第6話 病室にて
ふわふわと雲と一緒に空を漂っているかのような、どこか気持ち良さを覚える感触が四肢に広がる。この何とも抗い難い誘惑に、もはや起き上がる事すらも忘却してしまったかのように、全身に力が入らない。
そんな心地良い微睡みの中で、不意に何かの薬品めいた、少しキツめの匂いが鼻を突いた。
この匂いをカケルはよく知っている。どこか懐古心をくすぐる香り──これはカケルが幼少の頃、よく怪我や病気をした際に、母に手を引かれて行った病院の匂いと一緒だ。この消毒液やら湿布やらで混じった独特な匂い──少し大人になった今でも慣れそうにない。今後も好きになるなんて事、絶対無いだろうけど。
母と言えば、今頃両親と姉は元気にやっているのだろうか。偏頭痛持ちの母は、息子が急にいなくなったせいで一層頭を痛めやしていないだろうか。まあ、母は超の付く楽観主義者だから、大して心配してはいないだろうが。
母や姉には内緒にして無修正AV(やたら女子高生モノが多かった気がする)を収集していた父は、今もせっせとコレクションを増やしているのだろうか。もしもまた実家に帰れる機会があるのなら、以前のように自分も誘ってAV視聴に加えて頂きたい。
恋人募集中だった二つ上の姉は今頃彼氏でも作って、くんずほぐれつギシギシアンアンやっているのだろうか。ああ、久しぶりに姉のパンツを頭から被って、クンカクンカレロレロチュッパチュパしたくなってきた。ちなみに生理中のおぱんちゅだと、
などと思考があさっての方向に行き始めた頃、強い光が閉じた瞼を照らしていた事に、この時になって気が付いた。
眩い光が降り注ぐ中で、カケルは瞼をゆっくりと開ける。
そこには見慣れない白い景色が──もとい知らない天井が広がっていた。眩しいと思っていた光は、どうやらこの世界では割と珍しい方に入る、蛍光灯のモノだったらしい。
ふと頭を横に向けると白い布が──と言うより、カーテンが四隅を覆うように仕切られていた。よく病院などの重病者がカーテンに囲われて治療されている図をドラマでよく目にしたりするが、カケルの置かれた状況がまさにそれだった。
そうすると、自分は病室で寝かされていたという事になるのだろうか。どうにも事態が突然過ぎて、上手く状況が呑め込めない。
兎にも角にも、今は情報が欲しい。そう思い、体を起こそうとして──
「──っっ!!」
と、言葉にもならない激痛が腹部を走った。起こした体を丸めて悶絶しつつ、そのままで体勢で痛みが引くのをぐっと待つ。
しばらくして痛みが引き始めた頃、ふと視界に入った自分の腹部に、白い包帯が背中を通してグルグル巻きにされているのが分かった。その治療が施された自分の体を見て、そういえば、とこうなる前の記憶を掘り出す。
「確かオレ、あの時魔王の爪で腹を貫かれて……」
あの時──ルトの魔法障壁を破り、隙を突いて反撃のチャンスに出たカケルではあったが、ものの見事に返り討ちに合い、無様にも血を垂れ流して床を転がる結果へと至ってしまったのだった。
そうして死を覚悟し、倒れ伏せるカケルの前で号泣する魔王を視界に入れたのを最後に意識が落ちて。目が覚めてみたら、こうしてベッドの上で寝かされていたのだ。
それも、適切な治療を施された上で。
「という事は、誰かが助けてくれたって事なんだろうけど……」
では、その『誰か』というのは誰の事なのか。仮にも敵の根城──魔物がうようよと闊歩している魔王城にいた中で、味方ないし第三者がカケルを救う事など果たして可能なのだろうか。いや、それはどう考えても無理だろう。なんせ魔王城は難攻不落とも呼ばれるほどの、鉄壁の防衛力を誇っている所でもあるのだ。カケルほどの実力者(決して自慢とかではない。ええ決して)ならともかく、そう安々と人が侵入できるとは思えない。第一、味方が来るなんて一切聞いてないし、今までもカケルを助けに来てくれた事などただの一度も無かったのだから。
とは言え、魔物達が自分を助けてくれたと言うのはもっと考え難い。なんせカケルは勇者だ。敵である勇者を助ける魔物なんているはずが無い。
なら、誰がカケルを助けてくれたと言うのだろうか──?
「まあ、助かっただけでもありがたいんだけどもさ……」
正直、あの時はさすがにもうダメだと思っていただけに、こうして生きていられるなどとは露ほども思わなかった。ならば、今はこの生の実感をとくと味わえるだけ僥倖という事にしておこう。そう考える事にして、ひとまず誰が助けてくれたのかという謎は、頭の片隅にでも置いて保留しておく事にする。
さて。
こうして助かったは良いが、結局ここはどこなのだろうか。カケルが今いる所は病室だという事は把握出来ているが、“どこの”の病室までかは相も変わらずさっぱりのままだ。
とりあえず、改めて自分の体を見回す。前に着ていた学生服は脱がされたのか、上半身は腹部に包帯が巻かれただけのほぼ裸の状態。下半身は布団を被っているので視認できないが、一応何かを穿いている感触はある。右腕には点滴だろうか、細長い管を伝って小振りな注射針が刺されていた。
周りを見ると、先ほどと何も変わらない光景──カーテンで四隅を仕切られているのが見て取れる。かろうじてその隙間から、何かしらの薬瓶が並べられた棚が見受けられたが、現在地を知る手掛かりには到底なりそうもなかった。
あと目立ったモノはと言えば、せいぜい自分の足元で腕を組んで枕にしながら、すやすやと寝息を立てている魔王の姿くらいで──
…………魔王?
「MA・O・U!?」
思わず米国人みたいなノリで驚愕しつつ、とっさに枕を盾にガードを固めるカケル。腹を貫かれた事がよっぽど尾を引いているのか、反応が思いっきり負け犬じみていた。
そんなこんなで、つい条件反射でビクビクと防御を図ったカケルではあったが、「あ。そういやコイツ、今寝てるんだった」という事実に改めて気付き、ホッと安堵しつつ枕を置いて魔王をじろじろと観察し始めた。
魔王──もといルトは、簡易椅子に座りながらカケルのいるベッドに半身を預けて眠っていた。よく見るとルトの服装はいつもの軽装鎧ではなく、下はタイトスカートの浅黒い軍服をシワ一つ無くきっちりと身に纏っていた(ちなみに、背中にはちゃんと羽を出す為のスリットが開けられている)。
背中にゴツい羽を生やした美少女の軍服姿──人によっては、さぞハッとしてグッとくるものがあるであろう姿だった。正直、そういったコスプレ趣味の無いカケルも少しヤバいくらいである。
「そもそもコイツ、何でこんな所で寝てんだ……?」
ひょっとして、ちょっと仮眠しようとここに立ち寄ったら、先にカケルが横になっていたので、せめて隅っこでも使わせてもらおうと思い至った結果がこれなのだろうか。なるほど。そういう事もあるあ……ねぇよ!
我ながら下らない推論を立ててしまった。そう思い、頭を振って先ほどまでの思考を打ち消す。
というより、さっきから何も疑問に思わなかったが、コイツは本当に眠っているのだろうか。実は意識があって、カケルが油断を見せたと同時にトドメを──とそこまで考えて、いやそれも無いなと思い直す。もし本当にそのつもりだったのなら、カケルが意識を無くしていた間にさっさと済ましていたはずだ。ならば、やはりルトは本当に眠っているのだろう。
とは思いつつ、やはり気になる。気になった以上は、確かめないと気が済まない。
そんなワケなので。
未だ無防備に可愛らしく寝顔を晒すルトの頬を、ぷにぷにと指をつついてみた。
「おお……」
ルトのむちむちとした弾力のある肌に、無意識下に感嘆の息を漏らすカケル。毛穴一つ無い瑞々しい肌は実に触り心地良く、いつまでもつついていたい衝動に駆られるほどだ。それくらい、カケルはルトの頬をたっぷりねっぷり堪能していた。まあ当の本人は、こうして指でつつかれているにも関わらず、「んぅ……」とか細く吐息を漏らすだけで一向に起きる気配が無いのだが。こうして間近でよく見ると、つくづく背中の羽以外はごく普通の美少女にしか思えない。
そうなのだ。背中の羽さえなければ──いや、そもそも魔王でなければ、ルトはぶっちゃけカケル好みの艶髪美少女ではあるのだ。まあ現在婚約中の姫様の方が数段ストライクゾーンど真ん中のジャイロボールなのではあるが。もしくは大リーグボール1号の方かもしれない。どっちか一つに決めなさい!
などと脳内母ちゃんにお叱りを受けつつ、以前としてルトの頬をつついて満喫していると、
「カケ……ル……」
というルトの呟きが、唐突にカケルの鼓膜を揺るがした。
その声に「あひぃっ!?」と情けない悲鳴を上げて、すぐさまカケルはルトの頬から指を離した。
どんな酷い仕打ちをされるのかと頭から布団を被ってしばらくガクガクブルブル震えていると、
「すぅ、すぅ……」
という静かな寝息が再びルトから聞こえてきた。どうやら、先ほどのは単なる寝言だったらしい。
「何だよ。驚かせやがって……」
はあ〜、と長い溜め息を吐いて、カケルは被っていた布団を取り払う。というか、さっき体を動かしたせいで傷に響いてしまった。あまりの痛さに瞳から涙が滲む。
「にしても、『カケル』か……」
ズキズキ痛む腹部をさすりながら、カケルはふと呟く。
互いに名前を教え合うようになったのは、一体いつ頃の事だっただろうか。確か十回目の時ぐらいに魔王城へと忍び込み──そこで毎度の如くルトにあっさりと負かされ、それからすごすごと帰路に着こうとした際に、
『き、ききき貴様! な、名は何と言うのだ!?』
と妙にテンパりながら、赤面したルトに訊かれたのだったか。その時はルトに負かされて気落ちしていたせいで何も考えず答えてしまったが、まさかこんな形で名前を呼ばれるとは予想だにしなかった。ここはお返しに「ルト」とこちらも魔王に教えてもらった名前を呼ぶべきだろうか。いや、寝ている奴に言っても意味が無いだろう。それ以前に気恥ずかして無理だ。絶対無理。むしろありえない。
「そういえば……」
そういえば、とふと思う。
初めて会った時は無愛想に──むしろ不機嫌そうにカケルを玉座の上から睥睨しているだけだったのに、いつ頃からこんな風に感情を表に出すようになったのだろう。
思い返せば、ルトという名前を初めて聞いたあの時から、だんだんと表情が活き活きとしてきたような──
「おや。ようやく目が覚めたようデスね」
と。
不意にカーテンの向こう側から女性らしき声が、過去の記憶に思いを馳せていたカケルの耳に届いた。
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