入らなかったんだ」

「……頭に入らなかった、デスか」

「もちろん私も留意すべき事態だというのは重々承知している。魔王という立場上、この状態を喜んでばかりはいられないと。だが──」

 そこでルトは言葉を区切り、まるでつぼみから咲いた小さな草花のような、そんな楚々とした微笑を浮かべてこう続けた。



「愛する人の子を産めるんだぞ? こんなに嬉しい事なんて他にないだろう?」



 その言葉に、ミランはようやく諦めが付いたと言わんばかりに嘆息を吐いて、

「……ま、以前と比べたら、今の生き生きとしたルト様の方が断然魅力的ではありますけどネ」

 と微苦笑を零した。

「確かに問題は山積みデスが、お世継ぎが出来たという意味では大変喜ばしいデスし、もう少し気楽に考えた方がいいかもしれませんネ。なんせ以前のルト様ったら、自分の役割以外はすべてどうでもいいと言わんばかりの厭世っぷりでしたから」

「うっ。頼むからそれは言わないでくれ……」

 あれはルトの中でも結構な黒歴史なのだ。あまり傷口が開くような真似を言わないでほしい。

「というより、まだ私の子供が次の魔王になるとは限らないのだがな。魔王は世襲制ではなく、純粋な実力から成るものだから」

「そうではありますが、先代様の例もありますからねェ。もしかすると今度生まれてくるやや子も、母親以上の才能を秘めているやもしれませすヨ? そうなると先代様も大変喜ばれる事でしょうねェ」

「母様か……」

 言わずもがなではあるが、現在療養中のカケルを魔王城で匿っているという事は、先代魔王──フレイヤには一度も話していない。

 だがフレイヤは能天気というか、寛容な部分もあるので、今まで勇者を匿っていた上、その人の子を孕んでしまったと聞かされても案外すんなり受け入れてくれそうな気もするが、こればっかりは実際に話してみない限りは何とも言えない。

「母様は……私達を許してくれるだろうか。勇者との子供が出来てしまったなんて聞いたら、さすがの母様も……」

「どうなんでしょウ。先代様の事デスから、妊娠自体は許してくれそうな気もしますけれど。どちらかと言うと問題なのは……」

「? 問題なのは?」

「……いえ。やめておきましょウ。あくまでもワタシの想像でしかありませんから」

「いや、途中でやめられると逆に気になって仕方がないのだが……」

「お気になさらず──と言っても難しいでしょうが、まあ単なる憶測で悪戯に不安を煽るような真似はしたくないので、この話は聞かなかった事にしておいてくださイ」

「……そうか。わかった」

 ミランがこうまで言っているのだ──これ以上の追求は野暮というもの。気にはなるが、ここはぐっと言葉を呑み込んでおこう。

 どのみち、今更過去を無かった事にはできないし、後悔なんて微塵もしていないのだから。

「ところでルト様。話は変わりますが、お名前はどうされるおつもりなんデス?」

「……名前?」

「ええ。つい先ほど妊娠がわかったばかりなので、さすがに今すぐにとはいかないでしょうが、気に入っている名前とかおありでしょウ? 個人的にこれを付けてみたいという名前はないんデスか?」

「名前……そうか、名前か。よくよく考えたら、この子の名前を考えなければならないのだな」

 言って、悩ましげに腕を組んで眉根を寄せるルト。

「確かに気に入っている名前はあったりするが、しかし、私の一存で決めるわけにはいかないしな。こういうのはカケルと二人でじっくり考えた上で決めたい」

「なるほど。ルト様は慎重にお子さんの名前を決めたいフレンズなんデスね」

「なんだフレンズって……」

 というか、子供の一生に関わる事だし、親なら誰でも慎重になると思うのだが。

「それに、まだ男の子か女の子なのかもわからないしな。産まれてからでないと、すぐには決められそうにない」

「別に産まれてくるまで待つ必要はありませんヨ? ある程度成長すれば『透Kっちん』で性別を確認する事も可能デスから」

 なるほど、その手があったか。確かに何でも透かす事が可能な『透Kっちん』ならば、従来のようにわざわざ誕生を待つまでもなく性別を確認する事できる。子を宿した親として、これほど便利な道具はない。まさに『透Kっちん』さまさまだ。

「とは言っても、どのみち確認できるようになるまでまだ半年以上もあるんデスけどね。その間に今後の事も含めて勇者さんとじっくり考えるのがいいでしょウ。ちなみにワタシのオススメは、男の子なら『寿限無寿限無(中略)ビチグソ丸』で、女の子なら『ルーシー貴美子明江愛理史織(以下略)』デスね」

「……何でどっちにも『略』が入っているんだ?」

 それ以前に、本気でそのネーミングが良いとでも思っているのだろうか? だとしたら正気を疑わざるをえないのだが(特に前者の方)。

「それはそうと、ルト様はどちらの方を望まれているのデスか? やはり女性としては同じ女の子をご所望デス?」

「いや」

 軽くかぶりを振って、ルトは優しく腹部を撫でながら、こう続けた。



「私はどちらでもいい。ただ元気に産まれてくれさえすれば、それだけで満足だ」



 そう。性別なんて問題ではない。

 無事に産まれてくれさえすれば、それ以上のものなんて望まない。ルトが望むのは、元気に産まれてくる赤ちゃんの姿だけだ。

「なるほど。まあ確かに、それが一番デスよね」

「うむ。だからミラン、これから母子共々健康にいられるよう、くれぐれめよろしく頼んだぞ」

「ご安心をば。マツケン産婆さんばとも異名されたワタシのこのゴッドハンドで、見事元気なお子さんを取り上げてみせましょウ」

 そのマツケン産婆とやらがどれだけ凄い称号なのかはわからないが、ミランの医者としての腕は確かだ。初めての妊娠で色々と不安な部分があるが、ミランならきっと大丈夫だろう。



 ──何があっても、お前は私とカケルと……そして信頼できる仲間と一緒に全力で守る。だからお前は何も心配せず、元気に育っておくれ。



 慈愛に満ちた微笑みを浮かべながら、ルトはまだ見ぬお腹の子に心中で語りかける。

 この子のためなら、私はなんだって出来る。この子のためなら、自分の命すら惜しくない。カケルと可愛い我が子のためなら、自分はどうなろうと構わない。

 愛する者を守るためならば、どんな事だってやってみせる。

 だから──



「早く産まれておいで、可愛い私の子。早く私とカケルの元に会いにきておくれ……」



 そっと包み込むように腹部を抱いて、ルトは静かに瞼を閉じる。

 私の子は一体どっちに似るのだろう。バカだけど心根は優しいカケル似だろうか。それとも気は強いが寂しがり屋な私似だろうか。なんにしても、健康で丈夫な子に育ってほしい。

 いや、きっと心配ない。なんせ私のカケルの子なんだから。むしろ元気過ぎて、とんでもなくやんちゃな子になるかもしれない。そうなったら私もカケルも毎日てんやわんやしそうだな。でもすごく楽しそうだ。

 この先大変な事もあるかもしれないけれど、毎日笑顔の絶えない家庭にしよう。幸せで満ち溢れた家族にしよう。

 大丈夫。私達ならきっとそんな素敵な家族になれる。



 カケルとこの子さえ私のそばにずっといてくれたら、きっと──



 ◇◆◇◆◇◆



 カランカランカラン──

 と。

 時が止まったかのように粛然した大広間の中で、不意にそんな乾いた金属音が響き渡った。



「でき、ない──……」



 それは嗚咽にも似た、掠れた少女の声だった。

 その少女の屈んだ膝下には鈍く刀身を光らせたナイフが落ちており、その輝きは刃に付着した水滴によっていっそう煌めいていた。

 そしてその水滴は、今なお刃に降り注いでおり、それは一向に止む気配が無かった。

 その一連の流れに、カケルはおろか、アレスやリタまでもが声を失くして唖然としていた。



 何故なら少女が──リタの要求通りに己の首を刺そうとしていたルトが、直前になって握っていたナイフを取り零すように落として、止めどない涙を流し始めたのだから。



「魔、王……?」

 そんなルトに、カケルは腹部の痛みに耐えながら、拘束魔法から必死に脱しようと身をよじらせていた事すらも忘れて、思わず瞠目した。

「できない……。やっぱり私にはできない……」

 悲痛げにそう呟いて、ルトは大粒の涙で濡れた頬を拭いもせず、ぎゅっと外界から守るように自身の腹部を抱いてうずくまった。



「この子を道連れにするなんて、私には──……っ」



 それは、あまりにも哀切な姿だった。

 そこにいるのは、ただ必死にお腹のやや子を守ろうとしている母親の姿だけで。

 アレス達を軽く圧倒していた時の魔王の姿など、今や影も形も無くなっていた。

 ──思えば、なんら疑問を覚える必要もない光景だった。

 あれだけ妊娠した事を喜んでいたルトが──あんなに幸せそうな顔でカケルの子が出来た事を告げていた彼女が、お腹の子と共に自害できるはずがなかったのだ。

 たとえそれが、カケルの命を救うためだったとしても。

 同じくらい大切な存在であるカケルとの子を天秤に掛けれるほど、ルトの両者に注ぐ愛に違いなんて微塵もないのだから……。

 そしてその光景は、図らずもアレス達にも衝撃を与えたようで、

「まさか君、子供が……?」

 と、お腹を抱えながらうずくまるルトを見て、全てを察したアレスが動揺を露わに双眸を剥いた。



「──関係ありません。」



 と。

 この場でただ一人、ルトを前にして毛ほども狼狽えた様子を見せず、冷淡な眼差しを向ける少女がいた。

「アレス様、心を乱してはいけません。魔王が妊娠していようが、見逃す理由にはならないのですから。」

「リタ……」

 顔色一つ変えないリタに、アレスが困惑した表情で背後にいる彼女に体を向ける。

「君の言いたい事はわかるが、魔王が妊娠しているのが、もしもそこにいる彼の子供だとしたら……」

 言って、未だ地面に這いつくばったままカケルに視線をやるアレス。

 アレスはきっとこう言いたいのだろう。



 このままルトを殺せば、同族カケルの子まで殺す事になってしまうのではないか、と。



「躊躇する気持ちはわかります。魔王の子とは言え、私達と同じ人間の血を引く子を──それもまだ誕生してもいない命を奪うというのは、アレス様のような優しい心根の方には耐え難いものがありましょう。」

 ですが、とそこでリタは一拍間を置き、当惑するアレスをまっすぐ見据えながら、はっきりこう告げた。

「それでも私達は、魔王を討たねばならないんですよ──この世界を救うために。」

「しかし……」

 リタの言葉に、アレスは未だ戸惑いを全面に出して、反論を口にしかける。

 が、そこでリタはアレスの言葉を遮って、

「アレス様、ここには私達しかいないんです。そして今が魔王を討つ好機なんです。ここで私達が情を移せば──魔王を見逃すような真似をすればどうなるか、アレス様だってわからないわけではないでしょう?」

「…………………………っ」

 その問いに、アレスはぐっと声を詰まらせて押し黙った。

 いくら世界を救うためとは言え、罪のない命を奪う事に内心葛藤しているのだろう。

 無理もない。アレスは勇者であって軍人ではない。魔族側に寝返ったカケルに対しては──別に寝返ったわけでもなんでもないが──容赦を加える気はなかったようだが、それでもやはりそこは同じ人間だ。悪人でもない限り、同じ人間を斬り捨てる事に微塵も躊躇がないわけではなかったはずだ。

 それが生まれてもいない人間の血を引く小さな命と知れば、躊躇いを覚えるのも当然と言えた。

 だが少し時を置いたのち、アレスはようやく決心が付いたと言わんばかりに伏せがちだった目線をスッと上げて、

「……わかった」

 とだけ、呼気混じりに呟いた。

「それで世界を救えるのなら、僕は罪すら背負ってでも為すべき事を為してみせよう」

 その言葉には、なんら虚勢もハッタリも感じさせなかった。

 言葉だけではない真から迫る気迫が、アレスの全身から発せられていた。

 が、そんなアレス達をカケルが捨て置くはずもなく──



「ふざ、けんな……!」



 ルトの元へ行こうとしたアレスとリタに、カケルが眼を血走らせながら、夜叉のような形相を浮かべて彼らを睨み上げた。

「勝手な事ばかり言ってんじゃねぇよっ。人の話にまるで耳を傾けないで、お前らの勝手な正義を振りかざして──結局、お前らの気に入らない奴らを、自分勝手な理屈で消そうとしているだけじゃねぇかっ!」

 開いた傷口の激痛に顔をしかめながら、カケルは口から血を滲ませながらも声を張り上げる。

「しかも魔王もろともお腹の子を殺すだって? 罪を背負うだって? バカ言ってんじゃねぇ! 罪のない命を奪ってまで、何が世界を救うだクソ野郎! お前らみたいな奴に魔王の何がわかるって──がっ!?」

「黙りなさい。耳障りです。」

 言葉途中でリタに頭を踏まれたカケルは、そのまま強かに顔面を床に打ち付けて苦しげに喘いだ。

「アレス様、先に行ってください。この者は私が見張っています。」

 もっとも、何も手出しなんてできないでしょうが。

 などと、依然として光の鎖に捕らわれたままのカケルを見下ろしながら、リタが血すら感じさせない冷めた声音で言う。

「了解。けど、あまり油断してはいけないよ。何があるかわからないから」

「はい。アレス様もどうかお気を付けて。」

 リタと言葉を交わしたのち、ルトの元へと静かに歩を進めるアレス。

 だと言うのに、迫り来るアレスに対し、ルトは微塵も動きを見せず、その場にうずくまったままだった。

 まるで、この先に待つ自分の運命を大人しく受け入れるかのように。

「逃げる気は無し、ですか。まあ無理もありませんか。こちらには人質がいるようなものですし。自分では死ねなくとも、殺される覚悟は出来ているようですね。」

「ぐっ……。てめぇ……!」

 リタに頭を踏み付けられながら、カケルは猛る獣のような顔相で怨嗟の声を上げる。

「許さねぇ……! こんな汚い真似までしやがって……! ぜってえ許さねぇ……っ!」

「許さなくても結構。確かにやり方は卑劣ですが、魔族にも魔族側に寝返った人間にも温情を掛けるほど、私達の覚悟は甘くありません。世界を救うためなら、どんな汚い手でも使ってやりますよ。」

 ゴリッと、頭を踏む力が強まる。それと同時に、カケルの頭蓋に脳髄にまで響きそうな鈍痛が走った。

「うがぁ……っ!?」

「とは言え、私達も鬼というわけではありません。このまま魔王さえ討てれば、あなたの処遇も考慮しなくもありません。裏切り者ではありますが、やはり同じ人間を手に掛けたくはありませんから。」

 ──だからそれまで、あなたはそこで静かに見ていなさい。

 そこまで言って、リタはカケルの頭からスッと足を離した。

 意想外にあっさりと足を離したリタに、思わず意表を衝かれて懐疑の眼差しを向けるカケルであったが、なんて事はない──アレスがとうとうルトの真横にまで来たのを見て、こちらへの注意が逸れただけであった。

 可能であればこの隙に反撃したいところではあるのだが、いかんせん拘束魔法から逃れるすべが今のカケルにはなく、できる事はと言えば、ただ断続的に襲う腹部に耐えながら命の危険にあるルトへと必死に顔を向ける事のみだった。

「魔王……っ」

 ともすると意識を手放しそうな最中で呟いたそのか細い声は、しかしルトに届く事はなく。

 依然として微動だにしないルトの横で、ミストルティンを眼前近くにまでやって構えているアレスがそこにおり。

 まるで追想しているかのように、静かに瞑目していた。



「長かった……この瞬間が来るまで……」



 万感の思いを込めるように、粛然とした声音でアレスは口を開いた。

「何百年と続いたこの血塗られた戦争にも、ようやく終止符を打てる時が来た。まだしばらくは混乱が続くかもしれないけど、これでようやく平和へと至る大きな一歩が踏み出せる……」

 そこでゆっくり瞼を開き、アレスは眼下にいるルトを見やった。

「けど、その前に懺悔を。僕は世界の平和のために一つ大きな罪を犯す。それはまだ産まれてもいない小さな命を断つという大きな罪だ。きっと幼き君はこんな僕を決して許しはしないだろう」

 と、それまでの厳しい表情から一転して、アレスは心から胸を痛めるように憐憫の眼差しをルトの腹部へと──その胎内にいるであろう胎児へと向ける。

「しかし、それでいい。君は僕をずっと恨んでくれててもいい。もしも君が生まれ変わって僕を殺しに来た時、僕は喜んでこの命を捧げよう。

 だからどうか、せめて君が苦痛なく安らかに逝けますように……」

 滔々と語り終えたのち、アレスは再び表情を引き締めて、ミストルティンをルトの首に当てがった。

「魔王よ、君にもせめてもの慈悲だ。一瞬で終わらせてあげよう」

 対するルトの反応は、やはり前と変わらず黙したままで、命乞いどころか、泣き声一つ上げようとしなかった。

「魔王……! 逃げろ……!」

 そんなルトに、カケルは口から血を吐きながら、必死にかすれた声で呼びかける。

 が、ルトは一向に逃げる素振りを見せない。いや、逃げようにも逃げらないだろう。

 今ここでルトが逃げたら、カケルの身がどうなるかわからないから。

 しかし、それではお腹の子もろともルトが殺されてしまう。それは彼女も重々承知の上だろうが、カケルの命と自分+赤子の命と秤にかけられた今の状態では、思考がまともに働くはずもなかった。

 だからルトは、もうじき殺されるかもしれないという状況下にも関わらず、ああして打ちひしがれる事しか出来ないでいるのだ。

 どちらを選ぶべきかなんて、わかりきった事のはずなのに──

「頼むから! オレの事なんていいから! せめてお前だけでも逃げてくれ……っ!」

 こんなろくでなしのダメ人間のために死ぬ必要なんてどこにもない。

 ルトは生きるべきだ。お腹に宿る新しい命のためにも、こんなところで死んでいい奴ではないのだ。

 祈る。願う。乞う。どちらと言うと無宗教の信仰心の欠片もなかった自分が、神に藁にもすがる思いで頼る。

 自分はどうなってもいい。こんな好きな人も守れない奴なんて死んだって構わない。こんな命、喜んで捧げてやる。



 だからどうか、どうかルトを救ってくれ──っ!



 しかし、いつだって現実は非情なもの。

 カケルの祈りが届く様子はなく、アレスは無言でミストルティンを振り上げて──



「──ごめんね。ちゃんと産んであげらなくて」



 それは、さながらしんしんと降る雪のような──されど、不思議と耳にスッと通るかそけき声だった。

 その声に、カケルだけでなくアレスやリタまでもが、まるで心を掠め取られたかのように忘我した表情で耳を傾けていた。

 そこにいる誰もが、ルトの独白に無言で聞き入っていた。



「ごめんね。ダメなお母さんで」



 ルトの懺悔が続く。

 それはあまりにも切なげで、哀しげで──何より、我が子に対する痛切な想いで溢れ返っていた。

 そばにいるアレスが、振り下ろしかけたミストルティンを顎先付近で止めたままになっているくらいに。

 そしてルトは、世界が止まったかのように静黙とした場で、ゆっくりと俯いていた顔を上げた。

 涙で濡れそぼった、とても儚げな微笑を浮かべて。





「ごめんね。大好きな人お父さんに会わせてあげられなくて……」





 その言葉に。

 カケルの中の何かが、ガチャンと音を立てて外れたような気がした。

 それは、あるいはたかとも呼ばれる類いのものだったのかもしれない。

 何にせよ──何であれ、今この瞬間、カケルは己に対する甘えも羞恥もプライドも倫理も理性も死への恐怖すらも、自分を縛る何もかもを取り払った。



「がああああぁぁぁあああぁあああああああぁぁあああぁぁぁぁぁあああぁあああああああぁあっ!!!」



 およそ人間の喉から発しているとは思えない叫喚が、カケルの口から放たれた。

 そして、自我を失った獣のような咆哮を上げながら、カケルは腹部から大量の血潮が噴き出るのも構わずに、体に巻き付いた光の鎖を引き千切らんばかりに暴れ回り始めた。

「!? な、なんですか急に……!」

 突如傷口をも厭わず暴走を始めたカケルに、そばにいたリタがギョッと双眸を向いて表情を強張らせた。

 だが、そんなものは至極どうでもいい。

 全身に走るこの激痛すら、知った事じゃない。

 自分はどれだけバカなのだろう。 どれだけ愚行を重ねれば気が済むのだろう。

 神に縋ってどうする。自分に諦観してどうする。

 今この状況でルトを助けられるのは誰だ?

 アレス達を退かせられるのは一体誰だ?

 そんなもん──



 オ レ 以 外 に 誰 が い る !!



「ぐぃうぎぃぃぁあああぁがぅああぇぇぐきぃいいゃあああぁ──!!」

 めりめりと、骨が軋む音が聞こえる。

 それに呼応するように、開いた傷口や喉から血がとばどばと溢れ出てきた。もはや体のどこが痛いのかもわからないほど、カケルは本能のままに猛っていた。

「無駄な足掻きを……」

 と。

 死に物狂いで拘束魔法を解こうとしているカケルに、リタは冷ややかな視線を送って吐き捨てるように言う。

「どれだけ暴れたところで、その拘束魔法を解く事はできませんよ。私が解除する以外は。」

 リタが何か言っているような気がしたが、今のカケルの耳には何も入ってこなかった。

 目の前で泣いている好きな女の子を助ける事しか、頭になかった。

「アレス様。さあ、早く。早く魔王にトドメを。」

「あ、ああ。そうだね」

 リタに促され、終始呆気に取られていたアレスが再びルトを討たんと、ミストルティンを振り上げる。

 その間にもカケルが雄叫びを上げていたのたが、もはやアレスもリタも気に掛ける事はなかった。

 

「ぃぎぃあうあああいぐぬぃうぃああうらりぃあああああああぁあああああああぁぁあああッ!!」

 次の瞬間──



 カケルを縛っていた光の鎖が、甲高い音を立ててバラバラになった。



「なっ──!? 私の拘束魔法を力付くで……!?」

 まさか拘束魔法が破られるとは考えもしなかったのだろう──光の鎖から解放されたと同時に立ち上がって猛然と駆け出したカケルに、リタは面食らった顔で息を呑んだ。

 そして、リタが驚愕に慄いていた一瞬の間に、カケルはめちゃくちゃなフォームで──ともすれば今にも倒れそうなほど危うい体勢にも関わらず、とてつもない速さでルトのいる所へと直行する。

「しまっ……! ア、アレス様! 早くあれにトドメを……!!」

 予想外の事態に思わず放心してカケルを見逃してしまったリタが、同じく驚愕で硬直したままでいるアレスに指示を飛ばした。

 しかし、結局アレスはリタの言う通りに動く事はできなかった。

 カケルがすぐ目の前で来ていたというのもあるが、それ以上にその鬼気迫る表情に圧倒されて、アレスは呆然と立ち尽くす事しかできなかったのだ。



「どけええええええええっ!!」



 カケルの怒号に、今さらながらハッと我に返ったアレスが、とっさに自身の胸の前でミストルティンを横に構えて防御に入る。

 ──結論から言うと、それは悪手でしかなかった。

 轟然とカケルがデュランダルを振り上げた時点で、アレスはすぐさま飛び退くべきだった。



 なんせ今のカケルは、リタの拘束魔法を強引に打ち破るほどの力を発揮している状態なのだから。



「おらああああああああっ!!!」

「ぐあああああああぁぁ!?」

 裂帛の気合いと共に繰り出されたカケルの凄まじい一撃が、ミストルティンで受け切るつもりでいたアレスをいとも簡単に吹っ飛ばした。

 そして吹っ飛ばされた時の衝撃を殺し切れないまま、アレスは床を滑るように後方にある壁際まで追いやられた。

 どうにか壁に追突せずに済みはしたが、相当威力のある一撃だったのだろう──アレスはよろよろと片膝を付いて、床に刺したミストルティンにもたれ掛かった。

「な、何なんだ今の尋常じゃない力は……!?」

 これまでとは比べ物にならないくらいのカケルの斬撃に、瞠若を隠しきれない様子で声を上げるアレス。未だ痺れが残っているのか、その両足は小刻みに震えており、先の一撃の凄まじさを雄弁に物語っていた。

 が、それはカケルにも言える事だった。

 ひとまずアレスを退ける事には成功したが、カケルは全身の力が抜け落ちたようにデュランダルを落として、そのままガクッとその場で崩折れてしまった。

「アレス様っ!」

「カケルっ!?」

 ただならぬ二人の様子に、リタは一直線にアレスの元へと駆け、一方のルトは目の前で突然倒れたカケルをすぐさま抱き起こした。

「カケル! カケル!」

 涙声で必死に呼びかけるルト。一応意識はあるらしく、時折苦しげに呻いてはいるが、腹部からのおびただしい出血量がカケルの命を徐々に奪っていた。

 すでに肌は土気色で、一刻も早く処置を施さないと、命の保証はなかった。

「な、なんで……。どうしてこんな無茶を……」

 あのまま大人しくしていれば、カケルだけでも無事に済んでいたかもしれないのに──

 せめて僅かでも血が止められるようにと、傷口を手で抑えながらカケルに問いかけるルト。その瞳は悲しみに彩られていて、止めどなく溢れ出る涙がカケルの顔に滴り落ちて、二人して涙しているようだった。

「当たり前、だろ……」

 と。

 薄弱とした意識の中で、カケルは息も絶え絶えに、そっとルトの濡れた頬に片手を添えた。



なんだから、を守るのは当たり前だろ?」



 その一言に。

 このままだと死ぬかもしれないと言うのに、それでも穏やかな微笑を浮かべるカケルに対し。

 ルトは、今にも声を上げて泣き出しそうなほど顔をくしゃくしゃにさせて、ぎゅっとカケルの頭を胸元まで抱き寄せた。

「カケル…………っ」



 ──ああ、温かい。

 ──人肌って、こんなに温かかったんだなあ。



 ルトに抱きしめられながら、カケルは安らぎを得たようにほっと呼気を零す。

 血を流し過ぎたせいか、寒気が止まらなかったはずなのに、全身だって冷たくて仕方がなかったはずなのに、ルトに触れられているだけで、まるで暖炉のそばにいるかのように温かく、そして心地良かった。

 いつかどこかで似たような気持ちを抱いた事があるような気がする。あれは一体いつの事だったか。すごく慣れ親しんだ感覚のはずなのに、何だか今では手の届かない所に行ってしまったかのような──そんな当たり前にあったモノを今まで手放していたような感じがした。



 ──そっか。実家にいる時と似ているんだ……。



 久しく忘れていた感覚だが、ルトに抱きしめられている間、家族と団欒している時の事を思い出した。

 いつも何気なく家族と接していたが、こんなにもあの頃のやり取りが愛おしく感じる日が来るだなんて。



 ──なんか懐かしいな。父さんに母さん、姉ちゃんも今頃元気にしてるかな? どっちかっつーと、元気にめちゃくちゃ怒ってそうだけど。



 激昂する両親や姉の顔を思い浮かべて、つい微苦笑するカケル。

 あの家族はカケルに似て基本楽観主義だが、決まり事や他人様に迷惑を掛けるような行為にはめっぽう厳しい方だった。もう長い事帰っていないし、怒ってもいるだろうが、きっとすごく心配しているだろう。



 ──ごめんな。それでもオレ、帰れない理由ができた。



 そう……帰るわけにはいかない理由ができてしまった。

 最初は出来心というか、望んだ結果ではなかったけれど、それでもカケルは、この異世界の地でやらなければならない事が──死んでも守らなければならない人ができてしまった。



 ルトという何よりも大切で──そして誰よりも愛しい女の子が。



「──まだです。まだ終わっていません。」

 と。

 不意にそんな力強い一言が、カケルのいる前方から聞こえてきた。

「私達はまだ負けていません。勝負はこれからです。」

「……そうだね。こんな所で諦めるわけにはいかない」

 それは、ようやく体の痺れが無くなって普通に立ち上がる事ができたらしいアレスと、その傍らで杖を構えるリタのものだった。

 全身全霊を込めた一撃のつもりだったが、やはりあれだけはアレス達の戦意を削ぐところまでには至らなかったらしい。

「くっ。アイツら……っ」

 苛立たしげに歯噛みしながら、カケルはそばに落ちたままのデュランダルを手元に手繰り寄せた。

 だが、デュランダルを握る事はできても、腕に力が入らないせいで思うように持ち上がらない。それどころか貧血症状で立ち上がる事すらままならなかった。

「くそっ。こんな時に……!」

「ダメだカケル! そんな体ではもう無理だ! 私の魔法障壁でなんとか守ってみせるから!」

 絶対に戦わせはすまいと言わんばかりにルトがカケルの体を強く抱き締めるが、しかし、どのみちルトの言う方法ではジリ貧だ。いくらかつわりも緩和したようにも見受けられるが、全快したとも考え難い。

 あまつさえ、カケルのような荷物がいては守りに徹するしかなく、ろくに反撃もできない。それまでにルトの魔法障壁がアレス達の攻撃に耐えられるか、かなり疑わしいものがあった。

 つまりは、八方塞がり。

 単刀直入に言うなら、絶対絶命の危機。

「……まだ抵抗するつもりでいるのかい?」

 そんな抗戦する意思を見せるカケルとルトに、アレスが呆れにも似た憐憫の表情を浮かべて言葉を紡ぐ。

「魔王は満足に魔法が使えない状態だし、もう一人に至っては瀕死も同然。正直に言って無謀でしかない行為だよ。僕達としても重傷者をむやみに痛ぶるような真似はしたくないし、頼むから無駄な悪足掻きなんてやめて──」





「ずいぶんと、を可愛がってくれたようねぇ」





 唐突に響き渡った、ゆったりとした口調ながらも、凛と張りのある声音。

 その声に、アレスとリタがギョッと弾かれたように出入りの扉を振り向く。

 そしてカケルとルトも、アレス達より遅れて、その聞き覚えのある声の方へと面食らった顔で視線をやった。

 すると、そこには。

「ここまで好き勝手に暴れてくれたんだもの。こっちもそれなりに礼を尽くさないといけないわよねぇ」

 それはルトの母親にして、かつて魔族の頂点に君臨していた絶対的王者。



 先代魔王であるフレイヤが、妖艶に微笑を浮かべながら、悠然と扉の前で佇んでいた。


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