その青の向こうへ

たけぞう

1

 メタクリル樹脂の覗き窓の向こうで、水面が空になった。揺れながら迫っていた海も、ハッチの向こうに厳重に切り離された空も、青い理由は同じ。波長の短い青い光のほうが散乱しやすいからだ。無色透明の正体を見せた偽りの空はただ明るくて、青い世界の美しさが少しだけ軽薄に見えた。

「『よこすか』どうぞ、こちら『しんかい』。ベント開、一○二○ひとまるふたまる

「『よこすか』了解」

 通信機の向こうへ、潜航の開始が告げられる。バラストタンクへ注水すると同時、開かれたベント弁から空気が押し出される。そうして水で重くなった船体は、シンタクティックフォームの生み出す浮力に打ち勝って、深い青へ落ちていく。

『しんかい6500』。海洋研究開発機構JAMSTECの保有する世界有数の潜水調査船で、その名の通り六五〇〇メートルの潜航能力を持つ。支援母船である『よこすか』と共に、世界の海へ千回を超える調査航海をしてきたベテラン潜水艇である。搭乗可能人員は三名。たいてい、操縦士・副操縦士と一緒に研究者が同乗する。

「UQCチェック。こちらの感明どうか、どうぞ」

 船長の竹本たけもとが再び無線を取り、通信状態をチェックする。「感明」は感度・明瞭度の略だ。ややあって母船の『よこすか』から返答があり、スピーカから響く。感明良好。深度計を覗き、今の水深を共有する。

 そんなやりとりを、手元のマニュアルとにらめっこしながら聞いていた副操縦士の相島あいじまは、どことなく竹本の声がうわずっているように感じた。それはおそらく、わずか二メートルの内径しかないこの空間を共有するもう一人の女性の存在が関係しているのだろう。

 藤條とうじょうあゆみ。海洋地質学の研究者であり、竹本とは大学時代の友人だという。

「ここも、雪が降ってるのね」

 うずくまるようにして窓外を見ていた籐條が、ぽつりと言った。相島もちらと足下の窓を見やる。

「マリンスノーですね。籐條さん、どちらからいらっしゃったんでしたっけ?」

「昨晩、岩見沢から。大変だったのよ、飛行機が雪で飛ばないかもしれないって言われて」

 疲れを滲ませながら、籐條が笑った。北海道教育大学の助教授である彼女は、キャンパスから直接むつ市に向かったのだろう。

「海の中も、冬なのね」

「ここの雪は、夏のほうが強いですけどね」

 相島が生真面目に言うと、籐條はまた控えめに笑った。柔らかな人だった。ただ、どこか翳のある冷たい印象も拭えなくて、彼女こそ雪のようだと相島は思った。

「相島、そろそろ切り離すぞ」

 竹本の声で、あわててマニュアルをチェックする。毎分四〇メートルで潜航する『しんかい』は、十分で予定深度に達してしまうはずだった。着底する少し手前でウェイトの半分を捨て、浮力とおもりが釣り合うようにトリムを調整する。見かけ上、船の重さがゼロになる。幽霊になった船は、あとは海底までスラスタの力で下降していく。

「主推進、垂直、水平、海水DSオン」

 そう伝達すると、竹本は復唱しながら一つずつスラスタのスイッチを入れた。電動機の唸りが振動として伝わってくる。重力に従った落下ではなく、自らの意志による潜航。雪景色を追い越して、それを見送っていく。緊張した面持ちで窓外を見ていた相島は、それでも、耐圧殻たいあつこくのなかで計器に照らし出される雪に気を取られていた。

 そして、太陽を失った青の底に、津軽海峡の最深部が姿を現す。

「『よこすか』、『しんかい』。着底した、異常なし。深さ三九二さんびゃくきゅうじゅうふた。底質、礫混じり泥。視程、五メーター。水温、五・七ごぽつなな。流向流速、七度方向に秒速五センチ。位置知らせ、どうぞ」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る