第43話 たとえこの命を天秤に掛けたとしても



 リタにとって実の両親は、愛すべき家族であると共に、最も尊敬する研究者でもあった。

 父と母はリタが生まれる前から魔法の研究者として働いており、主に人体に影響を及ぼす魔法──たとえば治癒系だとか身体能力を上げるものとか──について研究していた。深くは知らないが、その筋ではそれなりに名を馳せていたようだ。

 とは言え、父と母が夫婦となり、とある研究機関から独立した後の話であり、それまでは色々と苦労もあったのだとか。

 それでも、片田舎で小さな研究所を設立し、そこで細々とながら研究を続け、ついに父と母は研究者として成功を納めるようになっていた。

 そんな中でリタが生まれたわけではあるのだが、その頃には両親も町の人たちにも尊敬の眼差しを注がれるほど有名人となっていた。中には両親に協力する民間の人間も現れ、研究は順調に進んでいった。

 幸せな日々だった。衣食住に困る事もなく、友人知人にも恵まれ、何より大好きな家族と一緒に過ごす笑顔の絶えない毎日が、愛おしくてたまらなかった。



 あの日、研究所で大爆発事故が起きるまでは。



 原因はよくわかっていない。火元が生活スペースの方ではない研究室からの方だったらしいので、研究中に起きた事故だったというのが後の調査結果で判明したが、それが具体的にどういった過程で発生したものなのかどうかまでは不明のままだった。

 幸い、リタはその時研究所からだいぶ離れた位置で友人達と遊んでいたため、爆発に巻き込まれる事はなかった。

 だがその代わり、爆発に気付いて自宅である研究所に戻った時には周囲の建造物を巻き込んで巨大なクレーターが出来ており、両親の生死は見るからに絶望的だった。

 いや、酷な言い方をすれば、まだ両親だけ死んでいてくれた方がマシだったと言えるかもしれない。研究所だけならともかく、周りにあった建物すら消滅してしまっているのだ。そこにいた住人達がどうなったかなんて、言うまでもないほど悲惨的な状態だった。

 当時、リタはまだ十歳。年齢的にはそろそろ分別も付いてきた頃ではあったが、分別が付いてきたからこそ、その絶望な状況に頭が真っ白に──そして全身の血の気がさながら潮のように一気に引いた。

 クレーターの前で虚ろに佇むリタの耳に、断続的に届く悲鳴と怒号。その中には研究所にいた人達の安否も含まれており、そこに両親がいたのは間違いないようだった。

 そして爆発の原因が、どうやら両親が実験中に起こしたものだったという事も。

 周囲には、どうにか爆発そのものから免れたものの、爆風によって損傷した者で溢れ返っていた。中には命の危険にある人も見られ、この先さらに死傷者数が増えるのは明白であった。

 その時、自分がどんな顏をしていたか、リタはよく知らない。ただ茫然自失としていたのはわかっているが、何故だか涙が出なかった事だけはよく覚えている。

 それは悲鳴も涙も出ないほどショックを受けていたからに他ならないが、それ以上に、その先に起こる出来事が強烈過ぎて、もはや記憶にも残らなかったのだ。



 始めはリタに対する罵声だった。



 何と言われかまではよくわかっていない。相手もかなり取り乱していたし、涙声でよく聞き取れなかったが、確か「この人殺し!」とか「家族を返して!」とかだったような気もする。

 そしてそれは、綺麗な水面に落とした泥のようにすぐさま広がり、罵詈雑言の嵐になってリタに攻め寄った。

 そこにまだ子供だとか、事故の主原因ではないなどという配慮は一切なかった。誰も彼もがリタを口汚く罵り、烈火のような怒りをぶつけてきた。

 当然だ。たとえリタが起こした事故ではなくても、両親が起こした事には変わらない。悪魔とか疫病神と罵られても、致し方ない事だ。

 リタに罪はなくとも、両親の罪は死して尚消える事はない。家族として責任を取る必要がある。まだ子供でも、その重責を負う必要が、自分にはある。

 だから、どんな罵声にもリタは甘んじて受けた。一生分──否、一生涯言われる事もないような悪罵の羅列にも耐えた。ついにはあちこちから石をぶつけられるようにまでなってしまったが、決して反抗はしなかった。

 滂沱のように涙を流し、嗚咽を漏らし、体中が傷付こうとも、リタは歯を食いしばって耐え続けた。

 耐える事でしか、両親の罪を償う方法を知らなかったから──

 が、さすがに見かねるものがあったのか、騒ぎを聞きつけた他所よその町の人間と思われる者が助けに入ってくれたのだが、その時にはリタは額に直撃した石によって既に意識を手放していた。




 目覚めた時には、どこかの宿屋だと思われるベッドの上で寝かされていた。

 覚醒したばかりでまだ意識が混濁とする中、リタは体を起こそうとして、瞬時に響く全身の痛みに顔をしかめた。

 よくよく自分の体を見てみると、あちこち包帯が巻かれていた。誰かは知らないが、治療をしてくれた人がいるようだ。

 窓を覗くと、眩い太陽が青空高く昇っていた。昨日爆発音を聞いて事故現場に駆け付けた時には夕暮れ近い時間帯のはずだったので、どうやまリタが眠っていた間に一日が過ぎてしまったようだ。



 ──そっか。あれから一日が過ぎたんだ……。



 今でも白昼夢でも見ていたかのような気分だ。なまじ起きた事があまりにも現実離れしていて、未だにどこか信じられないでいる往生際の悪い自分がいる。

 だが全身に走る痛感が、包帯の下から覗く生々しい傷跡が、あの時の光景が幻でもなんでもなかったのを雄弁に語っていた。

 だというのに、この後に及んでまだ両親の死が実感できないでいた。

 爆発でクレーターが出来た現場を目の当たりにはしたが、その死体までは見ていないせいなのかもしれない。死体なんてあの爆発で微塵と化しているはずだが、それでもまだ、両親はどこかで生きているかもしれないと、どうしてもそんな淡い希望を抱いてしまうのだ。

 そうでなければ、この先自分一人でこの町に住むなんて、あまりにも──

 と、その時、閉じられたままのドアの向こうから、人の話し声のようなものが聞こえてきた。

 気になって、体中に走る鈍痛に顏をしかめながらも、リタはベッドから降りてドアへと近寄る。

 耳を澄ましてみると、数人の男女の話し声が、ドアを越えた先から聞こえてきた。

 一人は長い年月を刻んできたような渋い声音で、また気品溢れる丁寧口調が、何処ぞの執事を思わせるものがあった。どこかの貴族の雇われ執事かもしれない。

 他にはそれより年齢が下かと思われる女性や男性達の声で、どうやら話を聞いてみると、執事風だと思った男は本当に執事だったようで、そのご主人様の命令でリタを助けてくれたようだった。

 しかしながら、内容はかなり殺伐としていて、リタの引き取り手はいないのかという話で熱が上がっていた。

 リタもそれほど詳しいわけでもないが、確か両親には親戚と呼べるような者達はいなかったはずだ。それは両親共に周囲の反対を押し切って研究職の道に進み、ほぼ勘当に近い仕打ちを受けたため、リタ自身、今まで親類を見た試しがなかった。

 そのため、質問された殆どの者達が、親類に心当たりはないという当然の答えが返ってきた。

 それならば、あの子を引き取ってもらえそうな家庭は知らないかと再び問いを投げかけたのだが、色良い返事を聞ける事はなかった。

 そればかりか──



『あんな子、引き取る人なんていやしませんよ』

『そうですよ。あの子が起こした事故ではありませんけれど、その両親が事故を起こしたのには変わりないんですよ? そんな子、誰が引き取ろうと思うものですか』

『実際、本当に事故だったかもわかりませんしね。どんな実験をしていたかはわかりませんが、実はかなり危険な真似をしていたんじゃないですか?』

『あんな人殺しの娘の引き取り手なんて探すだけ無駄ですよ。さっさと孤児院にでも入れるべきです』

『むしろ、さっさとこの町から追い出すべきでは?』

『いやその前に、あの娘に相応の罰を与えるべきだ! あいつの親のせいで、うちの祖父が爆発に巻き込まれて死んでしまったんだぞ!』

『悪魔よ悪魔! あの子は私達の息子を殺した悪魔の子よ!』



 ドアの向こうから、口々にリタを罵倒する声が響く。

 その中には、聞き慣れた声もちらほらと混ざっていて、今リタがこの部屋を出たら、それまで親交のあった者達がどんな風に怨嗟で顔面を歪めているか、想像に難くなかった。

 全身から力が抜けていくように、リタはドアに背中を預けて、ズルズルと腰を伏せる。

 不意に、目尻から一筋の涙が零れ落ちた。

 それに追随するように、瞳から涙が溢れては、次々と頬を濡らしていく。

 その時になって、リタはようやく悲愴感に苛まれた。

 両親がいなくなってしまったというのも勿論あるが、それ以上に自分の周りに味方をする者が誰一人としていないという現状に、形容できない絶望感に打ちひしがれてしまったのだ。

 こんな世界、自分には絶対耐えらない。一人でこの過酷な世界を生きていくなんて、自分には絶対に無理だ。いつか気が狂って、自ら死を求めるに決まっている。

 そうしてリタは、さながら殻に籠るように、自分の感情に蓋を閉じた。

 精神が狂うあまり、自殺へと直行しないように。

 そして何より、もう二度と悲しむ必要がないように──




 そうして、誰もリタを引き取るという人間が現れないまま三日が過ぎた頃。

 突如、リタを引き取りたいと名乗り出る者が現れた。

 それは、リタを投石から守ってくれた執事の主人──しかもリタとそれほど年齢が変わらない少年だった。

 なんでもその少年は偶々この町に立ち寄っただけだったのだが、件の爆発事故で足止めをくらい、そうして事故現場を見に行った際に周囲の者から罵声と暴行を受けているリタを発見し、そのままここに留まったようだった。

 どうしても、あの子の事が気になると言い張って。

 そうして、リタの引き取り手が見つかり次第、この町から出るつもりだったらしいのだが、誰も名乗り出ないのを見かねた少年が、自分の家に連れて帰ると発言したのだ。

 周囲の人間は喜んだ。相手が金に不自由のない貴族だったからというのもあるが、何よりリタという厄介者が何処ぞへと行ってくれる事に、周りは喜んだのだ。

 以上の話を、その貴族のお坊ちゃんから直接会って聞かされた(リタを気遣ってか、周囲の反応を少しぼかして表現していたが)わけではあるのだが、正直言ってどうでもよかった。

 確かにありがたい話ではあるし、断るつもりも毛頭ないけれど、だからと言って活力が湧いてくるかと言ったら、別にそんな事はなかった。

 自分を引き取ってくれる人間が現れたところで、自分が孤独であるのには変わらない。だいいち、こんな身寄りもなければ下賤の身でしかない自分に優しくしてくれる人間が、どれほどの数がいると言うのか。そこが貴族の家だと言うのなら尚更、居場所があるように思えない。

 それでもリタは、ただ命令だけを受ける自動人形のように宿屋を出る準備し、馬車が手配していると言う少年達の後に続いた。

 と、そんな時だった。



 玄関口から出た途端、遠方から石を投げられたのは。



 幸い、石はリタに当たらないでその横にあった壁に直撃しただけで済んだが、犯人である二十代前半くらいの女性が、眼光を凄ませたまま地面にあった石を拾って叫ぶ。

「なんでうちの夫が死んで、あんたみたいなのがのうのうと生き残ってるのよ! あんたが死ねばよかったのにっ!」

 犬歯を剥いて罵声を飛ばすその女性に、ああ、この人も大事な人を亡くしたんだなと、無感情に納得した。

 大方、リタがこの町から出て行くと聞いて、せめてもの復讐にと、こうしてここへやって訪れたのだろう。

 しかもそれは初めに石を投擲してきた女性だけでなく、周りにいた者達も同じようで、皆示し合わせたように石を握っていた。

 あそこにいる全員が、この町から無言で去っていこうとするリタに怨恨をぶつけに来たのだろう。相当な数の死者が出たと聞くし、やり場の怒りが直接関係はないはずのリタにまで向いてしまうほど、理性を保てなくなっているだろう事は想像に難くなかった。

 それでもいいと、リタは思った。理由はなんであれ、両親が爆発事故を起こしてしまったのには変わらない。その矛先が今亡き両親の代わりにその娘に向いたとしても、至って自然な流れだ。

 そして、怒号と共に投擲された石の雨に、甘んじてその罰を受けようと静かに瞼を閉じようとして──



 一度馬車に向かったはずの少年がすぐさまこちらへと引き返して、まるで逃げようともしないリタの前に突然躍り出た。



 唐突に現れた少年に、リタだけでなく、石を投げた民衆までもが驚愕に目を剥く。

 が、今更リタに当てるはずだった石を途中で止められるはずもなく、そのまま少年の全身の至るところに直撃した。

「うっ……」

 悲痛に呻いて、その場にしゃがみ込む少年。その額からは赤黒い血が流れており、綺麗に整っている顔を赤く染め上げた。

 あれだけの石の量を全身に浴びたのだ──普通なら泣き叫んだとしても無理はないはずなのに、少年は泣き言一つ零さずに、よろめきながらもリタを庇うように両手を広げて立ち上がった。



「彼女に罪はない。それでも怒りをぶつけたいというのなら、主人たる僕にぶつけるがいい」



 毅然と言い放った少年の威容に、誰もが圧倒されたように声を失って後ずさっていた。

 しかしながら、今やリタの視界に彼ら彼女らなど入っていなかった。

 その瞳に映るのは、依然としてリタの前に立つ少年の姿だけだった。

「どう、して? どうして私なんかを庇って……」

「当然だよ」

 そうきっぱり断言して、少年はリタの方へと振り返って、世界を優しく包み込むような穏やか笑みを浮かべた。



「君は──リタは今日から僕の従者になるんだ。だったら主人たる僕が従者を守るのは当然の役目だよ」



 その言葉に、リタは涙を流した。

 封をしたはずの感情をこじ開けられ、止めどなく溢れてくる喜楽と連鎖するように、涙腺が決壊して嗚咽が漏れる。

 自分は一人ではなかった。こんな自分でも、その身を挺して守ってくれる人がいた。それが何よりも嬉しくて、たまらなかった。

 この人に一生付いていこう。従者の心得なんてまるで知らないけど、必死に覚えてこの少年に尽くそう。

 それがリタに出来る、せめてのもの恩返しなのだから。

 そして、死ぬまで心に刻むのだ。



 アレスという、誰よりも何よりも大切な人の名前を──。



 数年後、リタは誓い通りアレスの右腕的存在とも言えるほどの従者として成長し、またトラウマだった魔法の技術を磨いて、魔法使いとしても重要視される事となる。

 一度感情に封をしてしまったせいか、後遺症でうまく表情を浮かべられないようになってしまったが、そんなリタにアレスは嫌な顔一つせずに、ずっとそばに置いてくれた。

 すでにアレスにはカンナという従者がいたのだが、それでも構わなかった。愛する人の隣りにいられるのならどんなに辛かろうとも我慢できるし、アレスが望むならどんな事でも──どんなに非道な手を使ってでも叶えてあげたかった。



 たとえそれが、世界最強の魔王を倒すという、途方もない望みだったとしても。



 ◇◆◇◆◇◆



「ぐぅ……っ!」

「はぁ、はぁ。や、やっと取り押える事ができました……」

 地べたに這いつくばるカケルに杖を向けつつ、リタは荒い息遣いで安堵の声を漏らす。

 カケルは今、リタの束縛魔法──体に巻かれた光の鎖によって、うつ伏せのまま満足に身動きが取れないでいた。

 しかもその鎖が強固で、ちょっと力を加えただけではまるでビクともせず、腹部の傷が開いたせいもあって、全身に力が入らなかった。

「どうやら、以前どこかで怪我を負った事があるようですね。ですが、そのおかげで助かりました。」

 乱れた呼吸を整えて、リタは胴から止めどなく血を流すカケルを睥睨しながら、冷たい声差しで言う。

 抵抗したいところではあるが、鎖を解こうとするだけで傷口が痛み、出血が増す。まさかこんな肝心な時に腹部の傷が開くなんて思ってもみなかった。治ったとばかり思っていたが、まだ完治には程遠かったのだろうか。

 そんな状態であれだけ激しく動き回れば傷が開くのも無理はないと思うが、しかしこんな形で逆転されてしまうだなんて。せっかくアレス達を追い込んで、その内の一人を行動不能にできたというのに。

「くそ……っ」

 思わず、歯痒さが悪態となって漏れ出る。ルトを助けるためにここへと来たというのに、自分は一体なにをしているんだ。これでは自ら敵の手に堕ちに行ったようなものではないか。

 そんな慚愧の念に苛まれているカケルをよそに、

「……アレス様、カンナさんの様子は?」

 と、意識を失ったままのカンナの治療を施しているアレスに、リタが心配げに問いかけた。

「大丈夫。傷は浅くないけど、回復アイテムを使えばなんとかなりそうだ」

「そうですか……」

 アレスの返答に、ほっと胸を撫で下ろすリタ。リタもカンナもアレスを慕っているようだし、恋敵というのもあって普段は仲が悪いのかとばかり思っていたのだが、そんな事もなかったらしい。

 それにしても、加減をしたつもりはなかったのに、カンナがまだ致命傷を負う事なく生きていたなんて。心のどこで人を殺すのに躊躇いを覚えて、無意識に力をセーブしてしまったのだろうか。ほとほと、自分の甘さに嫌気が差す。

 そして何より、こんな事態を招いてしまった自分の愚かさに。

「さて──」

 と、安堵した瞳から一転、リタは地面に伏せたまま動けないでいるカケルに射抜くような視線を向けて、言葉を継いだ。

「一時はどうなる事かと思いましたが、完全に形成逆転ですね。たった一人でここまでやれるなんて予想だにしていませんでしたが、なにはともあれ、これで貴方もお終いです。」

「うぐっ──!」

 傷口付近を杖の切っ先で突かれ、カケルは苦しげに呻く。

「無様な姿ですね。人間なのに──勇者のはずなのに魔王を庇ったりするからそうなるんですよ。神が与えた罰です。」

 話している内に、リタが容赦なくカケルの傷口を杖で抉る。その激痛に絶叫を上げたくなったが、顔面を歪めつつも必死に叫び声を呑み込んだ。

 ダメだ。ここで必要以上に苦しんでいる姿を晒すわけにはいかない。

 そうでないと、彼女が──



「──カケルっ!!」



 と、遠くの方から、そんな悲痛げな声がカケルの耳朶を打った。

 痛みに意識を刈り取られそうになりながらも、カケルは呼び声がした方へと必死に顔を向ける。



 そこには、カケルの言い付けを守ったまま──されど今にも飛び出しそうな勢いで魔法障壁に体を寄せるルトがいた。



 まずい。いくらか血色は良くなったようにも見えるが、さりとて全快という風にも見えない。あんな状態で魔法障壁から出ようものなら、アレス達に狙ってくださいと言っているようなものだ。

「……魔王。そこから絶対出るな。そしたら、いつか応援が──うがぁぁ!?」

「誰が口を開いていいと言いましたか。」

 言葉途中でさらに杖の切っ先を押し込まれ、カケルは激痛に喘いだ。

「カケルっ! カケルぅぅぅ!」

「おや、ずいぶんと貴方にご熱心のようですね。魔王のくせに人間の男を気にかけるなんて面妖な」

 ぐりぐりとカケルの傷口を押し付けたまま、リタは怪訝に眉をひそめて言う。

「ですが、良い事を知りました。つまり貴方を使えば、その壁から出すのも不可能ではないという事ですね。」

「てめぇ……!」

 聞き流せないセリフを吐いたリタに、カケルは血走った眼で睨み付ける。

「……ふざけんな。あいつには指一本触れさせねぇぞ……!」

「勇ましい事ですね。生殺与奪権はこちらにあるというのに。」

 憤激するカケルに、リタが無味乾燥な表情を向けて声高に言い放つ。

 まるで、離れている位置にいるルトにもわざと言い聞かせるかのように。

「今や貴方の命は、私達が握っているも同然なんですよ。つまり、生かすも殺すもこちら次第。まあ、もっとも──」

 そこで言葉を区切って、リタは不意にカケルから杖を離し、代わりに懐からナイフを取り出した。

 その刃先を、カケルの首を当てがって。



「人類を裏切って魔王の味方をした勇者なんて、生かしておく理由がありませんけれどね。」



 冷淡に紡ぎ出したリタの言葉に、カケルは総毛立った。

 こいつは本気だ。仮にも同じ人間であるはずなのに、そこに躊躇といったものはまるで感じられない。目的のためならば、容赦なくカケルを殺す覚悟が出来ている

 そうまでして、ルトを──そしてそれに味方する者を排除したいというのか。



 たとえその手を同族の血で濡らす事になろうとも。



「……お前、どうしてそこまであいつに固執するんだ。そこまで魔族が憎いのか?」

「人類に仇なす存在なんですよ? 憎んで当然でしょう。」

 ですが、理由が一つだけというわけもありませんけどね。

 そう消え入りそうな声で呟いたリタに、カケルは「え?」と眉をひそめる。

「貴方には関係ない事ですよ。それで、そこにいる魔王はどうするつもりでいるんですか?」

 言って、リタは未だ魔法障壁に守られたままのルトに視線を向けた。

「別に私は構いませんが、そこでこの人間が死ぬのを大人しく見ているつもりですか? 所詮は我が身が可愛いと?」

「ち、違う! 私は、私は!」

「ま、いいでしょう。大切な人が死ぬというのがどういう事を思い知らせてあげるのも、それはそれで魔王に苦痛を与えられそうですし。」

 ルトの言葉を遮って、リタがカケルの首にナイフを当てたまま、冷然と先を続ける。

「とは言え、このまますぐ殺すのも味気ないですね。そうだ、少しずつ痛みを与えるのもいいかもしれません。最初は両耳。その次は鼻。次は唇。次は眼球でも抉り出してみせましょうか。」

「…………っ!」

 こいつ、わざと空恐ろしいワードを出す事で、ルトを挑発している。ルトを魔法障壁から出して、無防備となったところを狙うために。

 しかも性質たちが悪いのは、本気でリタがカケルに拷問を加えるつもりでいる事だ。ルトを魔法障壁を出すためならば非人道的な真似だってやってのけるという強い意志が、その顔には宿っていた。

 ダメだ。それだけは絶対に阻止しないと。ここでカケルが拷問を受けて死んだとしても、ルトさえ魔法障壁の中にいたら何とかなる。まだどれだけつわりが酷いかはわからないが、いずれは回復するだろうし、その内魔王城に残っている兵も駆け付けてくれるはずだ。そうなれば、まだ勝機は魔王軍にある。

「こいつらに耳を貸すな! オレはどうなってもいい! だから絶対そこから出るな! お前さえ無事でいてくれれば、オレはそれで──」



 パリィン!

 と、そこで突如、ガラスが割れるような音が周囲に響いた。



 カケルの制止を最後まで聞かず、ルトが魔法障壁を解いて外に出てしまったのだ。



「!? お前なにやって──」

「頼む」

 そう言って、驚愕で声を荒げるカケルをよそに、ルトはその場で膝を付いてリタに懇願した。

「お願いだから、カケルをそれ以上を傷付けないでくれ。なんでもするから、頼む……」

「魔王……お前……」

 リタの前で頭を下げるルトに、カケルは先ほどの勢いを失くして呆然と呟く。

 あのプライドの高そうなルトが、カケル以外の人間に頭を下げるなんて。ルトにしてみれば、忌み嫌う存在であるはずの人間にあんな真似をするなんて、屈辱以外のなにものでもないだろうに。

 それでもルトは、己の身の安全を放棄してまで懇願してくれたのだ。



 すべては、カケルを──好きな人を守るために。



「どうやら、魔王を引きずり出すのに成功したようだね」

 と、それまでカンナの治療に専念していたアレスが、リタの横に並んでそう口を開いた。

「アレス様。カンナさんは?」

「もう心配いらないよ。意識はまだ戻っていないけれど、じきに目も覚ますと思う。それより……」

 そこまで言った後、アレスは光の鎖で巻かれたままのカケルに目もくれず、ルトにミストルティンを向けた。ルトに鉄槌を下すつもりでいるのだ。

「これでようやく、人間と魔族との争いに終止符を付けられそうだね」

「ええ。ですがアレス様、もう少しだけ待ってくれてもいいですか?」

「……? どうしてだい?」

「せっかくなら、こうしましょう。」

 言って、不意にリタは立ち上がり、手に持っていたナイフをルトのいる方向へ放り投げた。

 カランカランと、無機質な金属音が静謐と化した場に響き渡る。意味不明な行動に誰もが当惑した顔をする中、リタだけは無表情に言葉を継いだ。

 それも、場が一瞬にして凍り付くような一言を。



「魔王、そこで自害なさい。」



 その言葉に、今度は誰めが瞠目した。

「貴方、先ほど何でもすると言いましたよね。だったら愛する人のために、その命を捨ててみなさい。」

「お前! 一体なにを言って──げはっ!?」

「貴方は少し黙っていて下さい。」

 反駁しようとしたカケルの喉目掛けて杖を突き出すリタ。

 喉を潰され、結局怒りをぶつけらないまま、カケルは咳き込んで顔をしかめる。

「カケル! やめてくれ! カケルに何もしないでくれっ!」

「ええ、何もしませんよ。魔王が要求通り、自害してくれるなら。」

 リタの剣呑な言葉に、ルトは息を呑んで押し黙る。

「本当にこの男を愛しているというのなら、その命を捨てるのだって惜しくはないはずでしょう? 貴方のその愛を証明してみて下さいよ。」

 かつてアレス様が、私を救ってみせてくれたように。

 言って、リタは熱っぽい視線をアレスに向ける。

 よくは知らないが、過去にアレスがその身を挺してリタを守ってくれた事があったのだろう。だからリタは、同じような愛の証明をしてみせろと言っているのだ。

 ただし、自分の命を捨てるという悲劇的な方法で。

「そうだね。ここで魔王を裁くのは容易いけれど、君にも償いの場を与えるべきだ。もしも君がこの勇者君のために命を捨てられたなら、魔王は残虐非道というだけではなかったと、ちゃんと僕達の口から世界中の国々に伝えるよ。君達魔族が犯した罪が消えるわけではないけれど、少なくとも彼らを見る目は変わるはずだよ」

 リタの発言に同調するように、アレスがさながら聖人にでもなったつもりのような温和な笑みを浮かべる。

「きっとみんなこう思うはずだ。種族は違えど、彼ら魔族も誰かを大切に思いやる心があったのだと。そうなれば、たとえ魔王がいなくなった世界でも、皆、君達を尊重し、むやみやたらに魔物や魔族を狩ったりはしなくなるはずだよ」

 自分の言葉に酔ったように次々と荒唐無稽な事を口にするアレスに、カケルは歯噛みして苛烈な視線をぶつける。

 何を言っているんだこいつは。最初からルトに罪なんてない。すべては互いの先祖の相応の行き過ぎた暴虐が招いた惨劇であって、ルト自体は戦争を仕掛けた事もなければ、人間を蹂躙したなんて過去もない。現状に限って言えば、一方的にルトを敵視している人間側にこそ問題があると言っても過言ではないのだ。

 だが、今のアレス達にカケルの声は届かない。そんなのは絵空事だと──自分達こそ正しいと信じて疑わない。人間側こそ正義であると固定観念に縛られているのだ。この認識を一朝一夕で改めるなんてほぼ無理だ。

 だいいち、今は説得する時間もなければ、先ほど喉を潰されて満足に声も出せない状態にいる。なんとしてでも、ルトをアレス達から逃す方法を考えねば。



「……それは、本当か?」



 と、必死にカケルが思案を巡らす中で、不意にルトがそんな問いを漏らした。

「本当に私が死ねば、カケルを殺さず、その後も魔族に手を出さないように取り計らってくれるのだな?」

「とりあえず、貴方が大事にしているこの男の命だけは保証しましょう。魔族に関しては、なにぶん根が深いので一部命令を無視する者もいるでしょうが、こちらでなんとかしてみましょう。魔王がその命を犠牲にしてまで守ろうとしたものを、私達も出来うる限り力を尽くして守る事を必ずしも約束いたします。」

「そうか……」

 リタの言葉に頷いて、ルトはナイフがある所へと歩み、その柄を両手で握って持ち上げた。

 その刃先を、自身の首元に向けて。

 まさか。

 まさか、あいつ本気で──!?

「や、やめっ。げほげほっ……!」

「すまないカケル。こんな事をしてもカケルは絶対喜ばないってわかっている。けど、それでも私は──」

 未だ喉の痛みでうまく発声できず──それでも血反吐を吐きながら必死の形相で止めようとするカケルに対し、ルトは静かに涙しながら、今にも泡となって消えそうな儚い微笑みを浮かべてこう言った。



「カケルのいない世界なんて、私には耐えらない」

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