第8話
八月の終わりごろの月曜日、その子は予告なく学校を休んだ。
なんとなく不穏な空気がクラスに流れたのは、その子がそれまで学校を休んだことがない子だったから。
突然の休みの理由は結局、その子の家で腸管出血性大腸菌感染症が蔓延したからだった。
彼と彼の両親は、検便で陰性化が確認されるまでの約一週間、世間から隔離されることになった。
激しい腹痛、発熱、下痢、嘔吐、血便、悪寒等々、O157の症状は本当に人を苦しめる。
彼の家族は発症の数日前、近所の焼き肉屋に行っていたから、そこで食べたものが原因に違いなかった。
O157で彼の家族が苦しんでいるしばらくの間、私はシャンティの世話を引き受けることになった。
そのころから町の人達の私に対する目が変わり始めた。私は明らかに近所や学校の友達から避けられ、噂をされ、会話が続かなくなり、休み時間のバレーボールにも誘われなくなっていった。
私にはわかっていた。ほとんど撲滅されたはずのO157と、装置の普及と共に急速に数を減らしていたペットとしての犬。みんながはそれらを誤った形でリンクさせていたの。
みんながシャンティと病原菌を関連させて噂するのを何度も耳にしたことがある。でもシャンティは綺麗好きで自分の生活空間を決して自分のウンチで汚したりなんかしないし、そのことは私が一番よく分かっている。だからこそ、根拠のない偏見でシャンティや私のことを避けるみんなが許せなかった。
だから私は行動した。まだ彼の家がO157から抜けきらないうちに、私はシャンティの大好物だった犬用サラミを持って、シャンティを小屋から連れ出し、クラスメイトの家のインターホンを一軒一軒回って押していった。玄関に出たご両親たちは私がだっこしているシャンティの姿を見るとみんな急に顔色を変えた。だから私は自分の靴を素早く玄関ドアにねじこんでドアを閉められないようにした。ご両親たちにシャンティの姿を見せてきちんと伝えるために。彼の家のO157の原因はこの子じゃありません。O157は犬の唾液が原因で起こる感染症じゃないんです。その証拠を今から見せます。
そして私は糸状になった犬用サラミをシャンティによく舐めさせ、それから自分の口に入れてむしゃむしゃ食べた。これで私がO157を発症しなければ、シャンティとO157に何の関係もないことが証明される。
私はその日中に三十八軒の家を回り、クラスメイトのご両親たちに正しい知識を伝えて回った。終わったころにはへろへろだったけど、近いうちに誤解が晴れると思うとほっとした。
翌週中に男の子は学校に復帰し、すぐにみんなの輪の中に戻っていった。私があんなに苦労しても変えられなかったみんなの気持ちを、彼は冗談っぽい笑いとほんの二言三言の言葉だけで覆してしまって、あとに残ったのは私とシャンティに対する差別だけだった。
その日以降、私は変人のレッテルを張られ、そのまま最後までクラスのどのグループにも入れてもらえなかった。
それからしばらく経った頃、シャンティは彼の両親が偏見を恐れたせいで飼いきれなくなって、私のところに引き取られることになった。
お父さんはシャンティと私のためにペット禁止のマンションから小さな庭付きの一軒家に引っ越してくれた。近所の人にはそんな父も、同じように変人扱いされていたけれど」
話し終わると彼女は僕の名前を聞いた。
「雅村明」
僕は自分の名を答えた。研究所の人達に与えられた名前だ。
「佐野歩美」
そのあと彼女も、この世界に対してあまりに冒涜的な彼女の名を教えてくれた。
4
その日僕はTシャツの下に黒いランニング用のハーフパンツを掃いて、十七時の太郎の散歩に出発した。
歩美より早くあの斜張橋の下にたどり着き、一人で橋脚の土台に座って川の水面を見つめていた。川は不健康なほどゆっくり流れ、ところどころで淀んでいる。
歩美のことを考えていた。彼女の過去、均整の取れた脚部の筋肉……
すると突然、河原の石を嗅ぐのに忙しくしていた太郎のリードが強く引っ張られ、僕はいつの間にか陥っていた浅い眠りの世界から覚めていた。
気づくと僕の足元には歩美が立っていて、僕の脚部に細くて白い指を伸ばしている。
まるで夢の続きのようだった。慌てて口を開きかけたが、彼女は左手の人差し指を口に当てて、簡単にそれを押しとどめる。細い指が僕の大腿部に伸びていく。彼女が僕の膝頭に触れ、その柔らかい両手が僕の鼠径部に向かってゆっくりとスライドする。電流に打たれたような甘い感覚が全身を走り、それが小さな声になって思わず迸りそうになる。その強烈な衝動を防ぐため、僕は慌てて前屈みになった。僕の手がナイロン生地越しに彼女のひんやりした手に触れる。その手は僕の脚の付け根のあたりで止まっている。初めて自分の激しい鼓動や息遣いを意識した。彼女が何を考えているのか全くわからない。だが彼女の繊細な手が潮の引くようにゆっくりと来た道を引き返していくと、僕の口から思わず嘆息が漏れた。ひんやりした二つの手はするりと僕の脚から完全に離れてしまう。
そのあと彼女は涙目になっている僕へ無邪気に笑いかけて言ったのだった。
「ねぇ明君。競歩って知ってる?」
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