第9話
その翌日、僕はバスに揺られ、知らない郊外を走っていた。
バスは、出発した町を後ろに残し、整備された山道へと入っていった。乗っているのは、老人ばかりだ。若ければこの程度の道、自分で走っていくだろう。
僕はバスが好きだった。窓から知らない町や景色をのんびり眺めているだけで、車両は目的地に進んでいく。景色に集中するおかげで、昨日から僕を支配しているもやもやした感情から気を逸らすことができた。
車内に機械音声のアナウンスが響く。僕の周りにはもう誰も乗客がいない。緊張しながらバスの降車ボタンを押した。車内に電子ベルの音が響き、嬉しくなる。前からこのボタンを押してみたかったのだ。
「待ってたよ、雅村明君。僕は理工学部四年、公立大学競歩部副キャプテンの阿弥田誠だ」
そう言ってあらわれた阿弥田は、バスを降りた僕に笑いかけた。
短髪でスポーティーな眼鏡をかけた身長一七五センチくらいの男で、脚には青い走行能力強化装置をつけている。
「そしてこちらが君の飼い犬の太郎だ」
阿弥田がそう言って指し示した先に、植え込みに頭を突っ込んでいる太郎がいたので、僕は驚かされた。
「太郎! なんでお前こんなところにいるんだ」
太郎は平然とした顔で僕を見上げると、フンと一つ鼻を鳴らした。首輪から引き摺って来たらしいリードが垂れている。阿弥田は笑って、
「君が来る一本前のバスに乗ってきたんだ。すごく賢い犬なんだな」
もちろん僕も太郎が賢い犬だということは知っているが、無断で犬小屋から脱出し、僕の乗るバスの一本前に乗って、目的地で先回りをするようなことができるとは思っていなかった。
そのあと僕と太郎は阿弥田のあとについて大学のキャンパスを歩き始めた。
「君のことは歩美から聞いてるよ。今時柴犬を飼ってて、今まで一度もバスに乗ったことがなくて、生まれてからずっとセグウェイの上で生活してる人だって。僕は変わってる人大好きなんだ。自分がいたって普通の人間だからね。実際会ってみると歩美が君のことをあんなに熱っぽく話していた理由がわかるな。スウェットの上からでもわかる。君、めちゃくちゃ大殿筋や大腿四頭筋が発達してるね。腿周りの筋肉は、競歩をやっていく上で体力の土台となる大事な筋肉なんだ。お世辞じゃなく、君才能あると思うよ。もしかすると常時セグウェイで移動することは、歩いたり走ったりすることに比べて、かなり筋肉にとっていい負荷を与えているのかもしれないね」
見たことのないものが沢山目に飛び込んでくる。アスファルトの道路が真っ直ぐ通る大学構内には、信号や横断歩道まであって、まるで一つの町のようだ。
ときおり装置をつけた学生たちがカバンを担いだまま走り去っていく。地上から約三・五メートルの高さまでピンクのクッションが建物を覆い、学生を衝突事故から守っていた。
「きっと太郎はシャンティを追ってここまで来たんだろう。歩美はいつもシャンティと一緒に通学しているからね。歩美はそのエキセントリックさからもちろん大学でも有名人だが、カリスマ性があってクールだから隠れたファンも多いんだ。かくいう僕も歩美の幼馴染にして、そうした信奉者の一人なんだけれどね。高校時代は歩美と付き合っていた時期もあったけど、長くは続かなかった。彼女にとって僕はあまりに平凡すぎたんだ。今は競歩部の部長と副部長という関係に落ち着いているけれど、僕自身、今の関係には結構満足している。僕と彼女の関係としてより自然だし、そのおかげで僕は今でも歩美のそばに居られる。毎日彼女と同じ空気を吸えるだけで僕は幸せなんだ」
しばらくセグウェイを走らせると、やっと敷地の端の方に来た。
阿弥田に連れられて理系学部の講義棟のようなところに入る。上を見上げて目を細めた。吹き抜けになっている建物はまるで巨大なオフィスのようだ。太郎も眩しそうに上を見上げてくしゃみをしている。
「地上の階には講義のための大教室や、小教室、学部事務室、情報処理実習室、それに生体物理学、生体工学、脳波応用工学なんかに関する研究室がずらりと並んでいる。まさに日の目を浴びる学問ってところだね」
阿弥田は斜光に照らされる上階を眺めながら説明すると、僕と太郎をエレベーターに案内し、地下一階のボタンを押した。
ポーン、という電子音がしてエレベーターが地下一階に到着する。
「ここの廊下にあるのが、環境流体工学研究室、原子炉工学室、物理学実験室、地殻環境強度実験室……」
地下の暗い廊下を歩きながら阿弥田がいちいち説明してくれる。いったいどこへ案内されるのだろうか、と思い出した矢先、阿弥田が一つのドアの前で立ち止まった。文字の消えかかったプラスチック板に『ソーラーカープロジェクト室』の文字がある。
「そしてここがひとまずの目的地だ」
と言う阿弥田に僕は素朴な疑問をぶつけた。
「競歩じゃないんですか?」
「まあ、まずは寄り道だ。詳しいことは中で説明するよ」
阿弥田はいたずらっぽく笑ってそう言うと、ドアノブを掴んだ。
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