第9話 アメリカンビューティーのカクテル言葉
深夜零時半、珍しく常連の二人も来ないし、アルバイトの吟もいないのでマスターは看板にしようかと思っていた頃、一人の女性が入店してきたので、いつも通り微笑で出迎える。女性からコートを預かると、先程まで何処にいたのかある程度予想がつく着衣とメイクの乱れ、そして泣き腫らしたような瞳。長年酒場の主人をしていればこういうお客様も数多く見てきた。
彼女は恐らく本日、一つの恋を終えてきた。
それも禁じられた火遊びだったんだろう。
「いらっしゃいませ。お好きなお席にどうぞ」
「女性のバーテンダーさんなんですね?」
「ふふっ、最近は多いですよ。何を飲まれますか?」
メニューを自然に差し出す。いつもの常連の二人はこのメニューから注文した事は一度もないなと思いながらじっとメニューを食い入るように見る女性を待つ。
「これ以外にも頼めますか?」
「えぇ、何なりとお申し付けください」
「カクテルとかでも?」
「えぇ、お任せください」
微笑のマスターを見つめる女性、微笑のマスターに甘えるような表情を作り、彼女はマスターに一つ注文をした。
それは少しばかり意地悪する気持ちもあったのかもしれない。
「何もかも忘れさせてくれるようなお酒をお願いします」
「ふむ……かしこまりました」
「!!」
マスターは女性のお客様の希望を承った。それには彼女も驚いた。無茶なお願いをしたから無茶な度数のお酒でも出されるのかと身構えていると、マスターはシェイカーを容易した。
女性はこういった場末のバーに来た事は初めてだが、これぞバーという道具の一つに少しばかり興味を持つ。
「それはブランデー?」
「えぇ、ブランデーをベースにしたカクテルになります」
メジャーカップでブランデーを計るとシェイカーに、続いてドライ・ベルモットも同じように、グレナデンシロップ、オレンジジュースもメジャーカップで測り入れ、最後にホワイトミントリキュールを1ダッシュ。
そして氷を取り出すとシェイカーに数個入れて、誰しもが想像しうるバーテンダーのカクテルシェイク。
思ったより派手さはなく、カチャカチャと規則正しく、そして想像より長くシェイクしカクテルグラスにストレーナーを通して注ぐ。
薄い赤のカクテルがグラスを彩っていく。
「わぁ、綺麗な色……」
「ふふふ、まだ完成じゃないんですよ。これを使います」
そう言ってマスターが取り出したのはポートワイン。バースプーンを使ってカクテルグラスにゆっくりとフロートする。
濃い赤と元々の薄い赤の二段のグラデーションを持ったカクテルが完成した。
「お待たせしました。アメリカンビューティーでございます」
「アメリカンビューティーって?」
「アメリカンビューティーはお花の名前で、米国産のバラの一種になります。大きな花びらに大変特徴があり、このカクテルのように深い紅色をしているんです。アメリカンビューティーのカクテルの由来にはバラのように華やかで美しいという意味が込められています。そう、お客様にピッタリですね」
そう言ってウィンクするマスターは「どうぞお試しください」と女性は頷いてカクテルを口にする。見た目だけじゃない、味の方も上品でかつ、そして少し強いお酒だった。
「甘い」
「海外ではお料理に砂糖を使うという概念が今までありませんでした。それ故、甘さを出す時にはポートワインなどを使っていたそうです。日本で言うところのみりんみたいな役割でございますね」
「みりんって! ぷっ! 上品なカクテルがなんだかいきなり庶民的になったわね。マスター、私は何もかも忘れさせてくれるカクテルをお願いしたんだけど、これが何もかも忘れさせてくれるカクテルなの?」
女性はもう来店した時とは違い楽しそうにマスターに次なる意地悪な表情でそう聞くので、マスターは変わらず微笑のまま、
「カクテルにはカクテル言葉という花言葉のようなものがございます」
「へぇ、そうなのね」
「こちらのカクテルの言葉は“恋に溺れて“でございます。今は、お客様はこちらのカクテルに夢中になられているんじゃありませんか? 恋する女性は美しいものです」
面白いマスターだ。一本取られたなと女性は思う。恐らく次も自分は同じような過ちを繰り返しまたこうして泣く未来が容易に想像がつく。そうしたらまたここに来てマスターに慰めてもらおう。
そんな事を思いながら女性は「ごちそうさまでした。タクシー呼んでくださる?」「かしこまりました」表情の変わらないマスターだ。このマスターはどんな恋をするんだろうかと思いながら、次に入店した時にでも聞いてみようと“
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます