第5話

 ヘルパーさんの性格は淡白だが、親切だと思う。


 風呂場でよくスポーツの話をした。ヘルパーさんは大学時代ラグビー部に所属していて、競技用の走行能力強化装置をつけ、人工芝のグラウンドを往復する精力的なスポーツマンだった。


 ポジションはフランカー。どちらかというと地味で堅実な働きが必要なポジションだが、彼はそのポジションを四年間守り続けた。


 ヘルパーさんはラグビーだけでなく、色々なスポーツについて詳しかった。野球、サッカー、テニス、ハンドボール、ボクシング、バレーボール、レスリング……

 

 彼の知識はあらゆる競技に及び、そのルールやポジションだけでなく、テクニックの名称や実際に体を動かすコツ、強豪チームやその卓越性の理由、さらには競技の歴史・沿革、各スタジアムの名称や特性、競技の主要な動作に必要な筋肉とその鍛え方まで、とにかく幅広い。


 リビングに設置されたソニー製四四インチテレビでよくスポーツを観戦していた僕は、ヘルパーさんにとスポーツについて、いつも楽しみにしていた。


「昔、サッカーのコートの横幅はたった百メートルほどしかなかった」


 そんな風に語り出すときにはいつも、ヘルパーさんのセグウェイを解体する手は止まっている。


「ラグビーグラウンドの横幅は約九十メートルだったし、バスケットコートの横幅は二十八メートル、テニスコートの横幅は二十六ヤード、クリケットのピッチの横幅は二十二ヤード、野球のホームから一塁までの距離は十八・四四メートル、バレーボールコートの横幅は十八メートル、バドミントンコートの横幅は十三・四メートル、卓球台の横幅に至っては、たった一メートル五十二センチしかなかった」


 僕は未だ見たことのない『クリケットのピッチ』を脳内に思い浮かべる。テニスコートより小さく、バレーボールコートより大きいそのピッチの端には、木製の大きな羽子板のようなものを持ったバッターが立っていて、後方のジェンガのようなものを崩されないよう、相手のピッチャーが投げてきた球を打ち返す。


 羽子板に当たって飛んだボールは、多分茶色いヘルメットとグローブをつけた何人かの守備の選手に追いかけられる。だが守備の選手がボールを捕まえたとき、いったいどうすれば打ったバッターをアウトにできるのだろうか。


「だが現代になって状況は変わった。競技によって差はあるが、コートの広さはそれぞれ昔の二倍近く広くなったんだ。もちろんそれは近年の走行能力強化装置の登場に起因している。装置の登場で、サッカーのドリブルはより速くなり、ラグビーのランも飛躍的に速度を…」



 

 だが、その日のムードは、そんな普段の様子とはかけ離れていた。僕とヘルパーさんはお互い決意を固めたように黙ったまま、いつもの風呂場へと移動した。


 浴槽の縁に座り、セグウェイを無造作に床へと投げ出す。


 ヘルパーさんは相変わらず黙っていたが、その目線は明らかに僕の態度を非難していた。それを分かっていながら僕も、心に巣食う不機嫌に任せ、そのまま黙っていた。


「君があんな風に人を怒鳴りつけるというのは意外だった」


 セグウェイの袋ナットを回転させながら、ヘルパーさんが言う。土多のことを言っているのはすぐに分かった。


「ただあんな風に他人を恫喝するのはあまり君らしくない」


 その言い草に腹が立った。


「ほっといてくださいよ。いつも野球がどうとかテニスがどうとかくだらない話はするくせに、僕の置かれた状況とか、研究所の人達のこととか、肝心なことは何一つ教えてくれないくせに。ヘルパーさんにとって僕は所詮他人なんだ。獣医の砂藤が色々言ってました。僕の超能力のことや、僕がこの家に来た理由とか、ヘルパーさん達はいままで何も話さずに隠してきた。あの獣医のことは嫌いだけど、僕に隠し事ばかりする人達のことも同じくらい信用できない。ヘルパーさんも同類ですよ。僕が人を怒鳴ったときだけそんなふうに説教するのは卑怯じゃないですか」


 するとヘルパーさんはじっと僕の目を見つめる。真っ直ぐ射るような視線が僕の身を竦ませた。


「今の君は自分の不安を俺に当たることで解消しているだけに見える」


 ヘルパーさんが言い、手元の工具が風呂場の床へ置かれる。

 僕はこれから発せられる言葉に恐怖して身を縮める。


「俺には君がセグウェイの交換中に脱走を企てた場合、君を阻止する重大な職務上の義務がある。だからこそラグビーをやっていた俺の経歴は高く買われたし、仕事中にそのことを忘れたことはない。ある試算がある。それは仮に君がJR大阪駅から阪急梅田駅間の歩道橋のたった七十数メートルを全力疾走した場合を想定している。結論から言えば、君のその行為によって生じる被害の総額は、およそ二七五億六千三百万円に上るんだ。もちろんお金だけの話じゃない。君がそうすることによって、梅田中のポリマーが爆散、幾人もの人が爆発に巻き込まれ、建物は倒壊し、社会は重大な危険に曝されるだろう。言うまでもなくそれは最悪の事態だ……確かに俺は君のセグウェイの整備士だが、最悪の事態を未然に防止するための監視者でもある。俺はもし君がセグウェイの交換中に逃げ出そうとした場合、君の両膝を折る権限が与えられている。だが逆に、君に対してここから出るよう促したり、世間の動向に対して余計な知識を吹き込むことは固く禁止されている。それが俺の立場だ。世間の人々を君から守るための仕事だ。


 砂籐が何を仄めかしたか知らないが、確かに君たち超能力者にはかつて奪われた人権が今与えられつつある。君たちを他人の監視下から解放しろという議論があることも事実だ。だが、俺は立場上、そうした声には耳を貸さない。仕事のために君のセグウェイのナットを強く締めるし、君が逃げ出せば両膝を折る。研究所が不要だと判断した情報は君に伝えないし、仕事のためなら……」


 僕はそばにあったシャワーヘッドを掴み、ヘルパーさんの顔面に振り下ろした。ヘルパーさんはそれを軽々と左手でキャッチすると、力を込めてリンゴのように握りつぶす。折れたシャワーヘッドの内部で浄水フィルターが破壊され、茶色のビーズのような物体がバラバラと床に散らばる。


「……だが仕事上許される範囲内では、俺は最大限君のことを思って行動している。これまでもずっとそうだったし、これからもそれは変わらない」


 ヘルパーさんの真っ赤な動脈血が手首を伝い、繊維強化プラスチックの床に一滴落ちた。僕は生まれて初めて悔しいという感情を覚えた。




 その翌日、僕は彼女と出会った。


 彼女と出会ったのは夏だった。堤防の斜面を覆う背の低い雑草や、河川の岸に生い茂る背の高い雑草が強い陽射しに熱せられて草いきれを発する。その間を頻りに小さな虫が飛び交う暑い夏。堤防の上から陽炎で揺らめいて見える遠くの街には、ピンクの緩衝材が張り巡らされている。ポリマーに包まれた街はうだるように蒸し暑いだろう。


 初めて彼女を見たとき、その挑戦的なルックスに驚愕したのを覚えている。

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