第16話 そして歯車は廻り出す



「いきなり失礼しますヨー。いえね、朝の検診時にここで忘れ物をしたみたいで──……」

 と。

 あともう少しでルトの秘密の花園に舌が届きそうといったタイミングで、何の脈絡もなくミランが素知らぬ顔で入室してきた。



「…………」

「…………」

「…………」



 無言のまま膠着する三人。空気が氷のように凍り付き、いたたまれない沈黙が辺りを包み込む。その場に置いて、誰一人として身動きどころか声も発そうとすらしなかった。

 さて、ここで問題です。

 今ここに、下着を脱ぎ股間を露わにしながら恥辱に身を震わす美少女と、その禁断の果実に舌を這わせようとしている少年がいます。二人は何をしている最中だったのでしょうか?



 A.どう見ても痴漢現場です。本当にありがとうございました。



「ああ。すみませんねェ、気が利かなくて。ワタシはここで事の成り行きを見守っているので、どうぞ構わず存分に続けちゃってくださいナ」

「ちゃうんや医者! いや、何も違わないけどちゃうんや! ていうかそこは出てけよッ! 何で覗き見するつもりでいるんだよッ!!」

 戸の隙間からこちらの様子をなまら温かい目で見つめてくるミランに、カケルは途中から弁解にもなっていない叱声を飛ばす。野次馬根性にも程があるだろう、この腐れゾンビめ。

「ナンデ!? ミランナンデ!?」

 と、カケルとミランのやり取りを見て忘我から今やっと立ち直ったのか、ルトがあからさまに顔を青ざめて狼狽え始めた。

 そのあまりの動揺たるや、先にこの状況を説明すべきか、それとも下着をすぐさま穿き直すべきかで判断が付かずに、忙しなく手足をバタバタさせて思いっきり挙動不審な有り様になっていた。まあ、一番の不審者であるカケルが言えたセリフではないが。

「どどど、どうしてミランがここにいるのだ!? 確か今は他の仕事で研究室に閉じこもっているハズなのに……!」

「ああ、先ほども言いましたが、ここで忘れ物をしたんで取りに来たんデスよ。いやー、でもまさかルト様が勇者さんとお昼の情事に勤しんでいるとはドリームにも思いませんでしタ。こいつぁ、是が非でもガン見してワタシのときめきメモリアルに永久保存しなくてはいけませんネ。ワタシ、気になりまス」

「うにゃー! 見るな〜! 頼むからこんな私の恥ずかしい姿を見ないでぇ〜ッ!」

「……そう思うなら、今すぐにでも下着を穿くべきだとオレは思うぞ? というか魔王、その格好であまり動かない方が──」

 いいぞ? と、注意を促そうとした矢先、それまで顔を両手で隠して悶絶していたルトが不意にバランスを崩し、「ふにゃッ!?」と尻尾を踏まれた猫みたいな悲鳴を上げて前のめりに倒れ込んだ。

 ビタンっ!! と転倒したと同時に響いた痛々しい音に、思わず顔をしかめるカケル。これで床に絨毯でも敷いてあれば衝撃を少しでも緩和できたのかもしれないが、思いっきりタイル張りだった為にかなり痛そうだった。

「ま、魔王? 大丈夫か……?」

 桃のような血色の良い美尻を晒したままピクリともしないルトに、カケルがおそるおそる訊ねる。しかし返る言葉は無く、しんと水を打ったような静けさだけが辺りを包んでいた

「魔王……? 魔王──ッ!?」

 うんともすんとも返事をしないルトに、カケルは声を上げながら慌ててベッドから下りた。そしてすぐさまルトに駆け寄り、両手で激しく体を揺さぶる。

 正確には、ルトのぷるんぷるんな小尻を鷲掴みにして。

「しっかりしろ魔王!(プニプニ)返事をするんだ魔王!(プニプニ)死ぬな魔王ぉぉぉぉぉぉ!!(ペロペロ)」

「さっきから何を堂々とセクハラしてんデスかアンタ」

 ミランにジト目でそうツッコまれ、ハッとカケルは我に返った。

 いけないいけない。思わぬ急接近ラッキーDAYSについシアワセ☆ハイテンション↑↑になって、本能のままルトの尻に飛び付いてしまった。

 それはともかく、ミランの言う通り一刻も早くルトの意識を確認しなくては。いや、仮にルトの意識があった場合の、今し方自分の犯したセクハラに対する弁明をするべきだとか、そんな打算あっての事ではなく。まして、気絶している事を分かった上でセクハラをしたワケでは、全然まったくこれっぽっちも無く。

 などと小汚い事を考えつつ、カケルはルトの尻から手と舌を急いで離して、肩を掴んで顔がこちらに向くよう抱き寄せた。そして軽く頬を叩いて「おーい魔王。聞こえるかー?」と声を掛ける。

「あー、こりゃダメだな。完全に気を失ってる」

「どうやらそのようデスね。見るに軽い脳震盪のうしんとうみたいデスし」

「え? 魔王でも脳震盪なんて起こすのか? めちゃくちゃ強いのに?」

「そりゃそうデスよ。別に不死身の化け物というわけではないんデスから。まあ、極度の緊張も原因の一つとは思いますが」

 屈みながらルトの瞼を指で開け、瞳孔の伸縮具合からそうミランが診断を下す。医者であるミランがこう言っているのだから、特に問題は無いだろう。

「まったく、誰なんでしょうネ。ルト様をこんな目に合わせたのは。チラチラ」

「白々しくこっち見んな。そーだよオレだよ。オレが魔王に恥ずかしい真似をさせたせいだよ。悪かったな」

「それはワタシではなく、あとでルト様に言ってあげてくださいナ」

 というか、相変わらずバカな事してますネー。

 などと呆れた口調で言いながら、おもむろにミランはルトの両肩に手を差し込んだ。

「まあ念の為、後で入念に検査しておくとして……勇者さん。申し訳ありませんが、ルト様をアナタのベッドに寝かせてはもらえませんカ? ルト様の体重なら、傷口に障ったりしないと思うので」

 ミランの頼みに「え? お、おう」と一瞬呆けながらも、すぐさま言われた通りにカケルはルトの両足に腕を入れてそのまま持ち上げた。いわゆる、お姫さま抱っこというヤツだ。

 ミランの言った通り、まるで重さを感じさせないルトに軽く衝撃を受けつつも、誤って手を滑らさないよう気を使いつつ、慎重に歩を進めてベッドへと運ぶ。

 そうして無事にルトを寝かせ終えた後、ミランが前もって用意してくれていた丸椅子に腰を落ち着けて、カケルは「ふう」と一息吐いた。

「ご苦労様デス。すみませんねェ、ご無理を言いまして」

 そうカケルを労いつつ、下ろされたままだったルトの下着を元の位置へと穿かせるミラン。後であのパンツにこっそり顔をうずめてペロペロしようと思っていたのに、余計な真似を……。

 なんて邪な本心はおくびにも出さず、

「いや、これぐらいどうって事ないさ☆」

 とカケルは爽やか表情を浮かべて言葉を返した。

「何デスかその妙に胡散臭い笑顔は。まさか、ルト様の下着を狙ってたわけではないデスよね? ルト様の体をねっとりたっぷり持て遊ぶだけじゃ飽きたらず、ついにはご自身の中に溢れるパッションをこの下着にぶち撒けるおつもりだったんデスか? うわぁマジ引くワ〜。さすがのルト様も、そんな事された日にゃ、大いに傷つくと思いますヨ?」

「ば、バーロー何言ってんだお前は! 愛のままにわがままに、オレが魔王を傷つけるような真似をするワケないだろ! いや、この間キズモノにしちゃったばかりだけどさ!」

 それよりも! と強引に話の流れを変えて、カケルは真意を悟られないよう(もうほとんどバレバレではあるが)、別の方向へと気を逸らせる事に徹する。

「ここに来た時忘れ物をしたとか何とか口走ってたけど、結局何だったんだ?」

 カケルの問いにすぐには答えず、少しの間疑わしげにこちらを凝視していたミランだったが、「ま、いいでしょウ」と嘆息混じりに呟きつつ、そばの子棚に置かれていた小さな薬瓶を手に取った。

「これがそうデス。どうやら、手付かずに済んだみたいデスねー」

「ああ。そういや、朝からずっとそこに置いてあったっけか。何か錠剤が入ってるみたいだけど、何の薬なんだ?」

「SANクオリアという薬デス」

「さん、く……? 何だって?」

「SANクオリア、デス。飲めばたちまちカードの声が聞こえたり、先の展開が予見出来たりしますヨ。その代わり、精神が暗黒面に堕ちちゃったりしますけどネー」

「一体どんな用途で使われる薬なんだそれは」

 使い道がまるで分からない謎な薬品だっだ。

 あれか、闇のゲームとかで絶対に負けらんない戦いがそこにあった場合などに服用するのだろうか。その代償で正気を失う事になるのだから、どっちみち本末転倒な気はするが。

「勇者さんこそ、もう少し警戒心を持って行動してくださいヨ? ワタシだったから良かったものの、他の者に目撃されていたら今頃アンタ、殺されていた上に解されて並べられて揃えられて晒されていましたヨ」

「え、そんな残忍な目にあわされるほどの事なの?」

「当たり前デス。もし勇者さんがもっと鬼畜なプレイを決行していたら、普段温厚なこのワタシでさえ、契約文を捧げて大気に眠る闇の精獣を宿す所でしたヨ。前にも忠告しましたが、傷口が開くような激しい動きはくれぐれも控えてくださいネ」

「お、おう。肝に銘じとく。ていうかお前、そう言う割にはオレ達を止めるどころか覗く気満々でいたよな? それって良いのか?」

「あー、ルト様の慌てふためく姿が可愛い過ぎてつい、ネ」

「可愛かったんじゃあ、しょうがないな」

 あっさり納得の意を示すカケル。同じ立場ならカケルもそうしていただろうし。

 可愛いはジャスティス。この世の理に誰も抗う事などできやしないのだ。

「さて用は済みましたし、ワタシはこれでお暇させてもらいヨ。ルト様がお目覚め次第、ワタシの元へ来るようだけ伝えておいてくださイ」

「分かった。魔王が起きたらそう言っておくよ」

「それでは、ご自愛くださイ」

 言って、ミランは薬瓶を白衣のポケットに入れ、出入り口向けて踵を返した。

 足音をろくに立てず静々と立ち去ろうとするミランに、カケルは黙ってその背中を見送る。どうやら、本当に忘れ物を取りに来ただけだったようだ。てっきりまた、いつものようにワケの分からない怪しげな薬を勧めてきたり、下世話な事を根掘り葉掘り聞いて揶揄してくるものだとばかり思っていたのだが。

 若干拍子抜けな気分を味わいつつ、人知れず嘆息していると、

「そうそう。勇者さん」

 と背中を向けたまま、不意にミランが言葉を発した。

「ん。何だ?」

「ひとつ、言い忘れた事があったんデスが──」

 と。

 ミランが首だけをゆっくりとこちらに向けて。

 刃先で全身を切り捨てられたかのような鋭さで、こう言い放った。



「何を思い悩んでいるかは知りませんが、あまりストレスを抱え込むと体に障るだけデスよ?」



「────ッ!?」

 驚愕に声を失うカケルをよそに、「ま、ルト様も何となく気付いているようではありましたが」とだけ言い残して、戸を開けて去って行った。

 そうして訪れる静寂。聞こえるのは自分の呼吸音と、以前としてベッドで気絶したままのルトの、安らかな寝息だけだ。

「んだよアイツ……。ちゃっかり勘付いてやがったのか……」

 そう吐き捨てるように呟き、椅子の上でうなだれるカケル。いつもは飄々としているくせに、腐っても医者だったという事か。つくづく油断ならない奴だ。

 ふと、横で眠るルトへと視線を移す。

 安らかな寝顔。さっきまで顔を真っ赤にして狼狽していた姿が嘘のようだ。きっと今頃、何かしら穏やかな夢を見ているのだろうか。そうであれば良いなと心の底から思う。

「ひょっとして魔王がオレの冗談を真に受けたのも、案外オレを元気づけようとしていたからかもしれないな」

 ルトの長い肌触りの良い艶髪を優しく撫でながら、カケルは静かに呟く。

 空元気を装って今まで接していたつもりだったが、まさかミランだけでなくルトにまで看過されていたとは。自分の演技力の無さにほとほと呆れ返る。今後はいらぬ心配を掛けないよう、細心の注意を払うとしよう。



 こんなあどけない、しかし誰よりも気苦労の耐えない少女に、これ以上の負担は絶対掛けたくないから……。



 と、そこでルトの髪から手を離し、去り際のミランの言葉を心中で反芻する。

「悩むだけ体に障る、か。だからってこのままなあなあにしておける問題でもねぇだろ……」

 歯噛みして、痛みが走るほど拳を握りしめる。誰にもぶつけられない憤りを、こうして自身を虐める事によって解消せんとするばかりに。

 人間と魔族の永きに渡る争い。どちらにも言い分があり、どちらが良いか悪いかなどと、今となっては一概に決め付けられない状勢になっている。問題解決へ至る道は未だ開かれる事なく、両者の諍いは終わりが見えない。このままでは制限無く、どちらか一方が滅ぶまで血の雨が降り続ける事になるだろう。

 ではもし、徹底的に手遅れなまでにどうしよもなく、人間と魔族の二大戦争が本当に勃発したら。

 どちらか一方に加担しなければならなくなったら。

 その時、カケルは──



「どちらにも付かず、誰もいない土地に逃げるって言ったら、さすがの魔王もオレに愛想つかせるだろうな……」



 とは言っても、ルトには何も明かさずに魔王城を出るつもりだが。

 怪我が完治次第、何も言わずここを離れる──それはここで療養するようになって、常日頃に考えていた事だった。

 魔族の事情を知った今、彼ら彼女らに──ましては自分を慕ってくれるルトに、刃を向ける事など到底できない。とはいえ、全ての人間を敵に回せるだけの覚悟など、まだ十六歳の少年でしかないカケルにあるはずも無かった。

 故に、人間側にも魔族側にも付かず──どこか人や魔族の手の入っていない土地に逃げ込む。

 それが、カケルが下した決断だった。

「どっちにしろ、最低だよなオレ……」

 好きだと告白してくれた少女と肌を重ねておきながら、何も言わずに出て行く。自分でも至極最低な真似をしようとしている事は十二分に承知の上だ。それこそ、数え切れないほどの罵詈雑言を吐かれても甘んじて受ける所存である。それでもルトに恨まれる事だけは、耐え難いものがあった。

「いや、恨まれた方がまだマシかもしれないな」

 憂いた表情を浮かべながら、カケルは何も知らず眠り続けているルトの頬を指先で優しく撫でる。

 純粋無垢な彼女の事だ。こちらに憎悪を抱くよりも、唐突に姿を消したカケルに深く傷付き、嘆き悲しむかもしれない。いや、『しれない』じゃない。絶対悲しむ。それこそ、部屋の中にふさぎ込み、いつまでも枕を濡らし続けるほどに。そう思うだけで、胸がぎゅっと締め付けられるように痛んだ。

 それでも。それでも尚カケルは──



「ごめんな、魔王……」



 ◇◆◇◆◇



 カケルは知らなかった。

 この時既に、ルトの体内で新たな命が芽吹き始めようとしている事も。

 そして、カケルとルトに刻一刻と忍び寄ろうとしている脅威の影にも。

 カケルはまだ、何も知らなかったのだった……。

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