第6話
それは夕方のことだった。
僕と太郎はいつものように、遠くに街を眺めながら高い堤防の上を進んでいた。
散歩コースの中ほどで、橋長千メートルもの斜張橋が河の対岸に向かって伸びているところがある。その陰に入った僕と太郎は、橋の下を通って再び西日に身を晒した。
彼女とその愛犬はその夕暮れの陽光と共に僕たちの視界に飛び込んできたのだった。
橋の始まりに向かって高くなった堤防の斜面に立ち、薄いマキシワンピースの裾を靡かせながら遠くの街を見つめている彼女。肩から下げたストローバッグ、淡いベージュのジュートサンダル。
そんな服装でどうやって走るつもりなのだろう。僕にそんな心配をさせるほど、彼女の服装は、明らかにこの現代から乖離していて、それでいて綺麗だった。
「都会がどんどん過ごしにくくなるのも当然だよね。あんなに分厚いクッションで街中覆っているんだもん」
彼女は遠くの街を見つめながら言った。現実から気球のように浮遊する人。僕の庭の前の公道を走るどの女子大生とも違っている。彼女の太腿にはあの走行能力強化装置すらついていない。
「ゥンワヴ」
と不意に甘えた声がした。
次の瞬間には太郎が走り出していた。彼女は小ぶりな柴犬を連れていたのだ。リードの先に繋がれた小柄なメスの柴犬。
柴犬の彼女がおすわりをしたまま、血相を変えて自分に突進しようとするオスの柴犬のことを呑気に見つめていられたのは、僕が突進する太郎をとっさに止めようとセグウェイの上で息を荒げて綱引きをしていたからだ。
セグウェイに乗ったまま何かを引っ張ることはとても難しい。ましてや犬のような動きを予測できないものを引っ張るときはなおさらだ。気づくと僕はまるで白洲に引き立てられる罪人のように彼女の下まで引きずられていた。
そのときだった。都市の暖気を乗せた夕方の陸風が、川の上手から強く吹き抜けてきた。谷のように窪んだ河川敷の地形によって、風は上方へ舞い上がる。彼女はリードを持っていない方の手でワンピースの裾を押さえた。風が彼女のワンピースを下からふわりと持ち上げる。
僕は忘れない。彼女のワンピースの裾の中。発達した大腿四頭筋と内転筋群、及び腓腹筋とヒラメ筋からなる、彼女の脚部の芸術的な均整がそこにあった。
ワンピースが元の通り下りてきてそれを隠し、運命的な風は、ここからは見えない海の方へと吹き抜けていく。僕の横には足で空を漕ぎながら、性器を勃起させている太郎がいた。バランスを崩した僕はいつの間にか道に尻餅をついていた。
「元気なワンちゃんだね」
彼女が微笑む。
それが彼女と僕の初めての出会いだった。
都市が郊外に伸ばす長い腕のような、あの斜張橋の麓で、僕と彼女は度々出会うようになった。彼女は僕の家から十六キロメートルほど離れた小高い山にある大学に通う大学生で、今は夏季休暇の最中だった。
僕と彼女は犬の話をした。
斜張橋の橋脚の根元の土台に並んで腰を下ろし、その間、彼女の愛犬のシャンティは宙にぶらさがる重さ十二キロの僕のセグウェイを珍しそうに頻りに嗅いでいた。
シャンティは利口で、リードを離しても逃げていかないので、彼女はいつも河原で自由に遊ばせる。一方の太郎はどうしても発情してシャンティに覆い被さろうとするので、近くのフェンスに繋いでおいた。
本当は彼女の脚について話したかったがそれは難しい。とはいえ僕も犬のことについて話すことは吝かではなかったからその話をした。
「柴犬は犬の中でも特別人懐っこい犬種なんだ。昔見たテレビ番組で言ってた。太郎はその中でも特別人懐っこい性格だと思う。散歩をしているといつも見知らぬ人に尻尾を振って肛門の匂いを嗅ごうとするから。肛門の分泌液を嗅ぐことで相手を識別して、友達になろうとするらしい。でも世間の人はみんな犬が嫌いだから太郎はいつも嫌な顔をされる。穏健な人は肛門を太郎から遠ざけてさっさと走り去っていくし、酷い人は太郎に狂犬病だとかQ熱だとかトキソプラズマを移されると言って暴言を吐く。僕はそんな光景を見るたびに、ただ友達が欲しいだけの太郎のことを思って胸が苦しくなる。いつか太郎がみんなと友達になれるような世の中になればいいと思う」
「太郎はとっても社交的な犬なんだね」
彼女が太郎を見る目はとても穏やかで優しい。
「シャンティはとても大人しい子なの」
名前を呼ばれたと思ったシャンティは、彼女の横にぴょんと飛び乗ってくる。彼女はその丸いふさふさの巨大なエビフライみたいな背をゆっくりと撫で下した。まるでそこに付着した細かな光の粒子を手で払っているかのように。
そして彼女はシャンティとの出会いを語りはじめる。
「私がシャンティと出会ったのは、私がまだ小学生の頃だった。私はその頃、神戸市東灘区御影山手のマンションに住んでいて、近所の友だち、男女六人組グループでよく遊んでいた。御影山手は坂の町で、私のマンションは坂の上の方にあったから、見渡せばたくさんの人の生活が見えて、不安な時でもどこか安心する。そんな町だった。
その日、私は仲良しグループ六人と自転車で三宮のラウンドワンに行った。夕方にスポッチャを出て、帰りに御影駅近くのイズミヤに寄った。その駐車場の隅、自転車が大量に投棄されているところの奥の、従業員の通用口のすぐそばにシャンティは捨てられていた……
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