第2話

 初めて研究所を出て、初めて新幹線に乗った。初めて在来線に乗り、寝屋川にあるその家に着いたのは、研究所を出てからたった六時間後のことだった。研究所は岐阜県の山奥にあったという。


 一人暮らしのことは唐突に研究所の人たちから告げられた。


 過去に一度、岐阜県の山奥でポリマーの障壁を大爆発させ数億円の損害を出したこと以外、僕はおとなしくて模範的な超能力者だった。きっと日本の各所で隔離されている超能力者達は、今後こうして、一般社会との共存を試みていくことになるのだろう。


 これから一人暮らしをしていく。

 

 二つ決まりがあった。

 足には今まで通り常時小型のセグウェイを装着すること。

 セグウェイを交換し、足を洗浄するための介護士が週に一回家にやってくること。


 あとは自由に生活すればいい。

 料理や掃除については、研究所で一通り実習を受けさせられていたし、買い物や公共交通機関の乗り方についても、与えられたマニュアルで理解できた。毎月口座に入金があり、お金にも困らない。家に設置された百三十台以上の監視カメラが僕を見守っていてくれるのでさしたる不安もない。

 

 初めこそ困惑したが、数ヶ月する頃にはこの生活にも慣れてしまった。


 家には小さな庭があり、そこから二反くらいの田んぼを挟んで公道が通っていた。


 暇なので庭のベンチに座り、毎日その道を眺めた。家の近くには大学があるらしく、いろいろな服を着た若い男女が公道を走っていく。


 彼らの太腿から踝にかけて装着されている走行能力強化装置は、機械化されたダチョウの脚のようだ。それをうまく稼働させ、時速四十キロで公道を比較的ゆっくりと駆け抜けていく。


 談笑する笑顔、風になびく髪。そしてなにより何のこだわりもなく前へと繰り出される彼ら彼女らの健康的な太腿と、その脚に食い込む走行能力強化装置。


 それらが通り過ぎると、僕はつい自分の足元のセグウェイに目を落としてしまう。


 そうして毎日人を眺めているうちに分かったことがあった。それは僕の脚の筋肉が、同世代の平均と比べても明らかに発達していることだ。


 ベンチに座っていると、僕の飼っている柴犬が寄ってきて大腿四頭筋や腓腹筋のあたりをしきりに嗅ぐ。僕はむずがゆくなって筋肉をピクピク痙攣させる。


 ベンチに横たわった、重く太い蛇のような僕の筋肉、この筋肉を思い切り走ることに使えたらどれだけいいだろう。




 僕に与えられた日課は犬の散歩だった。僕がこの家にやってくる前から柴犬の太郎はこの家に暮らしていたという。


 朝十時と、夕方十七時の毎日二回、きまって太郎の散歩に出かけた。太郎は鼻を鳴らしながらしきりに道端の石を食べようとするので油断できない。そのたびにセグウェイのバランスを取りながら、リードを引っ張ってやめさせた。


 散歩コースは河川敷の堤防の上の、見晴らしのいい道だ。僕はいつも先を歩く太郎に体重移動を任せながら、堤防から見える景色を眺めていた。


 特に好きなのは夕方だ。長い長い橋の向こうに、高層ビルが立ち並び、その全ての建物は、地上から一定の高さまで、ピンク色の緩衝ポリマーで覆われている。


 ピンク色の街の向こうに、赤い夕日が沈んでいく。僕は太郎に引っ張られながら、その光景をいつもじっと眺めていた。


 そんな僕たちの横を何人も何人も、走行能力強化装置をつけた男女が時速六十キロ程度で走り去っていく。その全員が僕と太郎のことを、頭のおかしい人を見るような目で見ているのだった。


「今の世の中ではゆっくりしていることは、それだけで害悪だとみなす人もいる」


 僕のセグウェイを交換するヘルパーさんは、そう説明してくれた。


 風呂場に投げ出された僕の足、連結されたセグウェイ。白いタイルの上で、様々な工具を並べ、セグウェイの拘束具を手際よく解体する。最後の部品を外すと、僕の汗ばんだ青白い足が露わになる。


 ヘルパーさんは風呂桶に入れた水で僕の足を丹念に洗い流すと、カバンから取り出した真っ白なタオルで僕の足を拭く。少しでも濡れたままだと、新しい拘束具の中で蒸れて、皮膚病になってしまう可能性があるのだ。


 足を拭き終わると、また数十分かけて、先ほど解体したのとは逆の手順が行われ、新しいセグウェイが僕の足にがっちりと装着される。その後、ヘルパーさんは工具やタオルの入ったカバンを背負うと風呂場をあとにし、庭で走行能力強化装置に足を通して、ぴったり時間通りに走り去っていく。


 スタートダッシュを切る時の全身の筋肉の稼働。それを見るたびに僕は狂おしいほど走りたくなる。その気持ちをいつも押さえつけてヘルパーさんを見送る。


 そんな風にしながらヘルパーさんの言った言葉の意味を考える。心当たりはなんとなくあった。


 


 僕の家の周りの家々にはたいていガレージがあり、様々な自動車が止まっていた。プリウス、アルファード、カローラ、CX5、カイエン、どれも一時代前の、決して安くはない車ばかりだ。


 その頃には、僕もうすうす感づき始めていた。今の世の中においてわざわざ自動車に乗って公道を走るなんてことをするのは、単なる物好きか老人たちだけだ。


 そして僕の家の周りには老人ばかりが住んでいるのだった。まるで身を寄せ合って自らを守るように、老人たちは町の外れにあるこの土地に集まって暮らしている。


 僕は、僕を見る彼らの目があからさまな警戒心に満ちているのに気づいていた。例えば太郎を連れて散歩をするときなどは、たまたま曲がり角で鉢合わせた高齢の男が、僕の姿を見るとびくりと身を強張らせる。そのまま男は挨拶もせず、逃げるようにその場から立ち去ってしまう。


 中でも一番酷いのは向かいに住む土多という老婆だった。彼女は身長が百四十センチほどしかない。皮膚が黄土色で全身干し柿のように皺だらけだ。九十度近く曲がった上体を、筋肉の退化しきった脚と、ゆらゆら揺れる細い杖の三点でいつも支えている。


 通りかかった僕がセグウェイの上から土多の曲がった背を見下ろすとき、きまって土多は忙しなく地面を嗅ぎまわる太郎を睨みつける。


 土多の太郎に対する露骨な憎悪。


 彼女はすれ違った肩越しに太郎を怨嗟のこもった目で睨みつけ続け、時にクソが、と暴言を吐き捨てることもあった。

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