第19話 妊娠発覚(修羅場フラグが立ちました)



 夢だ。

 これは夢だ。



 何も無い真っ白な空間で一人佇みながら、カケルはそう自分に言い聞かせていた。

 俗に言う明晰夢というやつだろう──割りとよく経験する事なので特に動揺はしなかったが、それとは別に言葉では上手く表現できない焦燥感めいたモヤモヤしたものが肌にまとわりついていた。

 これ以上ここにいてはいけないような。

 けれど、これから起こる事から逃れられないかのような。

 そんな予兆めいた感覚が、鎖のようにカケルの体を縛り付けて身動きが取れない状態でいた。いわゆる金縛りというやつなのかもしれない。経験するのは初めてだが。

 とそんな時、カケルの前方で淡く金色に輝く靄が、どこからともなく突如して姿を現した。

 その靄は次第にもくもくと肥大していき、やがて人の形を成し始める。

 そしてそれは、いつしか見覚えのある人物へと変化していき──



『魔王……?』



 それはどう見ても見た事のある少女──もといルトの姿だった。

 ただいつもと少し違ったのは、日中よく着ている軍服などではなく、色鮮やかな花が刺繍された白いワンピースに、胸元にはシンプルな形のネックレス。下は清楚なパンプス。そして顔には、いつもならやらない──する必要もないくらい綺麗な顔にうっすらと化粧が施され、より美しさが際立っていた。

 そしてこの時初めて、カケルは動揺を露わにした。

 ルトの普段見慣れない美々しい姿に驚いたわけではない──むしろ今まで何度かこの光景を目にした事がある既視感に襲われて驚いたのだ。



 初めて見る姿のはずなのに。

 一度も体験した事がないはずなのに。

 夢でしかないはずなのに。

 これからルトに言われるセリフが、デジャブのように分かってしまうのだ。



 さながら、過去の忌まわしい記憶が走馬灯となって脳内を駆けめぐるかのように──



 そして。

 今まで佇むだけだったルトが、不意にゆっくりと口を開き始める。

 それは、さながら終わりの始まりを告げるかのように。

 今にも泣きそうな──見ているだけで胸を締め付けられる痛切な笑みで、こう呟くのだ。



『バイバイ。カケル──……』



 ◇◆◇◆◇



「最近、魔王のようすがちょっとおかしいんだが……」

 とある昼下がり。もはや日課となったミランの検診を受けつつ、カケルはいつになく生真面目な口調でそう言葉を漏らした。

「ルト様が、デスか?」

 傷の治り具合を指で確認しつつ、上着をたくしあげたままのカケルに眉をひそめてミランが応じる。

「なるほど。略して『妹ちょ。』というわけデスね?」

「いや略した意味が分からないし、そもそも『妹』という字がどこから涌いてきたんだ……?」

 まるでわけが分からなかった。

「ここしばらく私用でルト様と会っていないので何とも言えませんが、おかしいって具体的にどう変なので? マジックペンを注射器と勘違いしたりとか、急にノートから文字が飛び出して、動物達と一緒に山で戯れる幻覚を見たりとかデス?」

「そういう危ない病気とかじゃなくて、雰囲気と言うか、そういうのがおかしいと言うか……」

「雰囲気デスか」

 相槌を打ちつつ、ミランは手を休める事なく治療台からガーゼを取りだし、患部へと貼り付ける。

「うん。例えば、オレと話している最中にふとポーっと惚けたり、花瓶に活けられた華を愛おしそうに眺めたりとか。いつもに比べてぼんやりとする回数が増えたのは確かだな。あと風邪でも引いてんのかな? 最近ちょっと顔が熱っぽいんだよなー」

「………………」

 カケルの説明に、何かしら考え込むかのように口許へと手を伸ばして押し黙るミラン。どこか心当たりでもあるか、眉間にシワすら寄せていて深く黙考していた。

 そんなミランの様子に、カケルもつられるように「お、おい医者?」と不安げに訊ねる。

「どうしたんだよ。急に黙り込んだりして」

「ああいえ。少し気がかりな事がありしまして。まあ、ただの気のせいだとは思いますが……」

 言いつつ、ミランはしばしの間止めていた手を再び動かし、傷口の処置を続ける。

「それにしてもしかし、勇者さんがルト様の身を心配するだなんて、ここに来た当初に比べてずいぶんと様変わりしたもんデスね。少し前まであんなにルト様の事を怖がっていたのに」

「……るっせーな。そりゃ二ヶ月近くもここにいりゃ心変わりぐらいするだろうよ」

 それにいくら魔王で自分に瀕死の重傷を負わせた仇敵とは言え、カケルに対し好きだと明言してくれているのだ。そんな相手に──それもあんな可憐な美少女に愛情を向けられるともなれば、憎からず思うようになるのは別段不思議な事でもあるまい。

 その上、長い期間共に生活(と言っても普段カケルは病室に居たきりだし、ルトもルトで仕事なのでそうしょっちゅう会っているわけでもないのだが)していれば、親愛の情だって涌きもするってものだ。

 カケルの場合、それプラス情欲も催してしまったという、あまり笑えないオチ付きなのではあるが。

「いえいえ、別に悪いと言ってるわけではないんデスよ。むしろ良い兆候だとも思ってますし。最近じゃあ原作を重視せずに、安易な作り込みのせいで底の浅いキャラがアニメで蔓延している今日この頃デスし。これが実写版ともなると、もう……」

「さっきから何の話してんだよ」

 まあ、概ね同意はするけども。

「それだけでなく、ルト様の表情もだいぶ柔らかくなりましたヨ? 勇者さんと出会う以前なんて、ほとんど鉄仮面状態でしたからネー。ほんと見違えましたヨ」

「そ、そうか」

 それはルト本人からも聞き及んだ事ではあるが、ルトを昔から知るミランがこう言っているのだから間違いないのだろう。逆に今のルトしか知らないカケルにしては、にわかに信じ難い話だ。

「きっとそれは、勇者さんのおかげなんでしょうネ。勇者さがルト様の殻を破ってくれたおかげで、今の感謝豊かなルト様がいられる──これはとても凄い事だと、ワタシはそう思うんデスよ」

「いやオレ、そんな褒められるような事何もしてねぇと思うんだけど……」

「故意で無かったにせよ何にせよ、アナタは一人の少女を救ったんデス。それは素直に誇っていい事だと思いますヨ」

 ミランの言葉に、照れを誤魔化すように頬を掻くカケル。

 いつも軽佻浮薄とした言動ばかりするミランに、こうも率直に称賛の言葉を掛けられると、どうも背中辺りがむず痒くなって仕方がない。ただ褒められている事自体は嬉しいので、悪い気は全然しなかった。

「ただ、殻どころか処女膜まで破るのは、さすがのワタシもどうかと思いますけどネ」

「おいィィィィ! そこでオチを付けるなよ! なんかオレ、善人の皮を被った悪魔みたいじゃん!」

 先ほどまでの感動を返せ。

「自分が善人であるといつから錯覚していたんデスか? 本当に善人なら、ルト様に秘部を舐めさせろなんてイヤらしい事を要求したりしませんヨ」

「うぐ……っ」

 ミランの鋭い指摘に、思わず歯噛みしてたじろぐカケル。あれは色々と紆余曲折あっての事だったのだが、どちらにしろ事実には違いないので黙るしかない。

「この際なんでついでに訊かせてもらいますが、他にも淫らな事してないデスよね? 単刀直入に言うとシックス○インとか」

「してねぇよそんな事! でもこの間必死に頼み込んでおっぱい吸わせてもらいましたけど何か!?」

「何かじゃねぇデスよやっぱヤってんじゃないデスかしかも何で逆ギレなんデスかなめとんのデスかアンタ」

 ほとんど息継ぎ無しでツッコむミラン。よほど頭に来たらしい。

 しかし、こちらもやむを得ぬ事情があったのだ。ルトに純血を捧げてからここ一ヶ月近く、全くと言っていいほどご無沙汰なのだ。まだまだ性欲が余りあるほど真っ盛りなお年頃。さすがにそろそろ己の内に秘めるリビドーを解き放たねば体に障る。

 とは言え、オカズも無しに事を及ぶのは些か物足りない。だからと言ってここにオカズとなる本や映像機器などあるはずもなく、その為無理を承知でルトに頼んでみたのだ。

 正直そこまで期待してなかったし、ルトも最初こそ渋っていたが、必死に懇願するカケルの熱意に心を動かされたのか、はたまた根負けしたのか──まあどう考えても後者だとは思うが、最後は自分から上着を脱いでおっぱいを吸わせてくれたのだ。

 目を閉じれば、今でもあの時の甘美な光景が瞼の裏に焼き付いて頭から離れない。

 弾力のある双丘に、つんと勃った桜色の美しい蕾。それを口に含んだ時の柔らかさは至高にして究極。まるで色彩豊かな庭園にいるかのようなフローラルな香りが、いまだ鼻腔をくすぐって離さないぐらいだ。



 とどのつまり、簡潔に感想を言わせてもらうならば、超良いスペシャルなおっぱいでした。

 おっぱいって本当に良いものですよね。



 とまあ、何だか自分だけ悦に浸ってしまってる感が否めなくはないが、ルトも終始ビクンビクンと感じていた様子だったし、結果的にはイーブンとも言えるのではないだろうか。

 何にせよ急を有する事態だったわけで、お互いの同意あっての行為だし、何も問題ないんじゃないカナ、カナ。

「まあ、傷に障るような真似は先ほどの診察で見た限りはしていないようデスし、今回は見逃してあげますけどもネ。あまりうるさく言うのも逆効果でしょうし」

「そ、そうか」

 呆れ混じりの言葉ではあったが、カケルは内心ホッと安堵した。散々安静にしろとキツく命じられていた上、その禁を一度破ってしまった前科があるので、あまりこの医者を刺激するような事は本意ではないのだ。怒らせると何をするか分かったものじゃないし。

 ただ今の発言から鑑みるに、そう心配する必要はなさそうだ。

「それと言い忘れてましたが、今日のメニューはコロッケ風味のタワシなので楽しみにしておいてくださイ」

 前言撤回。許すつもりなんて全く無さそうだった。

「つーか、コロッケ風味のタワシって何だよ! むしろどうやって食うんだよそんなもん!」

「じゃあ今日は何にしまス? タワシにしますカ? それともタワシ? それとも、タ・ワ・シ?」

「全部タワシじゃねぇか! それと新妻みたいな言い方すんな! 何かすげー腹立つっ!」

「タワシが駄目ならセワシで」

「誰だよセワシ! 某あやとり名人のお孫さん!?」

「ぐわしッ」

「それマコちゃん! ていうかもはや物体ですらねぇ!」

「さっきからワガママばっかりデスねえ。だったらタワシでいいデスよ、んもう」

「どのみちタワシじゃねぇか! 何その執拗なまでのタワシ押し!?」

 そこまでしてカケルにタワシを食わせたいのか、この医者は。

「とまあ、冗談はこれくらいにしまして」

「ここまでノっておいて何だか、長い脱線の仕方だったな……」

「ビークワイエット。とりま、そこまでルト様が心配で心配でたまらないと仰るのなら、ワタシが後で調べておきますヨ。精神面をケアするのも、医者であるワタシの仕事デスからね」

「今まで散々オレのSAN値を削るような真似をしてきた奴が何言ってやがんだ」

 などと憎まれ口を叩きつつも、あながちミランの言も的外れというわけでもなかった。

 それは前述であった通り、純粋にルトの身を案じての意味もあるのだが、それだけでなく最近見ている夢のせいでどうにも落ち着かないのだ。

 夢の内容はいまいち記憶に残っていないのだが、凶報というか、何か気分の良くない事だったという事だけははっきり覚えている。



 いつか夢と同じような事がこの先に起こりそうな。

 そんな言い様のない不安が。



「ただの気のせいだとは思うけど……」

「何か言いましタ?」

「何でもねぇよ。ところでさ、いつまで包帯なんて巻いてればいいんだ? 傷口ならほとんど塞がってるし、血だって出てないじゃんか」

「確かに傷口自体は驚異的な回復力で治りかけてますが、まだ抜糸は済んでませんし、いつ何がきっかけで傷が開くとも分かりませんから、一応念の為にってやつデスよ」

 と、そこまで言ってから一旦包帯をハサミで切り、道具を治療鞄にしまい込みながら言の葉を紡ぐミラン。

「ただまあ、軽い運動程度なら許可してあげてもいいデスよ。全く体を動かさないというのも返って毒デスし。だからと言ってこの病室から出たりしたら駄目デスよ。本来ならアナタはワタシ達魔族に仇なす立場の存在なんデスから」

「分かってるよ。魔王のおかげでこうしていられるって事もな」

 本来なら、勇者であるカケルが魔王城で治療を受けているなんて状況、あってはならない事なのだ。ルトの好意によってこうして匿ってもらっているが、一度この病室から出たらそこは魔の領域。命の保障などどこにもありはしない。カケルとて、無闇に命を投げ捨てる気など毛頭ない。

「それだけ分かってもらえれば十分OKデスよ。それではワタシはこれで失礼させてもらいますが、ルト様の件に関しては後日連絡という形でよろしいデスか?」

「ああ。悪いが頼む」

「請け負いましタ。それと最後にこれだけ言わせてもらいたいのデスが」

「……? 何だよ?」

「今さらながらデスが、実は深夜になると、この病室には──…………(バタンっ)」

「いや言えよ! 深夜になるとこの病室が一体どうなんだよオイ!?」

 去り際まで芸に余念のない医者だった。




 その数日後。早朝。

「パンパカパーン。おめでとうございま〜ス」

 起きぬけに、何の前振りもなくミランにクラッカーを鳴らされ、わけが分からずぽかんと放心するカケル。目が覚めたばかりという事もあって、まるで頭が働かない。

「何デスか。ノーリアクションだなんてつまらない反応デスねえ。せっかく祝ってあげたというのに」

「んな事言われても、状況が全然把握できていないんだが……」

 主語を明確にしてくれないと、何に対する祝いの言葉なのかさっぱり分からない。

 それよりも、さっきからルトが戸のそばで恥ずかしそうに顔を出し入れしているのが気になって仕方がないのだが。

 何なんだろう、あの愛くるしい生物は。

「なあ医者。オレより魔王の方を気にしなくていいのか? 何か言いたそうにモジモジしてるけど」

「それもそうデスね。ほらルト様、いつまでそこで市原悦子してるおつもりデスか」

「きゃうっ!?」

 いつまで経っても中に入ってこないルトに、ミランが腕を掴んで室内へと引っ張り込む。

「ミ、ミラン……!」

「ほらほら。こういうのはご自分の口から言わないと意味がありませんヨ。当人達の問題なんデスから」

「う、うぅ〜」

 妙に動揺を露わにするルトをミランが強引に背中を押してカケルの元へと寄せる。先ほどから意味深な会話ばかりしているが、一体何の事なのか皆目見当も付かない。さっさとこの状況を説明してほしい。

「あ、あのな。カケル……」

 ようやく話す気になったのか、しきりに裾をいじりつつ、ルトが静かに口を開く。

「その、わ、私…………してるんだ」

「え? なんだって?」

 上手く聞きとれず、どこぞのはがない主人公みたいに聞き返すカケル。

「だから、その、わ、私……」

 ついに決心が固まったのか、今まで見た事がないくらい顔を真っ赤にさせて、ルトはあらん限りの声でこう叫んだ。



「わ、私! に、妊娠したみたいなんだ……!」


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