第13話 今時の少女マンガでもここまで甘くない
「カ、カケル? 調子はどうだ?」
そんな妙におどおどとした伺いと共に、ルトが戸を開けてそっと隙間から顔を覗かせた。
隙間から僅かに見えるルトの姿は、ここから退出した時とすっかり変わっていた。
一旦自室にでも戻ったのか、ミランの元へ向かわせた時は飾り気の無い白のワンピース(ルトが魔法で取り出した私物だ)だけという簡素な服装だったが、今はいつものきっちりとした軍服を着こなしている。見舞いだけ済んだらすぐにでも仕事へと掛かれるようにと考えて着替えたのだろう。陽もまだ昇ったばかりという早朝から仕事とは、実にご苦労様な事だ。
「ああ、ルト様。もう入って来て大丈夫デスよ。ちょうど今治療が終わったところデスから」
ミランのその言葉にルトは「そ、そうか」とか細く呟きを漏らした後、なるべく物音を立てないよう配慮しているのか、楚々とした動作で病室に足を踏み入れた。
「すみませんネ〜。長々とお待たせしまいまして。なにぶん、こういったデリケートな作業は独り静々とやりたい、面倒くさい性分なもんでしてネ」
「いや、こちらこそすまなかったな。こんな朝早くから無理に起こしてしまって……」
「いえいえお気になさらず。これも仕事の内デスから」
「それで、カケルの具合は……?」
と、ベッドのそばへと近寄ったルトが、心配そうにカケルの腹部に巻かれた包帯を見やりながらミランに訊ねる。
「思っていたより傷口が開いていましたが、すぐに治療が施せたおかげで大事には至っていませン。ただ出血が酷かったのでしばらく貧血気味になってしまうとは思いますが──まあそれも今日1日安静にしていればすぐに治るでしょウ」
「そうか。無事に済んで良かった……」
ミランの診断を聞いて、心底ホッとしたように胸を撫で下ろして表情を綻ばすルト。よほどカケルの状態が心配でならなかったらしい。少々大袈裟な気もしないでもないが、それだけ気に掛けてくれたという事だろう。ミラン共々、ここは感謝してしかるべき場面だ。
そう思い「あー、まあその……」と照れくさいあまり視線を二人から逸らしつつ、カケルは素直に礼を述べる。
「二人共悪かったな。余計な心配を掛けちまったみたいでさ」
「ほぇ? あ、いやいや! 気に病む必要なんて全くないぞ! カケルはその、わ、私にとって大事な人でもあるワケだし……ゴニョゴニョ」
「まあ、ワタシは鼻から心配なんて微塵もしてませんでしたけどネ〜。忠実に自分の仕事をこなしただけの事デスし」
何やら顔を赤らめて言葉尻を濁すルトと、気怠そうに肩を揉んでにべもなく答えるミラン。前者はともかく、後者はもう少し愛想良くできないものだろうか。顔は悪くないのだし。まあニコニコ朗らかに笑うミランと言うのも、それはそれで不気味ではあるが。
「それにしましても、『カケル』ねェ……。チラ、チラ」
「んだよ。こっち見んな」
何か含みのある呟きと共に、薄ら笑みを浮かべてこちらへと視線を向けるミランに、カケルは心底目障りそうに顔をしかめた。大方、名前を呼ばれるほどまでに関係が進展していた事に対して揶揄しているのだろう。このドSめが。
「……? 二人共、どうかしたのか?」
「え? ああいやいや! 何でもないから気にすんな! それより医者っ。ちょいこっちゃ来いこっちゃ!!」
キョトンと小首を傾げるルトに、カケルは慌てて誤魔化しを入れつつ、ミランの首に無理やり腕を通して強引に自分の顔面近くまで寄せた。
「何デスか、カケルさん。ルト様の中に己の白濁液をお名前通りに容赦なく存分にぶっかけたカケルさん?」
「上手い事言ったつもりか! それよりもお前、あの事は絶対魔王に言うなよな」
背後にいるルトに会話が漏れ聞こえないよう声量を抑えつつ、カケルはミランをじろりと睨め付けた。
「あの事と言いますと?」
「だから、その……オレとルトがアレな行為に及んだ事だよ。オレの方で医者に誤魔化しておくって言っちまったから、アイツ、未だにお前にはバレてないって思い込んでるんだよ」
「どうしてデス? バレたら何か面倒な事態にでもなるので?」
「いや、オレはともかく、魔王がその事を知ったら今後お前に接し辛くなるだろ? アイツ、妙に純情な所があるしさ」
「なるほど。しかし敢えてそこで面白可笑しくなるような展開へと冒険してみるのも一興とは思いませんカ? そうすればハレハレユカイな気分(主にワタシが)を味わえる気がするんデスよね。ほら、某団長さんもよく言ってますでしょウ? 『冒険デショデショ?』って」
「そんなラダトーム城を出てすぐゴーレムに挑むような無謀な冒険してたまるか」
第一、コイツの享楽にわざわざ付き合う気など毛頭無い。
「しかしながら、確かに勇者さんの言う事も一理ありますネ。ふむ……まあ良いでしょウ。少々残念ではありますが、その件に関しては素知らぬ態度を取っておきますヨ」
「本当か? マジで頼んだぞ?」
最後にそう釘を刺して、カケルはすぐに腕を放してミランを解放した。
「カケルもミランも、急に話し込んだりしてどうしたんだ? 何だか、私には聞かれたくないような素振りだった気がするが……」
振り返って見ると、ルトが眉間を寄せてこちらを凝視していた。いきなり蚊帳の外扱いにされて、コソコソ二人で内緒話を始めたわけなのだから、この反応も無理はない。むしろ機嫌を損ねて退室しなかっただけでも御の字だ。
「いえ、何でもないデスよ、ルト様。ただ勇者さんと急にきのこの山がどれだけたけのこの里より優れているかを談議していただけデスよ。ねえ、勇者さん?」
「え? そ、そうそう! やっぱりきのこの山の方が最高だよな! これぞ男のシンボルと言った逞しいフォルムが良いっつーの? 皮を被った仮性野郎とは次元が違うっつーね。うんうん」
突然の問い掛けに内心狼狽しつつも、必死に語彙をかき集めてどうにか言葉を返す。ちなみにカケルは断然たけのこの里派であるのだが、この際そんな事はどうでもいい。変に沈黙を保っていたらそれだけルトの疑心を煽る形になってしまうし、何も答えないよりはよほどマシであろう。
というかそれ以前に、何故カケルのいた世界のチョコ菓子をこの医者ゾンビが知っているのだ。いや、このツッコミ自体何を今更と言った感じではあるのだが。
それにしても、だ。果たして今の会話でちゃんとルトが納得できたかどうか、些か疑問だ。これじゃあミランはともかく、比較的まともな部類に入るルトが先ほどの話に付いていけるかどうか不明瞭ではないか。
そして案の定と言うか何と言うか、
「きのこの山? たけのこの里……?」
と、意味が分からないと言った具合にルトは眼を瞬かせて、頭の上に疑問符を浮かべていた。
「ま、要するに、きのこがどれだけ素晴らしいかを勇者さんと論じていただけなんデスよ」
「そうなのか? その割にはえらく熱くなっていたようだし、それにいきなり話し込なければならないほどの事案とも思えないのだが……」
「そ、それは、オレ達が無類のきのこ好きだからだよ! 急にきのこの話がしたくなったのも、オレのゴーストが急遽そうするように囁いたからなんだよ! なあ医者! そうだよなあ!?」
「ええ、だいたい合ってまス。ワタシ達の愛馬もといスタンドは凶暴なんデスよ」
「むぅ。そうなのか。それじゃあ仕方ないな……」
カケルの有無を言わせない剣幕に押されたのか、はたまた場の空気を読んだのか、それまで訝しげに視線を尖らせていたルトではあったが、カケル達の話を聞いてしぶしぶと納得の意を表した。一時はどうなる事かと思ったが、どうにかこうにか上手く場を誤魔化せたようだ。
「──それじゃあ用も済んだ事デスし、そろそろワタシは退室させてもらいましょうかネ」
事なきを得て人知れず安堵の胸を撫で下ろすカケルをよそに、おもむろにミランは治療鞄を持って椅子から立ち上がった。
「え? もう行ってしまうのかミラン?」
「ええルト様。あまり長居する理由もありませんし。それに──」
とミランはルトとカケルを見据えながら、ニヒヒと悪戯じみた笑みを浮かべてこう続けた。
「ワタシみたいなお邪魔虫がいたんじゃあ、いつまで経っても勇者さんと乳繰りあえないでしょうからネ〜」
「にゃ!? にゃ、にゃにゃにゃにを言っておるのだミランよっ!? わ、私がカケルと、そ、その乳繰りあうだなんてそんなハレンチな真似……! あ、いや違うのだカケル! 決してカケルとそういう事をしたくないワケじゃにゃくて──っ」
「ああうん。分かったからとりあえず落ち着け、な?」
あからさまに動揺を露わにして顔を真っ赤にするルトに、カケルは苦笑しつつそう宥めた。これだけ狼狽されると、返ってこっちの方が冷静になってくるというものだ。
──つーかお前、昨日あれだけ大胆な真似をしておきながら、その反応はねぇだろうよ。
などと内心思ったが、敢えて口にはしない。言ったら余計赤面するだけだろうし。
よくよく、純情なのかそうでないのかよく分からない少女だ。
「はてさて、ルト様の面白い反応も見れた事デスし、今度こそワタシは行かせてもらいますヨ〜」
貴様、さては私を謀ったな!? と憤るルトを適当に手を振ってやり過ごし、ミランは足早に戸へと近付いて、取っ手へと腕を伸ばす。
「それじゃあ、お二人共ごゆっくり。ま、もっとも──」
廊下へと出て、顔半分程度まで戸を閉めた後、ミランはニヤリと口角を吊り上げてこう言い放った。
「昨日のアレを見る限り、ちと勇者さんのはお早いような気がしてなりませんでしたけどネ〜」
「はよ出てけやッ!!」
怒声と共にそばにあった枕をミラン向けてぶん投げたが、すぐに戸を閉じられてあっさり逃げられてしまった。しかも「サラダバ〜」などと最後までふざけた事を抜かして去る始末。実に忌々しい奴だ。
「……カケル、昨日のアレとは何だ? それに早いって一体……?」
「え!? いや何でもない何でもから! あのクソ医者のいつもの戯言だから気にすんな!」
本当に意味が分かっていないのか、心底不思議そうに疑問を投げかけるルトに、カケルは冷や汗を垂らしながら答えた。
今のは少し苦しい言い訳だっただろうかと一瞬脳裏を掠めたが、「そうか。ミランのいつもの悪ふざけか」とルトはやけにあっさり頷いてくれた。単なる杞憂だったようで本当に良かった。
にしてもあの医者め。最後の最後までろくでもない爆弾を投下しやがって。
だいたい、昨日の事は一切口にしないという取り決めだったはずだと言うのにこれである。あの医者とはいずれ、ちゃんと話を付けた方が良さそうだ。それも拳という名の肉体言語で。
と、ミランにどう報復してやろうかと作戦を練っている内に、ふとこちらを見ていたルトと目が合った。
絡み合う視線と視線。数秒間互いに固まったまま見つめ合った後、どちらからともなく不意に視線を外した。
何とも言えない気まずい雰囲気が流れる。何なんだこれは。まるで付き合ったばかりの田舎の中学生カップルみたいではないか。昨日あれだけ激しく互いの体を求め合っておきながら、目を合わせただけでこんなにもまどマギ、もとい、どぎまぎする事になろうとは。羞恥心という名の鎖が体中に巻き付いて、身動きはおろか口すらも塞がれているかのような気分だ。
果たして、どれだけそうしていただろうか。いつまでも所在なさげに髪をいじりながら立ちすくしているルトを横目で見て、さすがにずっとそのままにさせるのもどうかと思い、
「あー……。とりあえず座ったら?」
と、カケルは目の前の椅子を指差してそう勧めた。
カケルの言葉に「う、うむ」とぎこちなく首を縦に振った後、ルトは椅子の縁にそっと手を添えて、少し躊躇いがちに表面を撫でた後、じれったく思えるほどの実にゆっくりとした動作でようやく腰を落ち着けた。
そして、再びの静寂。窓から時折飛来する小鳥の囀りだけが、唯一静かな空間の中で音を響かせていた。
二人共何も言葉が思い浮かばないのか、目線は泳いだまま、一向に声を発する気配は無い。カケルは窓へと視線を逸らして頬を掻き、ルトはスカートの裾を何度も直しては、耐え難い沈黙が下りるこの場をどうにかやり過ごそうとしていた。この分だとどちらかが声を掛けない限り、いつまで経ってもこの状況が続きそうだった。
だが、それも仕様のない事なのだ。そもそもがまだ、昨日の一件からそう間を置いておらず、あまつさえ女性との交遊経験が今まで殆ど無かったカケルとやたら乙女然としているルトが、本来こうしてまともに顔を合わせる事自体が奇跡に近いと言っても過言ではないのである。故に、こうしてルトと面と向かっているだけでも褒めてもらいたい気分なのだ。
だから仕方ない。仕方ないな。こればっかりは仕方ない。
うん。自分でも誰に対して何の言い訳をしているのか、だんだん分からなくなってきた。
「あの、カケル……?」
思考の迷宮へと入り始めた頃、重苦しい沈黙を破って、ルトが不意に口を開いた。
急な問い掛けに少し戸惑いつつも、「お、おう。何だ?」と自然な風を装ってカケルはルトに訊き返す。
「その……昨日はすまなかった」
「へ? すまなかったって何が?」
「だって、カケルを
「いや、別にお前が謝る事じゃあないと思うんだが……」
発端がどうあれ、あれはお互い同意の元で行ったものだ。だからこんな申し訳なさそうに頭を下げられる云われなど微塵も無いのである。
むしろ、こちらこそキズモノにしてごめんなさいというかありがとうございましたというか、そんな居心地の悪い立場だと言うのに。
「とりあえずさ、顔を上げてくれよ。お前は何も悪くないし、傷口が開いたのも殆ど自業自得みたいなもんなんだからさ」
「そ、そうなのか?」
「そうだよ。だから気にすんなって」
「う、うむ。じゃあそうする……」
そう素直に頷いた後、ルトはスッと伏せていた顔を上げた。
ひょっとして、今までずっとそんな事を気にしていたと言うのだろうか。思っていた以上にナイーブと言うか謙虚というか、よくこんな調子で魔王なんてやっていけたものだ。
「ところでさ、お前の方こそ大丈夫なのか? その、結構血が出てたみたいだし。いやオレがやったようなもんなんだけどさ……」
「ふえ!? な、何を言っておるのだカケル! それこそカケルが気にするような事ではないぞ! それに血ならもう止まっているし、何も問題ない! ただ、椅子に座る時なんかはちょっとだけ痛かったりするけれど……」
恥じらいながら最後のセリフを漏らしたルトに、カケルは「あー」と声を零した。道理で椅子に座る際、恐々とした動作をしていたわけだ。
「まあ、とりあえず大した事ないみたいで良かったよ。でも、あんまり無茶はすんなよ魔王」
「魔王、か……」
苦笑を浮かべながら口にしたカケルの言葉に、何故かルトは気落ちした感じでそうオウム返しに呟いた。
「……? どうした魔王? 急に暗い顔してさ」
「いや、その……だな。昨日みたいに、ルトって名前で呼んでくれないのかなって……」
言い難そうに指をもじもじと絡ませて言ったその呟きに、カケルは「へ?」と呆気に取られた。
「あ、い、嫌なら嫌でいいんだ! 無理に言わせたいわけでもないし! でも、ちょ、ちょっとだけ残念ではある、かも……」
「いや、別に言いたくないってわけじゃないんだが……」
指をつんつんと突き合わせながら上目遣いでこちらの反応を窺うルトに、カケルは頭を掻いて言葉を濁す。
昨日は雰囲気に流されるあまり、ついつい熱くなって名前で呼んでしまっりしたが、よくよく思い出してみても奇声を上げながらのた打ち回りたくなるほど恥ずかしい記憶なのだ。故に、今更ながら名前を呼ぶという行為は、何とも照れくさいものがあった。
とは言えだ。ずっと魔王と呼ぶわけにもいかないだろうし、何よりこのままの呼び方だとルトが落ち込みそうだ。今でさえ魔王と呼んだだけで微妙に気を沈ませているくらいだし。
結論が出ないまま、とりあえず返答だけはしようと言葉を選びつつ、
「まあ、急には呼べないと言うか、時間は掛かるかもしれんけども、なんつーか、その………………ま、前向きに検討させて頂きたいと思います」
と言うのに留めた。我ながら呆れるほどのヘタレ具合である。
「そ、そうか。うん、そうしてくれると私も嬉しい……」
カケルの言葉を聞いて、ルトはうっすらと頬を染めてはにかんで見せた。その見惚れんばかりの微笑に、カケルは「うっ」と呻いた。
まだ名前を呼ぶと決まったわけでもないのにこの喜び様。これでこの先ずっと名前で呼ばなかったら一体どうなってしまうのか、想像しただけでもゾッとしない話だった。
「……何だか、ちょっとだけホッとした」
未来の行く末に背筋を凍らせていると、ルトが誰に聞かせる風でもなくポツリと呟いた。
そんな静謐な雰囲気を纏うルトに「え? 何がだ?」と疑問を上げるカケル。
「さっきまでずっと不安だったんだ。ひょっとして昨日の事は私の夢か幻だったじゃないかって。でも──」
とそこで一拍開けて、ルトは唐突にカケルの片手を取り、そっと覆い囲むように両手を重ねた。
「ちょ! 魔王!?」
「こうしてカケルの体温を感じるだけで、あれが夢でなかったって思える。カケルとの大切な思い出が幻じゃなかったって信じる事が出来る。そしてそれ以上に…………」
突然手を握られて動揺を露わにするカケルをよそに、ルトはより一層強く手を包み込んで言の葉を紡いだ。
「昨日よりもっとずっと大好きになっているカケルへのこの想いが、夢や幻なんかじゃなかったっていう事が、何よりすごく嬉しいんだ」
そう向日葵のように華やいだ笑みを浮かべるルトに、カケルはゴクリと生唾を飲み干した。
何これヤバい。可愛い。めちゃくちゃ可愛い。可愛さのあまりお持ち帰りしたくなるほどだ。これが魔王の笑顔の底力か……!
何だか日増しにルトの萌えっぷりがはぐれた金属を倒した並みにレベルアップしていっているように見えるのは気のせいなのだろうか。最初期はあれだけカケルに対してツンツンしていたというのに。そのあまりの変わり様に『これがデレ期か……』とカケルは心の中で思わずゲンドウポーズを取った。
と言うか、いつまでこうして手を握られていればいいのだろう。緊張のし過ぎで汗ばんきているし、そろそろ離してくれないと羞恥の度を越えて発狂しかねない精神状態なのだが。
何にしても、これはよろしくない。どげんかせんといかん。どげんかせんと!
「あ、あのさ魔王。そ、そろそろ仕事に行かなくていいのか?」
顔がとてつもなく熱くなっているのを自覚しつつ、カケルはたどたどしくなりながらもそうルトに問い掛けた。
「そ、それもそうだな。あまり長居するのも良くないし」
そう言って、名残惜しそうにカケルの肌を少しばかり撫でた後、ようやくルトは両手を離した。若干寂しげに微笑を浮かべていたのを見て心が痛んだが、しかしずっとこのままでいると言うわけにもいくまい。何であれ、これでこの気まずい状況からもどうにか脱却できそうだ。
「それではカケル。くれぐれも安静にしておくのだぞ?」
「おう。お前もあんまり無理すんなよ」
椅子から立ち上がってそう声を掛けるルトに、カケルは首肯して言葉を返す。
そうして別れの挨拶を交わし、踵を返そうとした所で──
ピタッと何を思ったのか、背中を向けたままの姿勢でルトは動きを止めた。
「……魔王? どうしたん──」
だ、と言い終わる前に。
振り向き様に勢い良く接近したルトの唇が、唐突にカケルの口を塞いだ。
驚愕のあまり声を上げる事すら忘却し、呆然と為されるがままにされるカケル。
熱い唇の感触。互いの吐息が重ねた唇の隙間から漏れ出て肌をくすぶる。視界はルトの顔に埋め尽くされ、鼻腔はルトの甘い香りを攫い、触覚はただ一点にルトの唇の柔く滑らかな感触だけを拾っていた。
ややあって、ルトはゆっくりとカケルから離れ、真っ赤に染めた顔を伏せて押し黙った。時間にしてみれば数秒程度の軽い口付け。そんな一瞬にも似た行為に、カケルは以前硬直したままルトだけを見つめていた。
「えっと、そにょ、あにょ、い──いってきまひゅ……ッ!!」
「……アッハイ。オタッシャデー」
噛み噛みで言うや否や、脱兎のごとく戸を乱暴に開けて退室して行ったルトに、カケルはカタコトになりながら手を振って見送った。
バタバタと忙しなく廊下を駆ける足音が聞こえる。きっと今頃、恥ずかしさのあまり顔を隠して全力疾走している事だろう。そんなルトの羞恥に悶える姿が目に浮かぶようだ。
次第に遠ざかっていく足音に耳を傾けつつ、カケルは自身の唇へとそっと手を当てた。
昨日を含めれば二度目となる口付けなのに、胸だけはこれが初めてと言わんばかりに強く脈打っていた。むしろ昨日に比べれば幾分ソフトだったはずなのに。この分だと慣れるのに相当時間を要しそうである。
突然の接吻に驚いてしまったが、きっとルトは恋人さながらに、行ってきますのキスをしたかったのだろう。相変わらず、ウブなくせに大胆な真似をする少女だ。
「…………恋人、か」
昨日の一件で、ルトが完全にこちらの事を恋人扱いしているのは明白だ。あれだけ熱い胸の内を明けて、そうして念願叶って体を重ねられたのだから、そう考えてしまうのも無理はない。
だが。
だがしかし、それは──……。
「………………」
無言で口に手を添えたまま、カケルは物憂げに表情を影らせた。
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