第六章 陽炎の立つ夜 〜第六節〜
確かにありえない話ではない。エローダーの“嗅覚”がどれほど鋭敏なものかはデータはないが、ここで取り逃がしてしまった場合にもう一度捕捉するのが難しいのはどちらかといえば、それは間違いなく美咲のほうだろう。そう判断して、あの男が美咲のほうを先に始末しようと考える可能性は否定できない。
「……田宮さんて、意外に」
「ん?」
「こんな状況でいうのも何だけど……あなた、思っていたより理屈っぽいこというのね」
「え、そう? ……もしかしてのぶくんの影響かな?」
「かもね」
顔を見合わせて苦笑した少女たちの正面に、その時、不意に陽炎が立った。
☆
重信の“
「おれも一度くらいは僧侶役の人生を送るべきだったな」
苦痛には慣れている。ただ、継続的な出血にともなう体力低下のことを考えれば、一刻も早く片をつける必要があるだろう。
「……しぶといじゃん」
薄く笑うリリは無傷だった。ここまでに切り払った赤い髪はかなりの量になっていたが、彼女自身の身体にはまだ刃が触れてすらいない。
「でもあんた、さっきより目に見えて動きが鈍くなってるよ? 自分で気づいてる?」
「そう見えるか? あいにくだがそいつは演技だ」
「見栄張ったって無駄だって! わたしの“ヒルディネラ”のホントの怖さが判った時には手遅れだから!」
「だからしゃべりすぎなんだって、リリさん! そのクソデカい承認欲求どうにかしてくださいよ!」
「……まったくだ」
金髪女の射撃をかわしながら、重信は血の臭いのする吐息をもらした。
リリがいう彼女の“スキル”の怖さは、いわれるまでもなくすでに気づいている。長い戦いの中での多くの経験と照らし合わせれば、確証はなくとも推測はできた。
リリの“ヒルディネラ”――その無尽蔵に増殖する髪は、おそらく、絡め取った対象物のエネルギーを吸収することができる。そう考えれば、出血量に見合わない今の疲労感にも説明がついた。たびたび腕や足に絡みつかれ、そのたびにすぐさま髪を切って逃れてきたが、もし全身をおおい尽くすほど雁字搦めにされたら、ふつうの人間などあっという間に衰弱死するだろう。
ただ、それでも重信には負けるつもりはなかった。
「――――」
重信はリリと金髪女のほぼ中間を陣取ることを意識して動いた。
リリが重信を牽制し、そこを金髪女が接近せずに飛び道具で狙うのがこのコンビの戦い方なのは明白だったが、三人が一直線上になるような位置を取り続ければ、金髪女もそう簡単には飛び道具を使えなくなる。もし重信を狙って放った熱線が的をはずれれば、当然、その先にいるリリを誤射しかねないからである。
問題は、彼女たちに味方を犠牲にすることをよしとしない人間性があるかないか――。
「甘いよ、少年! ――わたしに遠慮しないで迷わず撃ちな!」
「いわれなくても撃ちますよ!」
自分も被弾する覚悟を決めたのか、リリが金髪女に声をかけると同時に、重信の動きを予測していたかのように、赤い蛭の群れがいっせいに襲いかかってきた。
「……!」
重信は両手に大小の赤光の刃を抜き放ち、押し寄せる赤い波を片端から切り払った。そこに、立て続けに五発、金髪女の指先から撃ち出された熱線が飛んでくる。
「く――」
二発はどうにかかわしたが、蛭に足を取られて二発が肩口と頬をかすめ飛び、そして残りの一発は――。
「……え?」
呆然とした表情で自分の胸を見下ろしたのは金髪女だった。デコルテの大きく開いたワンピースの胸の谷間に、焼け焦げたような小さな穴がぽつんと開いている。
「は!?」
左の二の腕を押さえたリリが、どさりと音を立てて倒れ伏した金髪女に代わって驚きの声をあげた。
「あんた……はぁ!? まさか、跳ね返した――?」
リリを振り返った重信の左手には、“朔風赤光”と同じ赤い輝きが宿っている。ふつうなら刃として使う赤光を、重信は盾か鏡のように使ったのだった。
「よくいうだろ? 正確な狙いほど読みやすいとかかわしやすいとか」
「ちっ……!」
リリは流れ弾で傷ついた二の腕に赤毛をひと房巻きつけて止血し、背後の手摺のところまで飛びのいた。
「――癪に障るけど、今夜はここまでにしときましょ」
「おい、それはさすがに調子がよすぎないか? ここまでやっておいて、旗色が悪くなったらさっさと逃げるとかないだろ」
「まあ、その子が犠牲になったことについては胸は痛むわよ? けどね、それでもこっちは好き勝手に命の捨てどころを決められないわけ。判る?」
「判らないな。……判ったのは、おまえがずいぶんとズルい女だということくらいだ」
あらためて右手で赤光を構え、重信はリリに迫ろうとした。
しかし、その出鼻をくじくように、リリが右手をかかげて待ったをかけた。
「動かないで。――あんまりやりたくはないけど、この状況じゃ確かにズルい女になりさがるしかないのよね」
「……何をいっている?」
「わたしの髪の先っちょ……どこにあるか判る?」
「――?」
赤い蛭が音もなく静かに這い寄ってくるのを見逃さないよう、重信も自分の周囲にはたびたび視線を配ってはいた。だが、リリにそういわれるまで、彼女の髪の一部が屋上の手摺の間から向こう側に垂れ落ちていることに気がつかなかった。
リリは脂汗をにじませながら、それでも不敵に笑った。
「……わたしが充分にこの場から離れるまで、その場から動かないでよね? もしわたしに手を出そうとしたら、わたしの真下の部屋に住んでるしあわせなご家族がどうなるか判らないわよ?」
「やってみろ。騒ぎになるぞ?」
「騒ぎになって困るのは、たぶんそっちも同じよね?」
「……おれも心は痛むが、縁もゆかりもないご家族の命を捨ててでも、ここであんたを始末したほうがいいかもしれないな」
「かもしれないし、そうじゃないかもしれない。……じゃあ、わたしは帰るわね?」
じっと重信を見据えたまま、リリはひょいと手摺に飛び乗った。
リリの言葉におそらく嘘はない。重信がリリに手を出そうとすれば、リリはどんなせまい隙間からでも侵入できるあの髪を使って、マンションの住人を殺害するだろう。重信がリリを無力化するまでに、どれだけの人間が犠牲になるかは判らない。いずれにしても、リリひとりの命と無関係の人間たちの命――それらを天秤にかけてどちらが重いかを測る権利は重信にはなかった。
もしこれが、マンションの住人を人質にして重信自身を殺そうというのであれば、重信も躊躇なく反撃に出ていただろう。もともと重信は、美咲以外の人間の命をさほど重視していないが、だからといってほかの人命を軽視していたのでは、霧華たちとの関係も悪化し、美咲を守っていく上で大きなマイナスにもなる。
「――――」
結局、重信は居合の構えのまま、リリが大きく跳躍してこの場から離脱するのを見送った。彼女の長い髪がしゅるしゅると縮み、マンションから完全に離れたのを確認してから、“
「……ここで深追いするのもな」
ほかに何もなければリリを追いかけてもよかったが、今はそれよりも霧華たちのことが気になる。重信は脇腹の傷を押さえ、血で汚れていない手でスマホを操作した。
「……?」
美咲からも霧華からも返事が返ってこない。嫌な予感がしてすみれや石動にもメッセージを飛ばしてみたが、こちらも梨の礫だった。
「……冗談じゃない」
リリたちを相手にしていたときよりも遥かに強い緊張、そして焦燥感が重信の背中を駆け上がってくる。この場の処理を純にメッセージを入れると、重信は夜の闇にまぎれるようにして大きく跳躍した。
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