第六章 陽炎の立つ夜 〜第五節〜

「――だってエローダーって異世界の住人で、それがこっちの世界の人間の身体を乗っ取る形で侵略してくるんでしょ?」

「……確かにそうね」

“戸隠機構”では、エローダーとは異世界からこの世界へと精神だけで飛ばされてきて、この世界の人間の肉体を乗っ取る侵略者だと定義している。もしあの男が自身の“スキル”によって異世界の住人をこの世界に召喚できるのだとすれば、それはもはや、これまで霧華たちが出会ってきたエローダーとは似て非なる存在といえるだろう。

 すみれは美咲にライトを渡し、ポケットからスマホを取り出した。

「……ともあれ、今はまず葉月ちゃんに状況を知らせておきましょう。ザキくんは先に弥生ちゃんのスマホがある場所を確認してから――」

 唐突に途切れたすみれの声に代わってあたりに響いたのは、トンネル内を流れるわずかな水音よりよほど大きな、あふれ出した鮮血がコンクリートの床に落ちて跳ねる音だった。

「滝川さん――」

 小さく悲鳴をあげた美咲が、すぐに霧華の手を引いて走り出した。

「とっ、戸隠さん! 早く!」

「――――」

 霧華は呆然と目を見開き、ゆっくりと崩れ落ちるすみれを肩越しに見つめていた。強引に手を引かれて走りながら、血の海に倒れ伏すすみれと、その背後に立つ男を見つめていた。

「どうして――」

 男は右手についた血を無造作に振り払い、すみれをまたぎ越して霧華たちを追ってくる。先を行く少女たちに追いつこうと歩調を速めるでもなく、悠々と――あるいは淡々と、霧華たちのあとを歩いてくる。双方の距離はどんどん広がっていったが、その事実が霧華の心に落ち着きを取り戻させることはなかった。

「また、判らなかった――」

 何の前触れもなく、いきなりすみれの胸を背後からひと突きしたその刹那まで、霧華は男の存在を感知できなかった。ドラゴンを呼び出した時と同じく、霧華がその存在に気づいた時には、男はそこにいるのである。

「ま、まさか、石動先生、やられちゃったんじゃ――」

「先生は大丈夫。まだ大丈夫」

 今の状況から推測すれば、これはおそらくエローダーたちの罠だったのだろう。傷ついた弥生を囮に、レーダー役の霧華をおびき寄せて始末する――その可能性をまったく考えていなかったわけではないが、まさかあんな特殊な“スキル”を持ったエローダーに急襲されるとは完全に予想外だった。しかし、だからといって浮足立っているわけにはいかない。霧華は美咲の手を握り返し、必死に心を落ち着けようとした。

 戦うための“スキル”がないとはいえ、霧華はリターナーで、しかも美咲より年上だった。みずから“戸隠機構”を組織し、リターナーたちを集めてエローダーと戦ってきた自分が、何の能力も持たない美咲を守らずにいて、この先どうやって仲間たちを率いていけるのか。重信に対する面目もあるが、それ以上に、ふだんただ傷ついていく仲間たちを見守るしかできない自分への負い目や苛立ちが、霧華に決意を固めさせた。

 もしかすると、組織の長としては、どんな犠牲を払ってでも自分が生き延びることを優先させるべきなのかもしれない。しかし、百歩ゆずってそうした犠牲を払わなければならないとしても、それはそうしたことも呑み込んでついてきてくれている“機構”のリターナーたちだけでなければならない。美咲はただ成り行きでこちらの事情を知ってしまっただけの一般人であって、たとえ重信との約定がなくとも、守らなければならない存在だった。

 霧華は足を止め、静かにあたりを見回した。

「戸隠さん!? にん、に、逃げなきゃ――」

「……慌てても意味ないから」

 その場で足踏みしながら急かす美咲を制し、霧華は首を振った。

 ここまで離れても、霧華の“天耳通”は石動の存在を感じ取っている。そのそばに感じる異質な反応は、おそらくあのドラゴンのものだろう。どうやらあのドラゴンにもなにがしかの“スキル”を持っているらしい。かなり弱くなってはいても、すみれの反応もまだ感じ取れるし、さらに遠い場所にも弥生のものとおぼしい能力者の反応を感じる一方で、あの男の存在は感じない。

 霧華は美咲と並んで湾曲した壁を背負って立った。

「……現れる直前までわたしにも感じ取れないということは、考えられる可能性としては、わたしの探知範囲外から一瞬で接近できるくらいに高速で移動できる“スキル”を持った敵か、さもなければ」

「あ! しゅ、瞬間移動とか?」

「…………」

 霧華は小さくうなずいた。もしそんな敵が相手なら、霧華たちが走って逃げたところで焼け石に水、それどころか体力を無駄に消耗するだけだろう。

 霧華は美咲を見つめ、

「……不安だと思うけど、ここからは、田宮さんひとりで逃げて」

「えっ!?」

「エローダーはリターナーの居場所を感知できる。もしあの男が瞬間移動のような“スキル”を持っているんだとしたら、たぶんわたしの足でどこに逃げても無駄だから」

「で、でも――」

「逆にいえば、田宮さんだけで行動していれば、あの男に見つかる可能性は低いし、そもそも彼の狙いはたぶんわたしだと思う。わたしといっしょにいると、あなたまで巻き込まれてしまう」

「ちょ……っ!」

 美咲をその場に残し、霧華はもと来た暗いトンネルを戻ろうとした。ほんのわずかにでも生き延びる確率が高いほうを選ぶのであれば、美咲とはここで別行動を取るべきだろう。

 しかし、その手を美咲が掴んで引き止めた。

「だ、駄目だって! 戸隠さん! 危ないから!」

「あなたを巻き込むよりはいいから」

「いやいや、そんなのあとでわたしがのぶくんに何かいわれちゃう!」

「逆。あなたをこうして危険にさらしている時点で、もうザキくんに申し訳が立たないから。もしこの上あなたに何かあったら――」

「だ、だとしても! わたしが嫌なの! 誰かを犠牲にして自分だけ助かるとか――」

 美咲は半泣きになって霧華を引き止めていたが、急に何かを思いついたように、霧華の手を掴んだまま同じ方向へ走り出した。

「た、田宮さん――?」

「滝川さんを連れて先生のところに戻ろう! うん、そうしよう!」

 肩越しに振り返った美咲は、涙を拭ってぎこちなく笑っていた。

「――もしかしたらもう先生があのドラゴンをやっつけてるかもしれないし、葉月ちゃんだってこっちに向かってるんでしょ? なら、先生と合流したほうがいいよ! わたしたち、戦う力なんてないんだから!」

「だけど――」

 霧華は美咲のそのささやかな希望を打ち砕く現実を突きつけることができず、口を閉ざした。実際には石動のそばにはまだドラゴンの反応を感じていたし、葉月だと思われる反応は少し前からほとんど移動していない。代わりにそのすぐそばに、別の能力者の反応が感じられる。もしそれが山内か美和子のものであったなら、ぐずぐずしていないでいっしょにこちらに移動しているだろう。ということは、葉月が別のエローダーと接触してその場で戦闘に突入したと考えたほうがいい。

 つまり――どちらに向かって走ろうとも、少女たちを助けてくれる味方はいない。ならばせめて美咲だけでも敵を呼び寄せる自分から離れてほしいと願う霧華の思いは、存外に責任感の強いこの少女には通じないようだった。

 走りながら美咲はいった。

「……別にわたしだって、自分が後味の思いをしたくないからって理由だけで、戸隠さんといっしょに行動してるわけじゃないから」

「え……?」

「わたしだって、あの男の“スキル”を目にした目撃者でしょ? エローダーからしたら、どっちかというと口封じしたいはずじゃない?」

「それは――」

「あの男は、リターナーである戸隠さんの居場所は感じ取れるけど、凡人のわたしの居場所は感じ取れないんだよね? なら、ここでわたしを逃がしたら、のちのち面倒なことになりかねないって判断するかもしれないでしょ?」

「――――」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る