第26話 月下の懊悩



 蒼月そうげつ

 それは大気中のマナ──つまり魔力の源となる元素が最も濃くなる日の事であり、魔法使い達の間では大掛かりな儀式を行うのに適していると言われている。また、国によっては大規模な祭りを催される場合もあり、魔法使い達以外の人にとっても神聖な日として幅広く浸透している──。





「皆さん、準備の方はよろしいでしょうか?」

 少女の透き通るような品のある美声が、大理石で作られた壁に反響し、静かな波紋を生む。

 そこは地下深くにある神殿だった。周囲は彫刻の入った柱や青白く燃える灯篭などで燦然としており、いかにも神妙な雰囲気を醸し出している。神殿内はとても広く、民家二軒分は悠々と入りそうなほどの空間があった。

 その中央に、白い修道服を着飾った少女と、黒いローブを纏った十数名の魔法使い達が規則的な位置で佇んでいた。少女と魔法使い達の足元には巨大な幾何学模様が描かれており、その隅には、色彩豊かな宝石や魔物のモノだと思われる牙や角が置かれている。おそらくは、ああする事で呪術的な意味合いを持つのだろう。他にも短剣や杖を携えている者も見受けられた。

「こちらはいつでもよろしいですぞ、姫様」

 と。

 少女の問い掛けに対し、魔法使いの一人──リーダー格を担う老爺が、柔和な表情を浮かべて答えた。

 老爺の言葉に、少女は満足気に頷いてみせた後、後方にそびえ立つ階段へと踵を返して、楚々と上り始める。

 そうして最後の段を上り終えた後、壁際に置かれた台座へと歩を進めた。

 その台座には円鏡が立て掛けられていた。台の四角には窪みがあり、それぞれの穴に水晶が埋め込まれている。少女の頭上だけ天井がなく、そこから漏れた月光が、円鏡と水晶を蒼く輝かさせていた。

 そんな月の光に導かれるように、少女は円鏡の前に立ち、祈りを捧げるていで手を組み始める。



「それでは始めましょうか。カケルさんと連絡を行う為の儀式を」



 少女──アリシアは瞑目しながら、そう厳かに告げた。



 ◇◆◇◆◇



 月が蒼い。普段は地球から見える月のように黄色に近かしい光を放っているが、ここまで蒼いのはさすがに見た事は無い。

 何でも大気中のマナが溢れてこのような現象が起きるらしいが、詳しい事は未だ解明されていないのだとか。この世界に来て何度目かになる光景だが、初めてこの月を見た時は、その神秘さに心を奪われたものだ。今となっては、優美に月を眺めていられるほど、精神的な余裕などありはしないが。

 と、カケルは重苦しい溜息を吐きながら、月から地面へと視線を移して項垂れた。

 カケルは今、魔王城の外にいた。正確には人気ひとけ(と言うと、語弊があるだろうか? ここには魔族しかいないのだし)の無い──城外のそばに鬱蒼と生い茂っている森の前にいるのだが、それには理由があったりする。



 今日は『蒼月』の日。つまり、婚約者である姫様と連絡を取り合う、数少ない機会なのだ。



 と言っても、ここ最近は何故か全く連絡が取れない日ばかり続いているので、今回も姫様と話せるとは限らないのだが。まあ、こちらとしてもルトに負わされた致命傷のせいで連絡なんて取れる状態ではなかったし、結果的には不幸中の幸いだったと言えるのかもしれない。

 そういったワケで、かれこれ数十分近くこうして連絡が来るのを待っているのだが、その兆しは一向に現れる気配は無い。

 一応、姫様との取り決めで月が満ちた夜に連絡をするという話ではあったが、具体的な時間帯までは決めていなかったので、何時いつから何時まで待てばいいのか分からないのがネックだった。せっかく魔族達の目を忍んでこっそり城から出たというのに、儀式が失敗に終わったらとんだ水泡である。

「かなり難しい儀式らしいし、時間も掛かるみたいだから、仕方ないっちゃ仕方ないんだろうけども」

 姫様もその辺に関しては申し訳なさそうに話していたし、カケルにしても対処できるような問題ではないので、素直に諦めるしか他なかった。

 もっとも、向こうにしてみれば貴重なアイテムと時間を浪費してまで儀式を行っているみたいなので、本人達を前に不満を漏らす気には更々なれないが。

 閑話休題。

 先述の事情もあり、未だにこうして姫様の連絡を今か今かと待ち惚けているワケなのだが、いつまでこうしていればいいのだろう。連絡が届いた際は制服の胸ポケットに入れた手鏡(無論ただの手鏡ではなく、魔法の力が込めれたアイテムだ)が振動して知らせてくれるのだが、その兆候は全く無い。比較的この辺りは温暖な気候ではあるが、夜になると少々肌寒くなってくるので、なるべくなら早めにしてもらいたいものだ。

「心の整理を付けるには、丁度良い時間──かもしれないけどな」

 そう溜息混じりに呟いて、カケルは静かに瞼を閉じる。

 数刻前の、フレイヤとの対談を反芻するように──





「カケル君は、ルーちゃんの事が本当に好きなの?」

 フレイヤの静かな怒りに満ちたその一言に、カケルは心臓を掴まれたように凍り付いた。

 指先が痺れるように震える。喉は渇き、まともに声すら発せられない。決して暑いわけでもないのに──むしろ地下にいて少し肌寒いぐらいのはずなのに、背中に異様なまでの発汗を感じるのは、それだけ自分が動揺しているという証左なのだろうか。

 いや、この際はっきり認めよう。



 自分は今──間違いなく動揺している。



 正鵠を射た、フレイヤの言葉に。

 核心を突いた、フレイヤの言葉に。



「答えない──いえ、答えられないって言った方が妥当なのかしら? よく『痛い所を突かれた』って表現があるけれど、まさにそのものと言った反応ね。実に滑稽だわ」

 そううそぶくフレイヤの表情は、『滑稽』という言葉とは裏腹に、害虫でも見るかのような嫌悪感に満ちた顔付きだった。きっと腹の中では、こちらの想像では窺えないほどのどす黒い感情で渦巻いている事だろう。それでも罵声を飛ばすような真似は決してせず、不気味なほど滔々とした口調でフレイヤは続ける。

「少しぐらい反駁するものかと思っていたけれど、それすら無いなんてね。薄々勘付いてはいたから期待なんてしていなかったけれど、正直ここまでとは予想していなかったわ。本当、見下げたものね」

「………………」

 カケルは何も言わない。

 これだけ袖にされておきながら、何も口に出来ない。

 それほどまでに、カケルの思考は沼に嵌ったように停滞していた。

 ──本当にルトの事が好きなのか。その問い掛けが、カケルの心をナイフで抉るかのように掻き乱す。

 好きかどうかで問われれば、多分、きっと好きなのだろうと思う。でなければ、ルトの事でこんなにも悩んだりしないはずだ。

 だが。



 だが──果たしてその感情は、恋だと虚偽無く言えるものなのだろうか。

 胸を張って、ルトを愛していると言えるのだろうか──。



 よく恋と愛は似て非なるものだという論説があるが、どちらにせよ──どちらにしても、そこに好意という肯定的な感情があるのは純然たる事実だ。

 母──この場合、カケルの生みの親という意味になるが──その母曰く、恋はその人の見た目と心を好きになる事で、愛はその人の見た目や心がどれだけ変わろうと好きで居続ける言葉を指すらしい。

 なるほどな、と思った。

 伊達に自分より人生経験を積んでいないな、とも感嘆した。

 まあ、そんな母も、今では夫そっちのけで某アイドルグループにご熱心な有様なわけだが。

 それはさておき。

 それでは絶望カケルがルトに抱くこの『好き』という感情は、果たしてどちらに当てはまるのだろうか。



 恋なのだろうか。

 愛なのだろうか。



 それとも。

 それとも──?

「どれだけ自問自答を繰り返しても、そこにルーちゃんを一生涯守り続けるという確固たる信念が生まれない限りは全くの無意味よ。たとえ、ルーちゃんを本当に好きだと自覚できたとしてもね」

 黙考するカケルに、フレイヤが冷酷な眼差しを向けて吐き捨てるように言う。

「いや、これでもちゃんと責任は取ろうという気持ちはあるんですが……」

「責任、か。責任……ねえ」

 と、どこか胡乱に呟いた後、不意に玉座のふちで爪を鳴らし始めるフレイヤ。

「さっきからずっと気にはなっていたんだけれど」

 カツンカツンカツン────

 爪が鳴り続ける。二人しかいない静謐とした空間に、刻々と無常に時間を刻むように。

 酷々と──無情に罪人を追い詰めるように。

「君の言う責任ってさ」

 カツンカツンカツンカツン──────



「一体、誰に向けて言っている言葉なの?」



 カツン──

 と、最後に爪を鳴らし終えたと同時に、フレイヤは冷めた声音でカケルに訊ねた。

「え。だ、誰って、そりゃあフレイヤさんに……」

「あたしに言ってどうするのよ。あたしよりも誰よりも、ルーちゃんに向けるべき言葉なんじゃないの?」

「──────」

 その言葉に、カケルの思考は一瞬にして真っ白になった。

 何も言い返せなかった。

 返す言葉も無かった。

 フレイヤの言葉に、今更ながら気が付いてしまったのだ。

 そうだ。魔王が妊娠したっていうのに、オレは。オレは──



 ただの一度も、アイツに「一緒になろう」だなんて言えてないじゃないか──!!



 ほとんど無意識に拳を握りしめる。爪が皮に喰い込んで痛い。ひょっとすると、血も滲んでいるかもしれない。

 だが、それがどうした。

 自分の馬鹿さ加減に比べれば、こんなのはほんの些事だ。いっそこの欠陥だらけの頭をかち割って、もっと痛覚を与えてやりたいぐらいだ。それほどまでに、カケルは自身に対して憤っていた。

 自分は一体何をやっているんだ。今まで再三ルトと一緒になるとフレイヤに言っておきながら、その実、本人には何も伝えられていないじゃないか。

 これじゃあ本当にクズだ。どうしようもないクズだ。

 アイツは──ルトは、こんな自分を見てどう思っていたのだろう。

 こんな、どうしようもない自分を見て、どんな心境だったのだろう──?



「ようやく理解した? 自分の愚かさが。愚鈍さが。愚劣さが」



 ハッと嘲笑を漏らすフレイヤに、カケルは歯を噛み締めて沈黙する。

「ああ、心配しなくても、ルーちゃんなら何とも思っていないわよ。というより、カケル君の子供を身籠った事で舞い上がっているのか、そこまで考えが及んでいないみたいだけども」

 そういう所は、昔のあたしにそっくりねー。我が子ながら、先行きが心配だわー。

 そう溜め息混じりに呟いて、「でもまあ」と言の葉を紡ぐフレイヤ。

「それもカケル君と別れさえすれば解消ね。とてもじゃないけど、君なんかにルーちゃんを任せられないし」

「ま、待ってください! 確かに、魔王に何も伝えられていなかったのは事実です。それでも、魔王を孕ませてしまった責任が消えるわけじゃない。このまま何もせずに逃げ帰る事なんて、オレには──」

「何度も言わせないで。カケル君には無理よ。君みたいな腑抜けにはね」

 カケルの言葉を遮って、フレイヤが眼光を凄ませて言う。

「大体君の言う責任なんて──どうせ世間体とか、周りの目を気にしたものでしかないんでしょう。でなきゃ、あたしにここまで言われてろくに反論できないだなんておかしいわ」

 違う? と訊ねるフレイヤに、カケルは肯定も否定もせずに口を真一文字に閉ざした。

 もっと言うなら、首を振る事すら出来なかった。

 何故ならそれは、心のどこかで思っていた事だから。

 断じて違う──と、その一言すら述べらないくらいに。

「誤解しないでね? 前にも言ったけど、ルーちゃんが妊娠した事自体は喜ばしく思っているのよ? 世継ぎが欲しいと思っていたし、そういう意味では感謝もしている。責任を取ろうという行為も、世間一般の目から見たら当然の事だろうし、決して悪いわけじゃないと思う。でもね」



 ──ルーちゃんは、魔王なのよ。



 と。

 それまでの剣呑な雰囲気から一変して、どこか語勢を欠いた、ともすればそこはかとなく憐憫を帯びた瞳を向けてフレイヤは言った。

 急な温度差に面食らうカケルをよそに、フレイヤは一つ一つの言葉に想いを込めるように先を紡ぐ。

「少し前にも言ったけれど、ルーちゃんはこの国の王なの。魔族の王でもあるの。それは同時に、全ての人間にとっての滅ぼすべき悪にもなってしまうのよ。

 カケル君──つまりね、カケル君。ルーちゃんと人生を共にするという事は、全ての人間と敵対するという事なの。家族も友人も、人間である以上は何もかも敵に回すという事になってしまうの。

 ねえ、カケル君。君にそれだけの覚悟がある? それでも構わないと決意できるだけの愛が──本当にルーちゃんに対してあるのかしら?」

 ────そうだ。

 言われるまで失念していたが──ルトの妊娠ですっかり頭から抜け落ちていた事案ではあるが、ルトのそばに居続けるという事は、とどのつまり同族と争う関係になってしまうという事にもなるのだ。

 それは一度は考え、そして結局は無理だと判断したはずだった。

 だが、その回答はルトの妊娠が発覚する前の事だ。ルトが妊娠した今となっては、そんな簡単に跳ね除けられるわけがない。

 だが。

 自分にその覚悟があるのか?

 同じ人間と争い、お腹の子も含めてルトを一生を愛し続けるという覚悟が……。



「あたしはルーちゃんが好きよ」



 と。

 何の脈絡も無く──それこそ唐突なまでに呟きを漏らしたフレイヤに、カケルは訝しげに眉をひそめつつも、何か大事な話をしているのだろう──すぐに顔を引き締めて耳を傾ける。

「あたしはルーちゃんが大好き。素直なところが好き。可憐なところが好き。優しいところが好き。聡明なところが好き。気高いところか好き。一途なところが好き。

 この城で。この国で。この地で。この空で。この星で。この宇宙で。

 過去でも現在でも未来でも──ルーちゃんの事が好き。この地上で誰よりも、あたしはルーちゃんの事が大好きよ。

 カケル君はどうなの? あたしと同じくらい──もしくはそれ以上に、ルーちゃんの事が好きだって心の底から言えるのかしら?」

「オレは…………」

 言えるだろうか。

 全てを投げ売ってでもルトと共にあり続けるという覚悟が。意志が。愛情が。

「結局」

 と。

 それまで傲岸不遜に座していたフレイヤがおもむろに立ち上がり、俯くカケルの元へと歩み寄る。

「結局の所、君とルーちゃんとじゃあ背負う重みも生きる世界も──何もかも違ったって事よ」

 全てが間違いだった。

 そもそも、ルトを愛する資格すらなかった。



 なんて戯言。

 なんて虚事そらごと



 徹頭徹尾──滑稽だ。傑作だ。



「明後日の朝まで待ってあげる。それまでにきっちりとルーちゃんと話を付ける事ね」

 ────今のままだと、互いに不幸を招くだけよ。

 そう言い捨てて、一度も振り返るような素振りも無く、フレイヤは静かに退出していった。

 一人、打ち拉がれるカケルだけを残して。





 そうして、時間は進み──

 話は、今へと戻る。

「『生きる世界が違う』……か」

 蒼く煌々と浮かぶ満月を仰ぎ見ながら、カケルは意気消沈とした面持ちで呟く。

 実際、その通りなのだろう。勇者と魔王。人間と魔族──それだけでも大きな隔たりがあるというのに、今までお気楽に生きていたカケルと一国を背負うルトとでは、決定的な違いがあり過ぎる。

 これだけの溝を埋めるすべなんて、今のカケルには到底思い付かなかった。

「オレは、一体どうしたらいいんだろう……」

 そして、どうしたいのだろう。

 このままなし崩しに──フレイヤに指図されるがままに、ルトと決別するしかないのか。

 もっと他に、良い方法は──



 ブブブっ。



 と。

 その時、胸ポケットに入れておいた手鏡がスマートフォンのバイブレーションのように震え出した。どうやら、姫様から通信が来たようだ。

 ひとまず思索を中断したカケルは、胸ポケットから手鏡を取り出し、月に掲げた。

 するとどうだろう。それまで振動していた手鏡がピタリと静止し、月の光を受けて眩く輝き始めた。

 燐光は次第に一本の筋へと収束し、その末端で徐々に人の形を為していく。こうして見ると、まるでSF映画に出てくる立体映像みたいだ。

 やがて、光は完全に人の形を模し、そして──



「お久しぶりですね。カケルさん」



 と、光の正体──姫様ことアリシアが、華が咲いたような嫋やかな笑みを見せて、そう声を発した。

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