第30話 せめて少しばかりの微笑みを/その誓いは蛮勇



「そうデスか。色々と思うところはありますが、勇者さんが決めた事なら仕方ありませんネ」



 ミランは。

 カケルの「明日には此処を発つ」という発言に、いつも通り無味乾燥な態度で──しかしながら、どことなく残念そうな表情を浮かべて、そんな言葉を返した。

 ミランの医務室、というより研究室と呼称した方がしっくりくるのかもしれない──そんな彼女のプライベートルームも兼ねている室内で、カケルは中央に備え付けらているソファーに、さながら余命宣告された患者の如く沈んだ顔をして座っていた。

 蒼月そうげつの日──つまりフレイヤとの邂逅を果たしたその翌日。

 ある程度の旅仕度を終えて、カケルは今までお世話になった礼も含め、挨拶回りにミランの元を訪れていた。

 旅仕度と言っても元が軽装だった身だし(せいぜい数日分の食糧を用意したぐらいだ)、挨拶回りにしても、ルトとフレイヤを除けばミランしか知り合いがいないので(一応勇者なので、魔族だらけの城内を闊歩するわけにもいかないというのもある)、言うほど大層な意味合いは無いに等しいのかもしれない。が、せめて別れの前に命の恩人であるミランに礼ぐらいは言っておくべきではないか。そう考慮した上での行動だった。

 それにしても、相変わらずここは自分の苦手な消毒液の臭いが充満していて、どうにも落ち着かない。長らくお世話になった場所ではあったが、結局順応できなかったようだ。まあ、病室に慣れるというのもどうかと思うが。

 などと詮無い事を考えながら、横で何やら作業を行っているミランを何となしにぼんやり眺める。

 ミランは今、机の上で魔法アイテムの一つである透Kっちん(レンズ越しに見ると、あらゆる物が透けて見える代物だ)をいじっていた。何でも透Kっちんの調子が悪いらしく、修理している真っ最中なのだとか。

 一度どこがどういう風に悪いのか訊いてみたのだが、本人いわく、

「透Kっちんは単に物を透かして見るだけのアイテムではないんデス。他にも犯人の行方を追跡できたり、ペルソナの力を使えたり、魔眼を封じたりと様々な能力を秘めているんデスよ。なのにある日突然機能しなくなってしまいまして……」

 と意味不明な供述をしており、何も聞かなかった事にしておいた。

 何でたかがメガネに、そこまでのチート機能が備わっているのだ。

「あ〜、駄目デスね。全然駄目デス。一朝一夕いっちょういっせきでどうにかなるレベルじゃないデスね、これは」

 一旦休憩にしますカ、とミランは椅子の上で筋肉をほぐすように大きく背中を反らした後、緩慢な動作で立ち上がった。

「お前って、医者以外にもそんな修理みたいな事も出来るのか? 思っていたより手先が器用なんだな」

「ん? ああ、今は医者なんぞやっていますが、元は研究職デスからね。その延長線上でこういった技能も身に付けたんデスよ。主に魔法アイテム専門デスが、ちょっと壊れた程度の物なら簡単に修復できちゃいますヨ?」

「へえー。スゲぇな」

「ええ。牡羊座デスからね」

「なるほど。牡羊座だからか」

 いや、何が『なるほど』なのかはさっぱり分からないが。分かってないんかい。

「ところで勇者さん。今からお茶にしませんカ? ちょうど良い茶葉を最近ゲッチューしたんデスよ」

 言って、すぐそばにある戸棚へと手を伸ばすミラン。どうやら、本格的に休憩タイムへと入るようだ。

「良い茶葉?」

「はい。いつもなら価格が高くてなかなか購入できない物なんデスが、最近とある店に行くと破格の値段で入手できるという噂を耳にしましてネ、それで半信半疑ながら件の店に行ったら、実際安いじゃないデスか。気が付いた時には既に買っていた後でしたヨ。いやー、なかなか粋な事をしますネ。あそこのシャッチョ=サンも」

「外国人の風俗嬢みたいな言い方はやめい」

 それにその場合だと、社長ではなく店長と呼んだ方が正しいのではないだろうか。

「にしても、そうか。そんなに良いお茶なのか。ちなみに、なんていうお茶なんだ?」

「ネオサイタマシティーデス」

「イロモノじゃねぇか!」

 飲んだら最後、ニンジャの魂に目覚めそうなネーミングだった。

「誰が飲むかそんなもん! 他のにしろ他に!」

「冗談デスよ冗談。いくら何でもそんな怪しい物出しませんヨ〜」

「怪しい物だって自覚してたんじゃねぇか……!」

 いつかの『SANかれあ』とか『SANクオリア』にしてもそうだが、どうしてこのゾンビは自分に変な物を勧めたがるのだろう。あれか、実験台というヤツか。人をなんだと思ってやがるんだ。

「ご安心を。次はちゃんとしたお茶をお出ししますので」

 口を動かしつつ、茶葉が入っているらしい筒をあれこれ選別するミラン。結構種類があるらしく、色んな筒が散見できるが、ぱっと見はどれもラベルが付いていないので、ここからだと中身は把握できなかった。それがまたいやに疑わしい。

「本当だろうな? なんて言いつつ、今度はマタニティーとか似たようなネタなんじゃないのか?」

「何を仰るクロサギさん。ワタシを甘く見過ぎデス」

「そ、そうか。すまん。そうだよな。いくらお前でも、そんなしょうもないギャグを言ったりなんて……」

「マタニ茶などではなく、ティーエスティーデス」

「ほとんど変わらねぇじゃねぇか!」

 今度は絶対に外れない貞操帯を装着されそうなネーミングだった。

 というか、どっちにしろダジャレじゃん。

「心配しなくても、別に害はありませんヨ。ただ、口にしたらちょっと性別が変わるだけで」

「害ありまくりじゃねぇか! つーかティーエスって、TSっていう意味だったのかよ!?」

「TSと言っても、お湯を体に掛けたらちゃんと元に戻りますヨ? もっとも、水を被ったらまた性別が変わってしまいますがネ」

「もはや害で済まされるレベルじゃねぇぞオイ!?」

 ほとんど呪いに近かった。

 そういえば、一昔前のマンガで似たような体質になった主人公がいたが、あれと同じ境遇になるとか冗談じゃなかった。そんな物を飲んだ日には、外出すらおちおち出来ないではないか。

「もっと他にないのかよ? この際お茶以外でもいいからさ」

「んもう。我が儘デスねぇ。そんな事ばかり言う悪い子は、いつかアカメさんに斬られちゃいますヨ?」

「誰だよアカメって」

 それ以前に、何故自分が叱られなければならないのだろう。ごく真っ当な要求をしただけなのに。

 それじゃあ、コーヒーにでもしましょうかネ──。

 そう言って、ミランは戸棚からコーヒー豆の入った瓶を取り出した。そしてそれを一旦脇に持ち、次はコーヒーメーカーへと手を伸ばす。

 確かサイフォン式とか言っただろうか──見た目は砂時計に似ていて、フラスコが上部と下部に分かれている。コーヒー好きの母から聞いた話では、上部のフラスコにコーヒー粉を入れ、そこからコーヒー液を抽出するのだとか何とか言っていたが、とりあえず結構な手間が掛かるという事だけはよく覚えていた。

 なんでも母は若い頃にバリスタをやっていたらしく、そのせいかサイフォン式の扱いにも慣れたものだったが、なにぶんカケルは大して興味がなかったので、手順などはあまり記憶に残っていない。

 そんなカケルを見て母は少し残念そうにしていたが、しかし無理に教え込もうとはしなかった。きっと趣味を押し付けるような真似は良しとしなかったのだろう。カケルとしても飲めればそれで良かったので、別段これといって不満もなかった。

 そんなこだわらない性格もあって、カケルはインスタントでも一向に構わない派なのだが、母から言わせれば、それは邪道なのだとか。だからか、母はコーヒーを作る時、いつもこのサイフォン式だった。

 今頃、母もサイフォン式でコーヒーを飲んでいたりするのだろうか。もう長い間帰っていないので、あの超お気楽母もさすがにそれどころかじゃないかもしれないけれど。

 なんて、久方ぶりに見たコーヒーメーカーに思い馳せていると、

「勇者さんは、コーヒーは飲める人で良かったんデスよね?」

 とコーヒー豆をミルで挽きながら、ミランが不意に訊ねてきた。

「え? お、おう。それ以前に、今更それを訊くのかよって感じだけどな」

「念の為デスよ念の為。ここまで準備しておいてコーヒーが飲めないなんてなったら水泡デスからね」

 そりゃそうだ。

「と言うわけで少々お時間が掛かってしまいますが、しばらくの間ガッツで待っていてくださイ」

「ぼくさー、ボクサーなんだよー」

「そのガッツじゃねぇヨ」




 そんなこんなで数分後。

「お、ようやく完成か」

 ティーカップから漂ってくるコーヒーの良質な香り。懐古心を擽るその匂いに、どこか安堵感を覚える。何だか家に帰ってきたような気分だ。

「もう少し待っていてくださいネ。まだ最後の仕上げが残ってますので」

 仕上げ? と訊く間もなく、ミランはどこからか取り出したミルクホイッパー(どこに隠し持っていたんだ?)を手に取って、コーヒーの上に掛け始めた。

「何やってんだお前?」

「コーヒーアートってやつデスよ。ラテ・アートとも言いますけどネ。最近ハマっているんデス」

 ほら、と差し出されたティーカップを試しに覗き見てみる。

 何かのマスコットだろうか。そこには兎に似た丸っこいキャラクターが、コーヒーの水面上で可愛く描かれていた。ミルクホイッパーを取り出したのは、これを描く為だったらしい。

「へえ。上手いもんだな」

「そうでしょウそうでしょウ。仕事をサボって極めた甲斐がありましタ」

「しろよ仕事」

 常々思っていた事だが、この医者、少し不真面目過ぎやしないか。治療などはキチンと施してくれるからいいのだが、それ以外もちゃんとしてもらいたいものだ。

 まあ、こういう器用な真似が出来る辺りは、さすが医者をやっているだけの事はあるのかもしれないけれど。

「では、次は勇者さんの分を作りますネ」

「いや、別にオレはそれでも──」

「次は、勇者さんの、分を、作り、ます、ネ?」

「アッハイ……」

 その有無を言わせない語勢に、素直に頷くカケル。一分節ずつに生気の無い顔を近付けて来るので、余計怖かった。ホラー映画なんて目じゃない。

 カケルがビビっている間にも、ミランは先ほどと同じようにミルクホイッパーでコーヒーの上面を鮮やかに描いていく。何がそんなに楽しいのかは知らないが、鼻歌なんぞも口ずさんでいる始末だ(何故か曲調が、見ると一週間後に死ぬ呪いのビデオみたいな感じだったが。だから怖ぇよ!)。

「はい。できましたヨ」

 ややあって、ミランはミルクホイッパーをテーブルの隅に置いて、ティーカップを差し出してきた。やれやれと胸中で呆れつつ、カケルはスプーンと受け皿と共に出されたティーカップを手に取る。

 何が彼女をそこまで駆り立てるのかは分からないが、これほどまでのこだわり様なのだ。出来次第によっては、賞賛の言葉を並べるのもやぶさかではない──



『こんや 12じ だれかが しぬ』



 スプーンでぐちゃぐちゃにかき混ぜてやった。

「ああ、なんて事するんデスか。せっかくの力作を……」

「何が力作だコラ。単なる犯行声明文じゃねぇか」

「いつの世も、芸術というのは理解されにくいものデスよね」

「そういう話じゃねぇよ」

 何でも芸術と言い張れば許されるとでも思っているのかコイツは。芸術活動も度を過ぎれば単なる迷惑行為でしかないというのに。

 まったく、と悪態を吐きつつも、コーヒーを口にしてみる。

 ふむ。ミルクしか入れていないせいか、少し苦味があるが、飲めないわけでもない。欲を言えば母が入れたコーヒーの方が美味かったが、比較的に飲み慣れた味と言えた。

「どうデス? お味の方は」

「うん、まあまあかな」

「なるほど。五十年に一度の出来栄えと」

「んなこと一言たりとも言ってねぇ」

 耳の疾患を疑うほど、なまら都合の良い解釈の仕方だった。

「しかし、あれだな。こういう少し苦い物を飲むと、何か甘い物がつまみたくなるな」

「ああ、それならちょうど良い物がありますヨ?」

 言って、ミランは着ている白衣のポケットから、ある物を取り出した。

 大きさは、ちょうど手のひらの内に収まる程度。長方形の紙に包装されていて、おそらくはフルーツか何かと思われる薄黄緑色のトゲトゲしい果実の絵が、パッケージの上面に描かれている。隅に小さくチューイングソフトキャンディと記載されており、個包装なのか、十二個入りとも書いてあった。

 改めて、商品名をまじまじと見てみる。



『ハイキュウ』



 あからさまにパチモン臭かった。

「お、おい。大丈夫なのかこれ? 某大手企業に訴えられたりしないか?」

「何を仰っているか分かりませんが、味は問題ありませんヨ? ワタシも食べた事ありますし」

 味とかそういう問題ではないと思うのだが。

 しかしまあ、てっきり訴訟問題になるのではと内心冷や汗ものだったが、ミランもよく知らずに出したみたいだし、杞憂だったかもしれない。そもそもここは異世界なのだし、仮に元世界のパクリだとしても、どうこうできるワケが、

 ──ちょっと待て。

「今お前、味って言わなかったか? じゃあ味以外なら、何か問題があったりするのか?」

「………………」

「………………」

「…………チッ」

「露骨に舌打ちされた! やっぱなんかあるんだな!?」

「いえいえ。そんな大した事ではありませんヨ。ただちょっと、臭いが強烈なだけで」

「臭い?」

「ええ。それ、ドリアン味のハイキュウなんデスけれど、臭いもそのまま再現されてしまいましてネ」

「再現したらダメだろ、そこは」

 ドリアンと言えば、フルーツの王様として名高いが、それと同等か、もしくはそれ以上にとてつもなく臭い事でも知られている有名な食べ物だ。幸いと言うべきか、カケルはまだ実物を見た事も嗅いだ事もないので、どれほど強烈な臭いなのかは未知の領域だが、今後も知りたいとも思わない。

 そんな物を臭いそのままで販売するとか、製作者は何を考えているのだろう。もはや勝負を捨てているとしか思えないのだが。

「そうなんデスよね〜。他に人気のあるオレンジ味とかに比べて、だいぶ浮いてしまっているのは否めませんネ。一部消費者には『孤独の王様(笑)』とか揶揄されているぐらいデスよ」

「何でそんなイジメ受けてるみたいな感じになってんだ」

「ちなみに、そのドリアン味のキャッチフレーズは『飛べ』デス」

 意識が、だろうか。

「でも、ドリアン味なんてまだマシな方デスよ。ステルスピーチ味というハイキュウがあるんデスけど、それなんて存在感が薄いあまり、誰にも購入されないという悲惨な状況デスし」

「むしろ狙ってやってるんじゃないのか、それは」

 臭いそのままのドリアン味といい、探すのが困難なステルスピーチ味といい、本当に商売をする気があるのだろうか。正気を疑わざるをえない。

「お前もお前で妙なもん食わそうとしてんじゃねぇよ。危うく死地に赴くところだったっつーの」

「そう言う割には」

 と、コーヒーを口にするカケルを見やりながら、ミランは何気無い調子でこう続けた。



「そのコーヒーを、美味しそうに飲んでいるじゃありませんカ」



「ばぼかっ!?」

 コーヒーを盛大に吹いた。

「げふげふげふ! さばげぶっ! おおおお前、今なんて言った!? まさか変な物を入れたんじゃなかろうな!?」

「変な物だなんてとんでもなイ。ただ人肉以外はコーヒーしか飲めない偏食の喰種グールの為に、滋養強壮にとなんやかんや調合した薬を入れただけデスよ」

「なんやかんやって何だよ!?」

「なんやかんやはなんやかんやデス」

「説明放棄すんな!」

 アバウトにもほどがある言い方だった。

 どうしよう。今からでも吐き出した方が良いのだろうか。あとあと後悔しない為にも。

「まあでも、少しだけ安心しましタ」

「あァ!? 妙なもん混入させておいて何が安心だゴラァ! こちとら気が気でなくて仕方ねぇつーのに! この陰険院いんけんいんさんめっ!」

「いえ、そういう意味でなく」

 がなり立てるカケルとは対象的に、ミランは静かな面持ちで言葉を紡ぐ。



「もっと落ち込んでいるかと思っていたものデスから」



「………………」

 カケルは。

 何も言葉を返す事なく、口元に残ったコーヒーの滴を手で拭い、ソファーに深く座りなおした。

 ミランの指摘は、あながち間違ってはいない。

 否──正しくその通りだ。

 こんなものは空元気に過ぎない。自分の中に渦巻く陰鬱とした感情をどうにか誤魔化しているだけだ。

 この城から出て行く──そう決めたはずなのに。



 この期に及んでまだ、カケルは迷っていたのだった。



 あれだけ、ルトに諭されたというのに。

 あれだけ、自分の無力さを思い知ったというのに。

 ルトのそばにいる資格なんて、自分には無いというのに。

 仮に、自分がこのまま魔王城に残ったところで、お荷物にしかならないだろう。

 いや、お荷物ですらない──むしろ疫病神と言うべきか。



 カケルさえいなければ、ルトにあんな悲しい顔をさせずに済んだのだろうから……。



「すみませン。落ち込んでいないわけないデスよね」

 と、沈痛な表情で黙するカケルに耐えかねるものがあったのか、ミランにしては珍しく申し訳なさそうに眉を八の字にして低頭した。

「……なんでお前が謝るんだよ。別にお前は何も悪くないじゃん」

「いえ、少しでも気を紛らわせようかと一計を案じてみたのデスが、どうやら空回りだったようデスね」

「お前もそんな気の使い方が出来たんだな」

 苦笑を浮かべるカケル。いつもいけしゃあしゃあとしているミランしか見た事がなかったので、何だか新鮮な気分だった。

「何にしても、お前が謝る必要なんてねぇよ。きっと誰にも──」

 勿論、カケルにも。

「──どうする事も、できなかったんだろうしさ」

「それでもお二人の仲を知っている数少ない一人して、不甲斐なくて仕方ありませン。何も力になれないなんて」

「……何だよ。お前の方こそ落ち込んでたんじゃねぇか」

 悪ふざけでカケルの気を紛らわせようとしていたのだろうが、それはミラン自身も含まれていたようだ。

 それならそうと言えばいいのに、天邪鬼な奴め。

 もっとも、本心を吐露されたところで、カケルにはどうしてやる事も出来なかっただろうけども。

「ルト様が先代様に呼ばれて戻られた時に、どうにも様子がおかしいと思ってはいたんデス。なのにワタシには何も話してくれなくて……」

 ──歯痒いデスね。

 と、ミランは一度掴み上げたティーカップを受け皿に戻し、自嘲的な笑みを浮かべてコーヒーの水面をただ黙って眺めた。

 フレイヤとカケルを除けば、一番ルトに近い存在であるミランにも何も話さなかった事から察するに、きっと心配をかけまいとする配慮だったのだろう。結果的には、より心配させてしまったようだが。

「妊娠を知った時は、あれだけ幸せそうな顔をされていたのに。どうにかしてやれないものデスかね」

「オレさえ来なければ」

 不意に、右手首に痛みが走った。

 無意識に握りしめていた内に、爪が深く食い込んでいたようだ。

 そんな痛みに厭わず、カケルは気落ちした口調で心の内を晒す。

「魔王に会いさえしなければ、こんな風にはならなかったのかな……」



「それは違いますヨ」



 ミランは毅然と言い放った。

 全ての間違いを正すように。

「確かに、悲しい結末にはならずに済んだかもしれませン。デスが出会わなければ──勇者さん。貴方という存在に出会わなかったら、きっとルト様はずっと灰色のままでしタ。

 生まれながらにして魔王としての器を持ち、魔王として生きる事を余儀なくされた少女の虚ろな心を、貴方が救ってみせたんデス。

 例え意図的ではなかったとしても、それだけは否定しないでくださイ。今のルト様を無かった事にしないであげないでくださイ。

 そんなの──そんなの、あまりにも寂しいじゃありませんカ」

 ほんの僅かな──しかし温かな雫が凍てついた心にそっと染み渡る。

 ミランの言葉は、まるで陽だまりのようだった。

 あちこちから芽吹いた枝から静かなに花が咲きほこるように、とても穏やかなものだった。

 全てを溶かしきれなくとも、それが聞けただけでも十分だ。それだけで、胸の中の暗雲が僅かでも晴れた気がした。

 だが、それでも。



「オレ、最後にどんな顔すればいいんだろうな」



 脳裏をよぎるのは、昨日の夜に見たルトの寂寥感に満ちた弱々しい姿。

 どれだけ温かな言葉を掛けられようとも、カケルの罪が消えるわけではない。

 自分の子を宿した少女を残して、己だけ安全圏に逃れようとしている大罪だけは、絶対に。

 故に、だからこそ──どんな顔をしてルトに会えばいいのか、カケルには分からなかった。



「女性の一番の化粧は、何よりも笑顔なんデスよ」



 伏せていた目線を上げる。

 そこには、笑みがあった。

 あのいつも朴訥した表情ばかりのミランが──浮かべたとしても、嘲笑や失笑ばかりだったあのミランが、カケルの前で初めて笑みらしい笑みを浮かべていた。

「せめて、お互いに笑顔で迎えられる最後を。本心から笑えなくとも、切なくて苦しかろうとも、どうか微笑んであげてくたさイ。その方が、きっとルト様も喜ぶでしょうから。

 それだけが、ワタシの願いデス」



 ◇◆◇◆◇



「ついにここまで来たんだね……」

 闇が世界を包み、虫や獣の喧騒が静寂を払う。

 僅かにもたらされた月光の中で、互いに身を寄せ合いつつ木の幹から顔を覗かせている三人の姿が、仄かに浮かび上がっていた。

 一人はいかにも豪奢な赤いマントを羽織った、金髪碧眼の少年だった。腰には鞘に収められた剣が携えてあり、彼が剣士である事を如実に物語っていた。

 感慨深そうに漏らした金髪碧眼の少年に、

「アレス様。」

 と彼のそばに寄り添っていた少女が声を掛ける。

 フリルの付いたカチューシャに、瑠璃色のローブを纏ったその少女は、懐からハンカチを取り出して、唐突にアレスの頬に当てた。

「アレス様、お顔に汚れが。」

「ああ、ありがとうリタ。さっき、幹に顔を寄せたせいかな?」

 顔を優しく拭ってくれた少女──リタに、アレスは輝かんばかりのキラキラしい笑みを浮かべて礼を述べる。

「あーっ! ずるいっスずるいっス! ウチもアレス様の顔を拭きたかったっス〜!」

 最後の一人は、長い赤毛をポニーテールにした長身の少女だった。

 豊満な胸をさらしで巻き、膝下で切れたレザーパンツという、いかにも扇情的な格好したその少女は、ふりふりとポニーテールを振り回して憤慨していた。あと、おっぱいもブルンブルン揺れていた。

「こういうのは早いもの勝ちなんですよカンナさん。あと、その乳を揺らすな目障りな。」

「まあまあ、二人共落ち着いて。ここ仮にも敵地だから静かにね?」

「はっ。そうでしたアレス様。申し訳ありません。」

「ご、ごめんなさいっス……」

「分かってくれたらそれでいいよ」

 苦笑しつつ、二人の頭を撫でるアレス。二人共、超幸せそうな顔をしていた。

 リタもカンナもこんなに可愛くて良い子なのに、どうしてこう仲違いする事が多いのだろう。あれか、これもモテる男の運命さだめなのか。運命なら仕方ないな。

「それにしてもアレス様の言う通り、ついにここまで来れたんですね。」

 アレスの撫で撫でが終わり、若干名残り惜しそうに人差し指の先を咥えつつ(可愛い)、リタは数キロ先に離れた魔王城を見やった。

 辺りを包む暗闇の中で、魔王城だけはその存在を知らしめるかの如く、天まで届きそうな城壁を僅かばかりの明かりを灯して鎮座していた。



 あそこに魔王がいる。

 世界を掌握し、混沌へと陥らせようとしている元凶が、あの中に。



 そう思うだけで、体が震えた。

 それは果たして武者震いか。はたまた純粋なる恐怖からなのか──。

 どちらにせよ、緊張感を持つのは良い事だ。

 少しの油断が、命取りに繋がりかねないのだから。

「どうするんスか? 今からでも攻めに行くっス?」

「いや、まだ辺りは暗いままだし、中もどんな構造になっているか分からない以上、闇雲に突っ込むのは却って危険だ。早朝、外からの状況を観察しつつ、隙あらば攻めよう。

 それにホーフの森から出たばかりだしね。明日に備え、今はゆっくり体を休めよう」

「そうですね。私もその方が良いと思います。」

 アレスの提案に、リタが賛同の意を上げる。それに倣うように、カンナも静かに頷いた。

「ここで魔王を倒せば、世界中で暴れ回っている魔物を止める事が出来る。グリーンリバーライトも大々的に掘り起こせるようになるだろうし、きっと世界も平和になる」

 当初は宝剣など美術品として出回っていたグリーンリバーライトだが、最近の研究で豊富なマナを含んでいる事が分かったのだ。

 このグリーンリバーライトの解析が進めば、魔法アイテムとしての利用価値も上がるだろうし、貧困や格差で悩む国を救う事も出来る。世界中で諍いが頻発している今、そして自分達の大陸ではなかなか発見できないグリーンリバーライトは、とても貴重な──そして希望の源とも言えた。

 これまで魔物達が邪魔をしてなかなか発掘できなかったが、魔王さえいなくなれば、ここでの作業もスムーズに進むはずだ。きっと魔法文明も今よりもっと発達する事だろう。

「そうだ。魔王を倒せさえすれば、全てが解決する。みんなが幸せになれるんだ」

 自分を鼓舞させるように握り拳を作り、頭上高く掲げてアレスは言う。

「ここから僕の戦争ケンカだ。決して負けはしない……!」

「いいえ、アレス様。」

 と。

 掲げた腕に重なり合わせるように、リタとカンナがそれぞれ手を突きだしてこう力強く続けた。



「私達の。」「──戦争ケンカっス!」



「そう、だね。そうだったね」

 自分とした事が失念していた。こんなに頼りになる仲間を疎外するだなんて、我ながらどうかしている。

 突き出されたままの二人の両手を優しく掴み取って、アレスは勝ち気な笑みを称えて声高にこう発した。

「僕達で必ず魔王を倒そう。そして世界の平和を取り戻すんだ──!!」




 吹き荒れていた風が止み、虫達の狂騒が突如として終わりを告げる。

 嵐を知らせるような──不気味な静けさだった。


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