第3話



 毎日散歩から帰った後、太郎に餌をやる。一つの皿にドッグフードを盛り、もう一つの皿に冷たい水を入れて、太郎の前に置いてやる。太郎が黒い目を濡らして、泣きそうになりながら餌を我慢するのを見ていると、本当にいじらしい気持ちになる。

 

 だが太郎の躾のためにもしばらく『待て』の状態を続けなければならない。太郎の足が震える。今すぐ餌に飛びつきたいところを辛うじて理性で抑え込んでいるのだ。


 僕が「よし」と言うと太郎は我を失い、勢いよく鼻を餌の皿に突っ込んで食べ始める。そんな様子を見ていると、この生物を僕が守ってやらないと、とひしひし思う。


 だが、ある日の朝のニュースで、こんなに可愛い犬たちが数百頭も殺され、十字路に積み上げられている光景を見た。


 殺戮者たちはみなその脚に、最新鋭の走行能力強化装置を装備していた。その装置の黒光りするフレームは、まるで人間の大腿骨のように、運動力学に基づいた緩やかなカーブを描いていた。


 全身黒の制服に包まれた彼らは、夜の闇に紛れ、まるで影のように展開していった。路地から路地へ走り抜け、かつて料亭の名目で多くの風俗店が営業していたその街を、強化プラスチック製のシールドで封鎖。多数の野犬たちを一か所に追い詰めていく。

 

 次の瞬間、画面に映ったのは、ライトの白い光に浮かび上がる数百頭もの野犬の姿だ。T字路に三方から追い詰められた野犬たちの目が、照射されたライトの光を反射し、真っ白に光る。


 直後、一斉に銃弾が発射され、聞こえるのは火薬の音と犬の甲高い断末魔の声だけになる。

 そして映像は次のカットになり、死骸になった犬たちは、いつのまにか十字路の真ん中で物も言わずに燃やされていた。


 朝からどんよりした。こんな胸の痛む映像をニュースで放映するのだろう。


 だがそんな風に犬に同情的な意見を持つのは僕だけなのかもしれなかった。アナウンサーは淡々と今月の野犬の殺処分数を読み上げ、その数字が先月の一・七倍であることに対し、前向きな講評を与えていた。

 現地のリポーターに紹介された野犬対策部隊隊長、山岸顎都は、過去に犬から受けた傷で左目周辺の皮膚が抉れ眼球が充血していて不気味だが、スタジオはそんな彼を始めとする野犬対策部隊の日々の活躍を真面目な顔で賞賛していた。


 ある日、僕が女子大生の太腿を見ようと庭に出ると、僕の家の門から立ち去っていく老婆の土多を見た。門は開け放してあり、門のすぐ近くに太郎の小屋があった。


 気持ちの悪い老婆だ。目的はわからないが、僕たちを嗅ぎまわっている、

 僕は激しく門を閉め、閂をした。


 女子大生の太腿には様々な色があった。茹でたササミ色、五百ワットで二分焼いた食パン色、鮭のムニエル色、魚肉ソーセージ色……中でも僕が好きなのは茹で卵のようにつるつるで白い太ももだ。さらに大殿筋や大腿四頭筋や内転筋が適度に発達していれば、言うことがない。彼女たちがその太腿を躍動させ軽やかに路上を走っていくのを見ると、憧れで胸が苦しくなる。僕もこのセグウェイを破壊して彼女たちの横で太腿を躍動させ、どこまでも一緒に走りたいと思う。


 僕が妄想に浸っていると、犬小屋からバケツの水を地面に流すような音がした。

 近くに行くと、小屋の前に白い吐瀉物があった。

 その前で太郎が石像のように四本足で立って不思議な顔をしている。


「太郎どうした」


 僕が声をかけると、太郎は返事をする代わりに下を向き、まるで人間のように再嘔吐した。


 白い吐瀉物がぴちゃぴちゃと地面にあたって跳ねた。吐き出されたものの中にはいつものドッグフードだけでなく、魚の皮のようなものも混じっている。


 僕は急いでヘルパーさんに電話をかけた。すぐに専属の獣医が太郎のところに駆けつけてくれることになったが、僕の気の動顛は収まらない。

 土多の家に乗り込んだ。土多は狭い庭にかがみこんで雑草を刈っていた。庭には日光が降り注ぎ、様々な雑草が生い茂る植物園のようになっていた。


 果てしなく生い茂る雑草。

 土多はなぜかその一本一本を一々鎌にかけて切断している。


 そんな不合理な刈り方では一生追いつくわけがない。そもそも雑草は根から引き抜かないといけないし、刈るにしてもいくつかまとめて刈った方がはるかに効率的なことは明らかだ。


 無性に腹が立った。


 土多の首根っこを掴んで無理やり立ち上がらせ、近くの土壁に押し当てる。老いた猿のような土多の顔が大写しになる。老婆の体は鳥肌が立つほど軽く、僕は不気味さを紛らわせるために凄んだ。


「太郎に何を食わせた」


 両手で土多の胸倉を掴む。鎌が地面に落ち、セグウェイに轢かれてカラカラと音を立てる。老婆はつま先立ちのままもがき、必死に僕を押しのけようとするが、針金のように細い上腕三頭筋や、鶏ほどしかない大胸筋では無理な試みだった。力で勝てないと悟ると老婆はアニメのような醜悪な声で喚きだした。


「犬に毒食わして何が悪いねん! 犬なんか毎日国が何百匹も殺しとるやんけ! 一匹くらい余計に殺して何が悪いねん!」 


 怒鳴るたびに老婆の顔中の無数の皺が収縮する。吐き気がし、僕は老婆のブラウスをひねりあげて壁に押し付けた。老婆が壁にたたきつけられ、呻き声をあげる。しかし老婆は喚くのをやめない。


「あんなんがおるから老人は皆いじめられんねん! お前があんな糞犬飼うせいで、老人共は皆気違いや言われんねん!」


 僕は土多の独善的な言い草に激しい怒りを覚えた。


 どんな理由があろうと罪のない生き物の命を奪ってはいけない、他人の範囲にあるものに無許可で危害を加えはいけない、問題について話し合うことももせずにいきなり行動に訴えるなんて常識がない、そんなことを唾を飛ばしながら口走った。


 だが実のところそういう言葉は自分の実感から出たものとは程遠く、僕はただ目の前の老婆に対して危害を加えたくて、思い切り怒鳴るのに適した言葉をどこかから借りてきただけのようだった。


 土多の乾いた皮膚の上でぶよぶよ動く法令線やマリオネットライン、ゴルゴライン、上唇や目尻や眉間や額の皺、数千に及ぶ名前の無い皺が、迷路のように入り組んで、細かく振動している。


 使い込んだガーゼのように擦り切れた土多のブラウス。緑茶らしき液体のシミ。時期の早い蚊の羽音……


 それから数日の間に、土多は雑草の生い茂る家から姿を消した。僕をこの家に押し込んだのと同じ、研究所の力が働いたのに違いない。


 それは超能力者一人のためだけに、群馬の山を丸々買収して施設を建設できるだけの得体の知れない巨大な力だ。


 それから僕は太郎と一緒に何度も土多の家の前を通ったが、そのがらんとした庭の様子を見るたびに、なぜか少し寂しかった。





 土多に毒を食わされた太郎はヘルパーさんが寄越した獣医による何回かの往診を受け、めきめき回復した。

 しかし僕は獣医が家に来るのが嫌だった。


 獣医の名前は砂藤といい、三十代くらいの一見爽やかな男だ。

 そんな砂藤の趣味は、金を儲けること。

 次にその金を運用してさらに金を儲けること。

 及び、儲けた金を最大限手元に残すための節約工作をすることだった。

 要するに金の亡者なのだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る