第36話 向上心
「ナイスピッチ」
「ありがとう。チェンジアップが低めに決まって、ホッとしました」
ベンチに戻る途中、梅村が春谷に声をかけ、春谷はお礼を言う。春谷は合宿の時までひたすらにネットへ投げ込んでいたが、合宿後は梅村へ投げ込むことも多くなっていた。イップス克服のための練習に取り組む中で、新しい変化球への挑戦も行なっていた。それがチェンジアップだ。
そのチェンジアップが効果的に使えていると感じた梅村は、それでも多用する気は無いと春谷に伝える。春谷のチェンジアップは練習でも時々、高めに浮いてしまうからだ。しかし、それでも実戦で使用したのは相手にチェンジアップがあると思わせるためだ。
チェンジアップが打者の意識にあるか無いかで、バッティングは大きく変わる。小鳥遊への投球で、チェンジアップを使って三振をとれたことは幸運だったと梅村は思った。
3回裏の湘東学園の攻撃は、3番の奈織から始まる。先ほどの1回裏、ノーアウトランナー1塁の状態から三者連続三振で打ち取られたクリーンアップは、今度こそ塁に出ようと奮起した。
「うう、ごめんなさい」
「仕方ない仕方ない。あれは今の智賀ちゃんだと、バットに当てるのも難しいよ」
3回裏はベンチから声援を送ったけど、小山先輩と智賀ちゃんは三球三振をしてしまった。小鳥遊さん、この回はわりと飛ばしているかな。小鳥遊さんは特に小山先輩と智賀ちゃんを警戒しているみたいだ。2人とも1回戦でホームランを打っているから、それで警戒をしているのかな。
ノーアウトでライト前へヒットを打って塁に出た奈織先輩が釘付けのまま、ツーアウトランナー1塁になって、打席には久美ちゃんが立つ。両打ちの久美ちゃんは、右投げの小鳥遊さんに対して右打席に入った。何か、策でもあるのかな?
「……一発を、狙ってる?」
「久美ちゃんは、右の方が大きいのを狙い易いんだっけ。たぶん、元々は右打ちだよね」
詩野ちゃんが一発を狙ってそうだと言っていたので、あまり期待はせずに久美ちゃんのバッティングフォームを観察する。素振りのスピードは速いし、打てそうな雰囲気はある。
ガールズの大会では、打率も3割台だったかな。と言ってもシニアやガールズで打率3割はそこまで凄い成績でも無い。ガールズだと本当に打高投低で、点の取り合いに発展する試合が多い。
だからこそ、失点が少ない久美ちゃんは目立っていた。当時はまだ2年生だったし、私にホームランを打たれても来年が楽しみな投手だと評価されていた。
打者の久美ちゃんに対して、小鳥遊さんは初球からカーブを投げてストライク。あのカーブは変化量も大きいし、ストレートとの速度差も大きいから打者にとって非常に打ち辛い球になっている。2球目もストレートが決まって、久美ちゃんは0-2で追い込まれた。
しかし3球目、ベンチからだと球種は確認し辛いけど、久美ちゃんは金属バットで快音を鳴らし……ライトフライで終わった。小鳥遊さんは遊び球が少ないというか、捕手の新田(にった)さんが遊び球の少ないリードをしているからストライクが先攻しているけど、今のはボール球だったかな。
結局ノーアウトのランナーが1塁で釘付けのまま、3回裏の攻撃が終わった。そして4回表の東洋大相模の打線は、3番から始まる。この人の1打席目は、私の前に落ちそうな打球を私が飛び込んで捕ったから、センターフライだった。出来れば山田さんの前にランナーを出したくないけど、好打者だし難しいかな。
3番の人は初球のストレートをファールにして、2球目は外へのボール球を見送る。カウント1-1から、ドロップカーブにバットを上手く合わせて綺麗なセンター前ヒットを打った。これで、ノーアウトランナー1塁。
初見のはずの変化球に上手く対応できるのは、一流のバッターの証だろう。詩野ちゃんみたいに、小鳥遊さんのカーブを想定して練習していたわけでも無いだろうから、地力が高い。そして右バッターボックスには、4番の山田さんが入る。
一応、山田さんに関しては今日の試合前に全打席敬遠も視野に入れてとは言っておいた。だからか詩野ちゃんは山田さんへの1打席目、座ったまま四球で歩かせている。大野先輩が雨で上手くコントロールを出来ていないのかと思ったけど、山田さんに対してはサイン通りにワンバウンドのボールを投げていたらしい。
はっきりと敬遠しないのは詩野ちゃんらしいけど、バットの届く範囲にボールが投げられるのは不安だ。
そしてその不安は的中する。内角低め、バッテリーがインコースへ厳しく攻めたボール球のカットボールを、山田さんはレフト方向へ引っ張った。真凡ちゃんが私の真似をしてフェンスをよじ登るけど、全然届かない。
山田さんにツーランホームランを打たれて、これで同点。試合は振り出しに戻ってしまった。山田さんははっきりと敬遠するよう、この回が始まる前に言っておくべきだった。……というか真凡ちゃんは、よくフェンスを登れたね。一応、ギリギリホームランって打球なら捕れていたのかな?
「……フェンス登りは、ちゃんと捕れるって確信が無いならやっちゃダメだよ?危ない行為だし、怪我の元だし」
「行けそうだって、思っちゃったんだから仕方ないじゃない。それより、春谷に声をかけなくても良いの?」
「私に4打席連続でホームランを打たれてもケロッとしていた久美ちゃんにそんな心配はしなくても良いよ。優紀ちゃんだとメンタル面は不安だけど、大野先輩と久美ちゃんはそこのところで、安心はできるね」
ホームランを打たれた久美ちゃんはちょっと顔を歪めたけど、またすぐに元通りとなる。一見おしとやかな性格だけど、なかなかに図太い性格でもあるから、何とかなりそう。
それにしても内角低め、完全なボール球で初見のはずのカットボールを詰まらせながらもホームランにするとか、化け物かな?
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