第4話 一ノ蔵 発泡清酒 すず音
「マスター! マスター! マスタぁー! もうやめる! もうやらない! 他の職探すぅ」
「はい、マスターです。はて? 美優さんに他に相応しいご職業はありますでしょうか?」
微笑のマスターが唯一、やや他のお客さんや常連客よりも雑に扱う常連客。
要するに地雷系に片足突っ込んでいる俺様系Vtuber“
毒舌俺様系キャラクターに反して中の人はクソ雑魚ナメクジという言葉が板につく、最初の頃はマスターも他のお客さんのように扱っていたが、彼女はやや突き放すくらいじゃないとどんどん依存具合がエスカレートする。
その為、辛辣な物言いで距離を置く事でようやく店主と客という現在の関係に落ち着いた。
それでも結局優しいマスターのいる“Bar Bacchus“に入り浸っているのだ。Vtuberという職業はそんなに稼げるのかマスターには知る由もないが、
「本日もマリブですか?」
トンとラムベースの甘いリキュールの入った白いボトルを取り出すとテーブルに突っ伏している美憂が、聞こえるように独り言を言う。
「シャンパンっておいしくないんだよね……でもリスナーが飲んで飲んでっていうし……もう辞めたい」
ふむと、マスターは考えて手頃な価格のスパークリングワインを並べてみる。それこそ、三千円台のシャンパンから、一千円から一万円内の各種スパークリングワイン。
「これ全部シャンパンなの?」
「全部ではありませんよ。シャンパンもスパークリングワインです。シャンパーニュ地方で作られたスパークリングワインというだけです。何も有名なドンペリーニョだけがシャンパンというわけじゃないんですよ」
「ふーん、マスターのおすすめは? マスターのおすすめがいい」
幼児帰りしたように指を咥えてそう言う美優にマスターは少し考えると、一本のボトルを見せる。
「ニコラ・フィアット セレクション ブリュット。こちらは比較的安価で購入できてかつ飲みやすいシャンパンです。今は少し高くなりましたがそれでも5000円程で購入できますよ」
「安いじゃん。じゃあそれちょうだい」
ふふんとマスターは微笑で美優を見つめる。ドキンとした美優は静かにマスターの次の言葉をまった。マスターは美優が欲したそのボトルも片付けた。
代わりにシャンパングラスをそっと美優に差し出す。
「ではひとまずこちらを私の方からご馳走させていただきます」
「いい香り、飲んでいいの?」
「えぇ、どうぞ。吟さんもどうお」
「はい」
「いただきまーす!」
美優がシャンパングラスを掲げてそれを口に運ぶ。ワインの類が苦手な美優が恐る恐る味わっていると目が大きく開く。それにマスターはこのチョイスは成功だったなと微笑のまま頷いた。吟も一口飲んで美味しいと声にする。
「マスター! 美味しい! これ美味しいよ! マスター! マスターたあぁあ!」
「はいマスターです」
「これなら配信中も飲めるし! これなんてお酒なの?」
マスターが取り出したそれはグリーンの綺麗なボトル……だが、どう見てもシャンパンでもスパークリングワインでもなさそう。
何故なら日本語がラベルに書かれている。
「すず音? 何これ日本のワインなの? ねぇねぇ! マスターぁ!」
「美優さん、こちらはスパークリング清酒。日本酒になります。そして今回お選びしたお酒は宮城県の一ノ蔵 発泡清酒 すず音です。こちらのお酒は、シャンパンと同じ瓶内のニ次発酵という手法を取られたスパークリング清酒となります。これらの先駆けといえば恐らくスパークリング清酒の澪が有名かと思いますが、このすず音がパイオニアなんですよ! 美優さんの声を当てられている方のイメージに合わせてみました」
「マスター! 私の為に選んでくれたの? しゅきぃ!」
「はい、恐縮です。ですが、カウンターに入ってこないでください。なぜ鈴音というお名前か、気になりませんか?」
美優は今までお酒の名前なんてメーカーが適当に決めているんだろうくらいでしか考えた事がなかった。だがマスターが教えてくれるというので美優はマスターの顔をじっと見つめながら「気になる!」と言うのでマスターは蘊蓄を続ける。
「このお酒は濁り酒になりますなので開栓する前にゆっくりと何度か瓶を逆さにしてあげてから開栓してあげてください。一本あたりの価格は1000円しませんが、その他スパークリングワインよりデリケートなお酒になります。優しく扱ってあげてくださいね」
よくワインクーラで冷やされたすず音を取り出すとタオルで水気を取りマスターは開栓する。
そして、美優のシャンパングラスにそれを注ぐと、
チリチリ、チリン。
きめ細かい炭酸の弾ける音がなんとも上品に鈴を転がしたような音が鳴る。飲んで楽しめ、見て楽しめ、聴いても楽しめる。Vtuberとして働いている美優によく合うというのはこの事を言っていたんだろう。
「こんなお酒いつ発売したのぉ! もっとはやく教えてよー! マスタぁー!」
「随分前に発売はされてますし、なんなら女性向けファッション雑誌なんかでも度々紹介されていたようですよ。日本酒が苦手な方にもスパークリングワインが苦手な方にも飲めるという事で」
美優はマスターの見つめながらすず音を飲んだ。アルコール感がほとんどなく飲みやすいそれを三本、さらにもう一本。
「マスターもういっぽん」
「美優さん、流石に飲み過ぎですよ。今日は帰りましょう? タクシーをお呼びします」
「ヤダァ! 帰らない、私もマスターみたいにバーで働くぅ!」
ハァとマスターはため息をつくと、
「美優さん、カクテルの種類メジャーなものだけでざっと300種類程あります。アレンジやどんどん生み出される物を含めると一万、二万は超えてくるでしょう。それらを注文されてすぐに作れますか?」
「……うっ、べ、勉強するから」
「私も日々勉強です。ですが全く苦じゃないです。私はお酒を愛してますから、美優さんにそのお気持ちはありますか? 当店に来ていただいて楽しくお酒を飲んでくださる事は私は大変幸せですが、皆様の幸せを作るのに苦労がないわけではありません。普段よく泣かれている美優さんにそれができますか?」
「……できない……かも」
「私も美優さんの行われているお仕事はできる気がしません。ですから美優さんの事は尊敬してるんですよ! 画面の前で甘く囁く酒呑くんはカッコいいです。それが美優さんの天職だと私は思いますが」
さて、どうだろうかとマスターは美優の反応を見ると、耳の辺りまで真っ赤になりながら嬉しそうに、
「そう? そうかなぁ? えへへ、じゃああとちょっとだけしようかなぁ、ねぇマスター今日は泊めて……」
「タクシーが来たようです。お店のお外まで連れ添います」
「ヤァダァ!」
駄々をこねる美優をタクシーに乗せて、店に戻るマスター。今日は看板かなと思ったが、背広をしっかりと来たサラリーマン風の男性が店の前に、
「もう終わりですか?」
「いえ、常連のお客様のお見送りをしておりました。どうぞ店内へ。
「はーい! こちらのお席へどうぞ」
とりあえずホワイトホースの水割りを頼むその男性。彼の仕事の愚痴を聞き、マスターおすすめのシングルモルトウィスキーを所望されたのでさて何をご案内しようかと“Bar Bacchus“のリカーラックを眺める。
騒がしい店内が落ち着きを取り戻し、ゆっくりと今日もいい夜が始まる。
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