第7話

 段ボールに入れられて、色褪せた茶色のバスタオルにくるまれていた生後数週間のシャンティ。中学生だった私たちは、当然そのかわいそうな命を救おうとしたの。


 イズミヤの店長は、従業員の一人一人に、子犬を家に引き取ってくれる人がいないか尋ねてくれた。


 でも結局誰も引き取り手は見つからなかった。私たちは幼かったけど、引き取り手のいないペットは一箇所に集められてガスで窒息死させられることくらいは知っていた。話し合いの結果、シャンティは私たちのグループのうちの一人の男の子の家に引き取られることになった。


 その男の子は口数こそ少ないけどクラスの誰より運動ができて、気づくといつもみんなの中心にいるような不思議な子だった。


 その子の家は私のマンションのすぐ近くにあったから、私の家のベランダからその家の庭が見えた。


 私は学校から帰るとすぐにベランダに出て、日が暮れるまでその庭を眺めていた。私があシャンティのことばかりその子に聞くから、そのうち彼と一日交替でシャンティの散歩に行くきまりができた。


 私は散歩道から帰ってくるといつも、彼の家の庭の隅にしゃがんで、シャンティにたくさんの話をした。シャンティは何も語らなかったけど、その大きな黒い目の動きがたくさんの感情を私に伝えてくれた。


 私はシャンティにアリの巣を見せるのが好きだった。生まれて間もないシャンティのような存在には、アリの巣のような生物の集住形態を観察させることが、生育上いいだろうという気がしたの。


 シャンティの隣にしゃがんで何時間もアリが活動を行っている様を見ていた。私が模範になることでシャンティの興味を触発しようと思ったから。でも長い間そうしているうちに、私自身アリの生態に詳しくなってきて、しまいには愛着すら芽生え出した。


 私はときどきシャンティのことを忘れてアリたちの活動を観察することに没頭した。触覚で情報を伝達し、隊列を組み、餌に群がり、何でも巣の中に引き摺り込んでいく働きアリたち。アリたちが引き摺り込む対象は様々で、蜜、花粉、イネ科の雑草の種、米粒、ヤクルトの蓋、シロダモの実、セミの抜け殻、バッタの脚まであった、


 頭部の発達した兵隊アリはその周りをいつも監視するように徘徊していた。


 それでも私はときどき自分の義務に立ち返って、横目でシャンティの様子を窺うことを忘れなかった。そんなときいつもシャンティは相変わらず大人しくおすわりしながら、アリの行列に真っ直ぐな視線を注いでいたの。

 

 ああやって二日に一度、私と一緒にアリの巣をじっと観察していた時間は今のシャンティのものの感じ方の一部を形作っているのかな。

 そうだったらいいなと思う。


 でもアリの巣は結局、私が家に住む無口な男の子にそのことを話したせいでなくなってしまった。

 

 その子は私のアリに関する話を聞いた後、中腰でアリの巣の入り口を十秒ほど見つめていたけど、そのあと無言で家に入り、十分後にもうもうと湯気を立てるやかんと鍋を持って庭に戻ってきた。


 そのやかんの注ぎ口から熱湯を巣穴の中へと移し替えるその子のスムーズな動きを私は今でも夢に見る。


 私はパニックになった。いきなりそんなことが始まるなんて全く予想もしていなかったから。

 まず初めに思ったのはここからシャンティを遠ざけないとということだった。こんな残酷な光景はシャンティの発育に悪影響を及ぼしかねない。


 私は鎖を引っ張って、シャンティをアリの巣から遠ざけようとした。でもシャンティは動かなかった。それは、散歩のあといつも男の子が運んでくれる餌を期待して、一早くゴハンを食べるためには男の子のそばから離れるべきではないと判断したからだったのかもしれない。

 

 でも私は、シャンティはそんな短絡的な考え方をする犬じゃないと思う。あの時もきっとシャンティなりに、殺されていくアリをしっかりと見据えなければならない、心理的な理由を見出していたんだと思う。


 私は熱湯を巣に注ぎ込む男の子の体を揺さぶり、その行為をやめさせようとした。『なんでそんな酷いことするの。シャンティも見てるんだよ……』でも男の子は熱湯を注ぐのをやめなかった。『俺の家の庭のアリを退治して何が悪い』そう言いながら。私はそれに言い返せなくて、涙がこぼれて止まらなくなった。その子は目を見開いていて、熱湯を飲み込む暗い巣穴の入り口だけを見つめて言った。


『アリは巣に水を流し込んだだけじゃ死なない。アリの巣は縦の長い穴から何本も支線が枝分かれして、植物の根っこのような構造になっている。だから普通の水を流しただけじゃアリは溺れない。それに対抗するためには巣の中に熱湯の蒸気を充満させてその熱でアリたちを駆除する必要がある。だから水じゃなく熱湯を注ぎ入れるんだ』


『なんで殺す必要があるの?』私は泣きながら聞いた。その子は巣に熱湯を注ぐ手をとめないまま、私の目を覗き込んで言った。『自分の庭にアリの巣があったら気持ち悪いだろ。普通に』……


 八月の終わりごろの月曜日、その子は予告なく学校を休んだ。

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