国から追放された聖女は、第一王子を寝取って反逆を企てるようです

戯 一樹

第1話



「聖女イリアよ、あなたをこの国から追放いたしします」



 ウィンザーノット城、謁見の間。

 そこでイリアと呼ばれた十五歳ほどの銀髪の少女が、二人の兵士に両腕をがっちり掴まれながら、目の前にいる女王に断罪されていた。

「追放……? わたしが……?」

 いきなり理由もなくウィンザーノット城へと連行され、わけがわからないまま女王と対面する事になったイリアは、突然告げられた追放の一言に、茫然自失とした面持ちで聞き返した。

「理由を……なぜわたしが追放されないといけないのか、納得のいく理由をお聞かせください!」

「つまり、心当たりがないと?」

 イリアの言葉に、女王は心底不快そうに顔をしかめた。

「では、教えてあげましょう。あなたの罪を──」

 言って、女王はおもむろに玉座から立ち上がり、イリアの前へ悠然と歩み寄った。

「聖女イリア……いえ、今は罪人イリアと呼ぶべきでしょうか」

 兵士達によって強引に跪かされているイリアを見下ろしながら、女王は冷ややかに告げた。



「あなたの罪──それはあなたの不貞な行為です」



「不貞……?」

 女王の言葉を、さながら生まれて初めて聞いたような心持ちで復唱するイリア。

 まるで身に覚えがない。そもそも聖女としての役目を拝命するようになってから、一度も異性と恋仲になった覚えすらない。

 それ以前に、だ。

 基本的にイリアは、教会で祈りを捧げるのが日課となっている。それも毎日、昼夜問わずだ。

 なので、教会に訪れた人の相談や悩み事に付き合う事はあっても、遊んでいる暇など一切なかった。

 それこそ、異性どころか同性と青春を育む時間すらなかったくらいに。

 だからこそ、不貞な行為と言われても、イリアには皆目見当が付かなかった。

「おや、まるで記憶にないと言いたげな顔ですね」

「仰る通りです。不貞な行為と言われても、わたしには身に覚えがありません。神に誓って、不貞な行為などしておりません。わたしは潔白です!」



「……汚らしい」



 と。

 無実を訴えるイリアに、女王は吐き捨てるように呟いた。

「おぞましいわ。恐れ多くも神に誓うなどと、こんな者を聖女として祀っていたなんて、ウィンザーノット王家最大の恥だわ!」

「なぜ……なぜそこまで昂るのですか女王様! 前王が在命だった頃は、そこまで他者を無碍に扱う事はありませんでした! 民に寄り添い、民の悩みを自分の事のように考えるお優しい王でした!」

「あなたごときが、わたくしの大切な人を語らないでちょうだい!」

 反論するイリアに、女王は怒髪天を衝く勢いで激昂する。

「わたくしがどんな思いで王の座を引き継いだか……何も知らない小娘が、あの方を語るなんて笑止千万も甚だしい!」

 怒りのあまり肩で息をする女王に、イリアはただ唖然とするしかなかった。

 前王と女王の関係がどうだったかは知らないが、ここまで激怒するという事は、それだけ前王の事を深く愛していたというのは想像に難くない。きっと普段から仲睦まじい夫婦だったのだろう。

 しかしわからないのが、なぜここまで自分を目の敵にするのか、だ。

 イリアはこの世に生まれてきてからずっと、今は亡き母と共に聖女としてこの国に身を捧げてきた。そこに不満なんて一切なかったし、一度も自分の境遇を不幸だと思った事はない。

 だからこそ、この国の民や貴族に対して平等に愛を持って接してきた。

 そこに利己的な理由などなかったし、打算的な考えなんて一切なかったつもりだ。

 ゆえに、過去の自分に何かしらの落ち度こそあったかもしれないが、他者と間違いを犯すような過ちがあったとは到底考えられなかった。

「……いいでしょう。そこまで白を切るというのであれば、改めてあなたの罪状を口にしてあげるわ」

 と、ややあって呼吸を整えた女王が、依然としてイリアを汚らしい虫ケラでも見るかのような冷たい眼差しを向けながら言葉を紡いだ。



「わたくしの息子であり、第一王子にして次期国王でもあるアルスを──あろう事か婚約者がいると知った上で誑かそうとした、その深過ぎる罪を!」



「わ、わたしがアルス様を誑かす……?」

 とっさに、イリアは女王の背後にいる同年代の少年──ウィンザーノット王家第一王子であるアルスへと視線を向けた。

 玉座の隣りの椅子で座しているアルスは、これまでのやり取りを前にしてキョロキョロと落ち着きなく視線を泳がしていた。

 そしてイリアと目が合った瞬間、あからさまに顔を逸らして俯いた。

 まるでイリアと顔を合わせるのが、今だけはとても気まずいと言わんばかりに。

「アルスから聞きましたよ。イリア、お前はアルスに婚約者がいると知っておきながら、アルスに言い寄ったそうですね?」

「し、知りません! アルス様に言い寄った事なんて一度もありません!」

「嘘おっしゃい。現に、わたくしは数日前に見ましたよ。城内であなたがアルスに寄りかかる瞬間を」

「あ、あれは、この城の兵士の方々に聖典を読み聞かせたあと、疲労が溜まっていたのか、つい倒れかけたところを偶然通りかかったアルス様に助けていただいただけです!」

「信用できませんね。実際、アルスが言い寄られたと証言しているのです」

「誤解です! 本当に言い寄ってなどおりません! そうでしょうアルス様!?」

「ぼ、僕は……」

 必死の形相で問いかけるイリアに、アルスは相変わらず顔を逸らしたまま、ボソッと口を開く。

「ほ、本当の事を話しただけだよ。イリアに言い寄られたって……!

「そんな……!」

「さあ、これでもう言い逃れできませんよ」

 愕然とするイリアに、女王は冷然と言い放つ。

「そもそも、前王が優しすぎたのです。お前の亡き母が聖女だったからと言って、なんの力もないお前がウィンザーノット王家公認の聖女に任命されるなんて」

 ──お前の母はどんな傷や病をも癒す神の加護があったというのに。

 そう言って、女王はイリアと視線を合わせるように腰を屈めた。

 そして、誰にも聞こえないような囁き声で、



「まあでも、内面は母親に似たようね。

 ──何せお前の母は、わたくしの夫を誑かした卑しい女だったのだから」



「えっ──?」

 イリアは両目を見開いた。

 母が前王を誑かした?

 あれだけイリアが幼い頃に亡くなった父を愛していた母が?

 ありえない。それだけは自信を持って言える。

「女王様! それは何かの勘違いです! 決して母はそのような誑かすような真似など、決して──」

「黙りなさい!」

 と。

 イリアが言い終わる前に、女王が力強くイリアの頬を平手で叩いた。

「本当にどこまでも卑しい女。やはりクズから生まれた者は性根もクズになり下がるものなのね。心底汚らわしい……」

「じょ、女王様。本当にわたしは何も……」

「この期に及んでまだ口答えするつもり? 見下げた根性だわ」

 言いながら、女王はイリアの首元にかかっていた十字架を鎖ごと引き千切った。

「!? や、やめて! それはお母様が残してくれた大切な──」

「お前には必要ない物のはずでしょう? だって、お前はもう聖女じゃないのだから」

 言って、女王はゴミでも扱うような手付きで、近くにいた兵士に十字架を手渡した。

「あとで捨てておいてちょうだい。なるべくこの城から離れたところが望ましいわね。こんな下劣な女が持っていた物なんて、城に近付けたくもないわ。この城が汚れる」

「はっ。承知いたしました。して、この者の処遇はいかがいたしましょう?」

「先ほど告げた通り、イリアは国外追放よ。即効、この国から追い出しなさい」

「ははっ!」

「待って! 返して! お母様がくれた大切な十字架を返してください!」

 兵士二人に両腕を掴まれながら城外へと連れ出されようとしているイリアに対し、女王は一切目もくれず踵を返した。




 ■ ■ ■ ■



 聖女イリアを追放した数週間後。

 アルス・ウィンザーノットは、自室で寝床に入ろうとしていた。

 そんなアレスの頭の中に浮かぶのは、数週間にこの国から追放したイリアの姿だった。



 母──女王にはああ言ったが、実のところ、アルスは密かにイリアの事を幼きからずっと想っていた。



 本当は追放なんてさせたくなかった。イリアにずっとこの国にいてほしかった。

 これまで通り、イリアとの日常を過ごして、叶わぬ恋だとしてもずっと彼女を思い続ける日々を──。

 だが、そういうわけにもいかなくなった。



 あろう事か、女王にイリアへの想いを勘付かれてしまったのである。



 きっかけ自体は些細な事だった。イリアと二人きりで話していた最中、たまたま倒れかけた彼女をとっさに支えたところを女王に目撃されてしまったのだ。

 それだけで、イリアへの想いに気付かれてしまったのである。

 婚約者ができる前からずっと隠し通していた、イリアへの密かな想いを、たったあれだけの事で……。

「僕は、本当に情けない男だ……」

 枕に顔をうずめながら、アルスは自戒するように呟く。

 女王にイリアへの想いを問い詰められた時、最初こそちゃんと弁明するつもりだった。誤解だと反論するつもりだった。

 だが、結局できなかった。



 あの女王の苛烈な瞳を前にして、何も言い返せなくなってしまった。



 昔からそうだった。あの瞳を見てしまうと、どうしようもなく萎縮してしまうのだ。

 それこそ、ヘビを前にしたカエルのように。

 だからあの時、正直に話してしまった。



 イリアに恋をしている、と。



 だが女王はそれを曲解して、イリアに誑かされたと解釈してしまった。

 婚約者がいると知りながら、アルスに言い寄った醜い女である、と。



 いや、あれは女王の妄執のようなものだ。

 いつの頃からか、イリアの母に対して害意を抱くようになった女王の、果てなき妄執。



 その妄執が、数年前に病死したイリアの母からイリア当人に向けられるようになってしまった。理不尽もいいところである。

 確かに生前、前王とイリアの母は懇意の仲だったようだが、女王が怪しむような関係では決してなかったと思う。すべては女王の勝手な思い込みが。

 しかしながら女王は、昔からこうと思い込んだら、なかなか考えを改めない人だった。前王くらいなものだ、あの人の暴走を止められたのは。

 だがその前王も亡き今、女王を止められる人が誰もいない。

 前王が亡くなり、二年後の成人の儀で国王になるまでの繋ぎとして代理の王になって母であるが、実権はこれまでもずっと彼女のままだろう。

 表向きはアルスが国王だとしても、裏で国を操るのは母のままだ。

 それを正せるものなど、自分はもちろん他の者だっていやしない。

 だから女王がイリアを糾弾していた際、ついアルスも同意してしまった。我が身可愛さについ嘘を吐いてしまった。

 聖女イリアに言い寄られていた、と。



 きっとアルスは、この先もずっと女王の言いなりになる人生を歩む事になるのだ──。



「イリア……今ごろ君は一体どこで何を……」

 と、行方知れずとなったイリアの美しい姿を想起しながら、静かに瞼を閉じようとしたところで──



 トントン。



 と、外から自室の扉がノックされた。

 こんな夜更けに来訪者とは妙だなと首を傾げつつ、「誰だ?」と声を発した。



「──アルス様、わたしです」



 その声に。

 アルスは弾かれたように飛び起きた。

「イリアかい!? ちょ、ちょっと待ってくれ!」

 突然の事に頭の整理が追いつかないままながら、アルスは慌ててベッドから降りて、勢いよく扉を開け放った。

「イリア! やっぱりイリアだったんだね!」

「アルス様、お久しぶりです……」

 ニコリと弱々しく微笑むイリアに、アルスはズキリと胸を痛めつつ、

「……ここで会話するのはまずい。兵士達に聞かれる恐れがある。とりあえず中に入っておくれ」

 とイリアを室内に招いた。

 そうして、改めてイリアの全身を眺める。

 こけた頬に、目の下のくま。顔色も栄養状態が良くないのか、幽鬼のように青白い。

 追放される前までは白かったローブは、今はすっかり薄汚れており、ところどころ破れてすらいた。

 そして何より長くて美しかった銀髪は、今は肩口までしかなく、あとで自分で染め直したのか、真っ黒に染められていた。

「ああイリア……なんて可哀想な姿に……。今までどれだけの苦労を……」

「わたしなら平気です。あなたに会えなかった日を思えば、これくらい……」

「! イリア、それはまさか僕の事を──」

 と、衝動的にイリアの肩を掴もうとして、アルスはハッと何かを思い出したように踏み留まった。

「それより、君はどうやってここに? 君は確かに国外追放になったはず。国の関所や城の門番をどうやって突破したんだい?」

「今まで隠していたのですが、実はわたしには、とある神の加護があるのです」

「加護? いやだってイリアは、君の母とは違って神の加護なんてなかったはずじゃ……」

「母にずっと秘密にするように言われていまして、その加護の力によって、勝手ながらアルス様の元まで参りました」

「イリアの加護……それは一体……」

 アルスがそう問うた瞬間。



 イリアの姿が、音もなく一瞬にして消え去った。



「!? イリア!? どこに行ったんだい!?」

「──わたしならここに」

 と。

 先ほどまでいなかったはずのイリアが、あたかも最初からそこにいたように姿を現した。

「イリア! 今のは……?」



「これがわたしの加護──透明になれる力です」



「透明……そうか。それで無事にここまで……」

 今の透明化を見て得心がいった。

 確かにこれなら、門番や護衛の目を掻い潜ってここまで来るのも、そう難しくはないだろう。

 ただ──

「でも、いくら透明になれるからといって、なんでこんな危ない真似までして……」

「それは、アルス様に会いたかったからです」

 そう言って。



 突然イリアは、着ていたローブを脱ぎ捨てた。



 露わになった乳房、うっすらと生えた恥部に生えた銀の茂み。

 そんな生まれたままの姿になったイリアは、そのシルクのような白い全身の肌をアレスに押し当てるような形で、いきなり抱き付いた。

「イリア!? 急に何を──」

「ずっと、こうしていたかった……」

 狼狽するアルスに、イリアは頬を擦り合わせながら言葉を吐露する。

「許されない恋だとは思っておりました。ですがどうしてもあなたへの想いを断ち切れなかった……」

「じゃあ君は、以前から僕の事を……?」



「はい。ずっと前からお慕いしておりました……」



 知らなかった。

 てっきりこっちの片想いだとばかり思っていた。

 だが実は、両思いだったなんて──!

「女王様からアルス様への想いを問われた時、内心とても動揺しておりました。聖女としてあるまじき行為ですが、嘘まで吐いて女王様を誤魔化そうとしてしまいました。ああでもしなければ、アルス様と離れ離れになってしまうと思ったから……」

「イリア……」

「ですが、わたしの浅はかな言動のせいでアレス様にも迷惑をかけてしまいました。結局嘘も見破られ、ついには追放される始末。本当にわたしはどうしようもない人間です……」

「そんな……君が謝るような事じゃないよ。悪いのは僕だ。僕があの時、ちゃんと女王に釈明できなかったせいで君は……」

「いいえ、悪いのはわたしひとりです。アルス様はいずれこの国の王になる身。そんなお方が、こんな心身共に汚れた女に懸想してはならないのです」

「……そうか。君はとっくに気付いていたんだね。僕の想いを」

「はい。ですが……」

 そこまで言って。



 イリアはおもむろにアルスの手を取って、自分の乳房へと引き寄せた。



 「んっ……」と甘い吐息を漏らすイリアに、アルスは赤面しながら反射的に顔を逸らした。

「イ、イリア!? き、君は何を……!?」

「感じますか、わたしの胸の鼓動が。この胸の高鳴りが」

 言われて指先の感触に意識を集中してみると、確かにイリアの心臓が早鐘を打っていた。

「アルス様の顔を一目見た瞬間から、わたしの胸はこんなにときめいておりました。こんなに胸が高鳴るのは初めてです。アルス様に会えなかったこの数週間、あなたへの想いを募らせる一方でした……」

「イリア……」

「身分違いの恋だというのは重々承知です。アルス様にはステキな婚約者がいると知りながらも、こうして不貞を働くなど言語道断というのはよくわかっております。それでも、わたしは──」

 イリアが上目遣いでアルスを見つめる。

 その熱く濡れた両の瞳で。



「あなたに抱かれたい──アルス様にわたしの体を慰めてもらいたいのです……」



「イリア……!」

 もう我慢ならなかった。

 気付いた時には、イリアをその場で押し倒していた。

「イリア! イリア! イリア!」

 何度も愛しい人の名を発しながら、アルスはイリアに覆いかぶさり、邪魔だと言わんばかりに寝巻きを脱ぎ捨てる。



 ──アルスに体を舐め尽くされながら。

 ──アルスに何度も貫かれて嬌声を上げながら。

 ──アルスに幾度となく愛の言葉を囁かれながら。



 人知れず、イリアはアルスの肩に手を回しながら邪悪に口端を吊り上げた。



 ■ ■ ■ ■



「ふふ……ふふふ…………」

 ウィンザーノット国、深夜の城下町。

 閑散とした真っ暗闇の町中を、イリアはひとり怪しげな微笑をこぼしながら、トボトボと歩いていた。

 今は透明化の加護は使っていない。さすがに城を出る時は透明になったが、今は使う必要がなかった。

 もちろん深夜の町中を闊歩する者もちらほらと散見できるが、大抵は金無しの浮浪者だ。同じような見た目をしたイリアを気に留める者など誰もいなかった。

 唯一、町の警備隊だけは別だったが──さすがに少女の深夜歩きを見捨てたりするような連中ではない──見回り中の彼らと遭遇した時だけ透明になればいい。無駄に加護を使って、体力を消費する必要はない。

 それに、今日はもう疲れ果てた。できるならゆっくり休みたい。



 今の自分に、泊まれる宿なんてないけれど。

 まして、夜の寒さを凌ぐ布すら無い始末だが。



「ああでも、この間盗んだ金の余りがありましたか。あれで布の一枚くらいは買えますね。まあ今はどこも店なんて閉まってるでしょうし、こんや汚れた姿でお店に入れるとも思えませんが……ふふっ」

 自分でも何が可笑しいのかわからないが、止まぬ笑声と共に、とりあえずいつも寝床にしている路地裏のゴミ捨て場へと向かう。

 自分は生活は、あの日女王に追放されてからガラリと変わった。

 聖女だった頃は困らなかった衣食住が、今やパン一個手に入れるのも苦労する始末だ。

 もちろん透明化を使えば、ある程度盗みでなんとかできるが、そう何度も使える手ではない。いくら透明化になれるからといって、着ている服以外で物体を透明にさせる事まではできない。

 つまり、人目を気にしながらでないとすぐに正体がバレてしまう危険性があるため、何度も繰り返して使える手ではなかった。

 そもそも、最初はこの町に入るのも一苦労だった。透明化はずっと持続できる者ではないし、体力だって消費する。無限に使える力ではないのだ。

 だから町に入って最初にした事は、長かった髪を切って、捨てられていた使い捨ての炭で、父と同じ銀髪を黒く染める事だった。



 あれだけ母に「お父さんそっくりの綺麗な髪ね」と褒められた、父譲りの銀髪を──。



「ああ、そういえば透明化の加護を悪事に使わないという約束も、いつの間にかすっかり破ってしまいました。でも許してくれるよね? これもお母様のためなんだもの……」

 ふらふらと覚束ない足取りで、イリアは夜陰の中を独り言を呟きながら歩む。

 母にはこの透明になれる力を悪事に使わない事と、他の人には誰にも言わないようにと約束させられていた。

 それがイリア自身の身を守る事になるから、と。

 きっと母は、イリアが周囲に奇異な目で見られないようにと気にして、ああ言ってくれたのだろう。

 まして聖女ともなれば、こんな暗殺者のようなスキル、絶対疎まれるに違いない。

 だがそれも、今となってはどうでもいい話だ。



 だって今は、聖女ではないのだから。

 むしろ今や浮浪者同然だ。



 しかも一国の王子を寝取って反逆を企てる、悪に堕ちた醜い女──



「ふふふ……聖女から悪女になったなんて知ったら、お母様はどんな顔をされるのでしょうか。きっとすごく驚かれるのでしょうね……ふふ」

 いや、驚くのはまだ早い。

 なぜなら、イリアの最終目標は──



「今日のでちゃんと孕めたでしょうか。一度だけではやはり不安ですね。これからも通い詰めて種付けしてもらう必要があるかもしれませんね。あの人の子を孕まないと、この国の乗っ取りなんてできませんしね。ふふふ……」



 そう。

 イリアの目的、それは──



 第一王子にして次期国王であるアルスの子を孕み、その子を利用してこの国の実権を握る事。

 それがイリアの考えた、母をないがしろにしたあげく、聖女として身を尽くした自分や母に汚名を着せた女王に対する復讐だった。



 この国の王政は、男女関係なく最初に生まれた子が第一王位継承権を得る。

 つまり次期国王であるアルスの子さえ妊娠すれば、その次の王はイリアが産んだ子となるわけだ。

 たとえそれが婚約者でもないイリアだったとしても、一切例外なく。

 そうなれば、子供を利用してウィンザーノット国を陰から操れる。

 女王を追い出すも飼い殺すも、イリアの自由自在になるというわけだ。

 だからこそ、イリアは追放されたあとも、どうにかこの国へと戻ってずっと機会を窺っていた。

 透明化は長時間持続できるものではない。ゆえに城の警備が薄くなる日を狙っていた。それが今日だったわけだ。

 今日の侵入で、いつ、どこで城の警備が薄くなるのか把握できた。これからまた忍び込む時も、上手く透明化を使えばアルスの元へと無事に辿り着ける事だろう。

 それに幸いと言うべきか、アルスは幼い頃からイリアに恋慕している。アルスの助力を仰げば、今後はもっと入りやすくなるに違いない。

 それにしても。

「ふふっ……思っていたよりずっと早くわたしを犯してくれたおかげで、簡単に事が済みました。ほんと笑っちゃいます。ねぇお母様?」

 まさかあれほど自分に熱心だったとは。

 これまで一度も告白されたわけではなかったが、あれほどだったとはさすがに思わなかった。

 もっとも、アルスの気持ちそのものは、恋愛経験のないイリアでもすぐに見抜けてしまうくらいのわかりやすい態度だったので、最初は戸惑いしかなかったのだが。



 なぜなら、イリアは一度もアルスを好いた事などないのだから。



 あくまでもイリアは、聖女として王子と接しているつもりだった。それなのになぜ自分の事を想うようになったのか、全然見当も付かない。

 そもそも別段告白されたわけでもなかったので、とりあえず放置しておけばいいだろうと、ずっとそう考えていた。

 追放される前は。

 だが今は違う。



 アルスのイリアへの想いを存分に利用してやる。

 イリアの復讐を完遂するために。



 幸い、今のアルスは完全に陥落おちてくれている。これからもイリアの肢体に病みつきになってくれる事だろう。

 しかも、婚約者がいながらにして。

 まあ婚約者に関しては、元より乗り気ではなさそうだったので、特段気にする事でもないが、何にせよ、これならばいくら気弱で押しに弱いアルスと言えど、簡単に口を割るような……イリアとの関係を女王にバラすような真似はしないだろう。

 あとは──

「アルスの子さえ孕めば、わたしの望みは近くなる。最終的にはこの国もめちゃくちゃになるでしょうが、別に構いませんよね。だってわたしが追放された時も何もしてくれなかったのですから。わたしどころかお母様の事すら庇わず、今までの献身的な救済を無かった事にする人達なんて、どうなってもいいですよね。だって、わたしは何も悪くないのですから」

 そうだ。

 自分は何も間違っていない。

 自分はただ、この国の人間達に罰を与えようとしているだけだ。

 だからきっと、神もお許しになるだろう。

 もっとも、今となっては本当に神なんているのか、疑わしいものだが。



「待っててね、お母様。絶対この国に復讐してみせるからね──」



 ポタポタと、イリアの股から血が滴り落ちる。

 だがそれすら目もくれず、ズキズキと痛む股を庇いながら、イリアはひとり闇の中を進む。



 ──地面に点々と残る血の跡が、まるで誰かが流した涙のようだった。


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