第2話 リンデマンス・グーズ(ランビックビール)

 バーという場所にくると時折、お酒の知識を語りたくなる人が出てくる。

 本日のBar Bacchusは三十代半ばの男性と恐らくは水商売の同伴相手であろう二十代前半の女性二人組が店内で少々やかましい。


「ビールにはエールとラガーがあってそれぞれ特徴が違うんだ」

「えー! どう違うのぉお?」

「エールは酵母が浮き上がって上面発酵で作られて比較的高い温度で短期間で発酵させるから泡立ちにくいんだ。逆にラガーは酵母を沈めて下で発酵する下面発酵だから低温かつ長期間かけて発酵させるから雑菌がわきにくいんだ。で日本のビールはラガーでピルスナータイプが多い。そうですよねマスター?」

「えぇ、仰る通りです」


 いつも微笑のマスターは聞き上手である。

 そう、このバー・バッカスで働きだしたうたはいつも思っていた。こう言った知識をひけらかしたい人は良く来るし、多少間違っていてもマスターは指摘しない。それも含めて気持ち良く飲める空間を提供しているのだなと。


「まぁ、俺程ビールに詳しい奴もここいらじゃいないんじゃないかな?」

「すっごーいー!」


 明るく染めた髪を巻いた派手な女性はそう大げさに言って男性の自尊心を煽る。時折その女性がマスターに笑いかけるので、マスターも上品に会釈。おそらく職種は違えど二人の中では客を喜ばせるスペシャリストである分何かを分かち合っているのかもしれない。

 そんな風に今日も一人のお客さんが気持ちよく帰れるところだったのだが、シュポっと海外のタバコに火をつけて離れた特等席に座るアジアンビューティー、中華系だという常連のシユウさん。


 うたもはじめて見た時、モデルさんか何かだと思っていたが、職種不明でよくこの店に入り浸っている。彼女はマスターに勝るとも劣らないお酒好きでその知識も広い。基本、バーの秩序を乱すような事をしない彼女がこうして存在を主張したのに、マスターはヤレヤレと言う表情をする。


「マスター、ビールを貰おうかな、リンデマンス・グーズあったっけ?」

「えぇ、すぐにお出ししますね」

「昨日、大きな仕事をこなしたんだ。マスターにうたさんと、そちらのお客さんお二人にも同じ物を」

「かしこまりました。うたさん、せっかくでのすので頂きましょう」


 うたは仕事なのに平然と飲ましてくれるこのお店、ヤベェなと思いながら節度ある量であればお客さんからご馳走したもらえるお酒、あるいはマスターがサービスで出すお酒をいただく事もある。人数分のチューリップグラスが用意され、常温より少し冷えた瓶のビールをとくとくと注いでくれる。


「すみませんねぇ、うん。香りは……あまり感じないビールだ」

「えーじさん、このビールはエールなの? ラガーなの?」

「うーん、飲んでみないとなんともだな」


 そう言うえーじと呼ばれた男性にシユウさんは「みんな、好きやってくれ。乾杯」と、そう言ってグラスを掲げる。うたはこのシユウさんは女子にモテそうだなと思いながらご馳走してもらったビールを一口飲む。


「んんん!」


 それはうただけじゃなく、えーじと呼ばれた男性も水商売の女性もまた同じ感想を感じたのだろう。

 なんだこのビール? という感想。


「これは口当たりとかはエールっぽいけどこの強烈な泡立ち、ラガービールだな! ですよねマスター?」


 マスターはグラスに口をつけて、そのビールを楽しみ、そのグラスをゆっくりと置いて答えようとしたが、先にシユウさんが言った。


「違う。ランビックビールだ。ビールは大きく分けてラガー、エール、ランビックの三つがある」

「ランビック?」


 スマホを取り出そうとしたえーじという男性を「待て」と制止して、シユウさんは「それもいいが、マスターにご高説いただこうじゃないか」と言うのでマスターがコホンと咳払いして。


「まずビールの歴史について簡単にお話しましょう。ビールはいつ頃から存在していたと思いますか?」

「3000年くらい前ですか?」


 とうたが聞いてみると、マスターは微笑のまま。


「確実なのは紀元前4000年程前。可能性としては紀元前8000年程前の6000年から1万年前には存在していたとされます。ワインも同時期、そしてビールより少し歴史が古いと言われているので、ビールが紀元前4000年、ワインが紀元前6000年くらいに考えてよいでしょう。そしてこの最古のビールはエールに近い物だったと思われます。そしてこのランビックビールはおおよそ現在より500年程前のベルギーで醸造されている伝統的なビールになります」


 4000年前だ6000年前だと言われたら、500年前、ここにいる皆からしても神話の時代にも思えるような時の流れですら若く感じる。


「はいはーい! マスターさん、何がちがうんですかー?」


 水商売の女性がいいところで合いの手を入れる。

 それにマスターは微笑で答えた。


「エールの上面発酵、ラガーの下面発酵に対して、ランビックは自然発酵となります。一番の特徴はここでして、空気中に浮遊している自然酵母や微生物を利用して発酵させます。普段私達が身近に感じているビールや少しご褒美にと選ぶクラフトビールでも基本は培養した酵母を使って発酵させる為、ランビックはビール界の異端児と言っても過言ではないですね。続いての特徴はこの製法であるから苦いイメージのビールに対して、こちらは強烈な酸味、そしてホップではない独特の香りですね。今回、シユウさんが選んだこのリンデマンス・グーズはシャンパンカクテルを連想させるランビックビールです。どうぞ今一度お楽しみください」


 うたは一度、マスターにとってお酒とは何かと聞いた事がある。彼女は即答した。

“恋人みたいなものですね”と、今もマスターは自慢の彼氏、あるいは彼女の話でもするように、そして決して教えてあげているという傲慢さはない。お酒にも聞き手にもリスペクトの心を忘れない。


「なんだかビールの事知った気になって、恥ずかしいな……ははっ」

「そんな事ありませんよお客様」

「えっ?」

「シユウさんは少し意地悪でしたね。ビールは大きくわけると、お客様が仰った通り、エールとラガーです。そしてこのランビックも別種のビールとして存在しているという感じです。ラガーとエールに関してのお客様の愛は伝わりました。是非、ランビックも今後お試しください。当店に揃っていないお酒はありませんので、いつでもご希望の銘柄をお出ししますよ?」

「えぇー。やったじゃん! えーじさん、亜美もまた飲みたいなぁー!」


 水商売の女性、亜美は最後にマスターのフォロー、マスターはそれに少し驚いてから再び微笑。

 その日、少しだけにぎやかなバーバッカスの夜はふけていく。

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