第六章 陽炎の立つ夜 〜第四節〜

「豪雨の時とかでもないかぎり、ここが水浸しになるなんてことはないから安心しろよ。さっきの川の水位、見ただろ?」

「最近はゲリラ豪雨も多いけど、さすがにね」

 そういって小さく笑ったすみれは、天井を見上げて言葉を続けた。

「……ところでお嬢さま、あとどのくらいですか?」

「よく判らない……すごく遠くにいるのか、単に反応が弱くなっているのか……でも、方向はこのままで間違ってないわ」

「正直、わたしは閉所恐怖症というか、こういう圧迫感のある場所って苦手なんですけど」

「それ、苦手じゃない人いるんですか?」

「そりゃいるだろ。トンネルマニアとか下水道マニアとか」

「え、そんな趣味の人っているんだ……」

 美咲とすみれが顔を見合わせて苦笑する。彼女たちがまだそういう表情を浮かべていられるのは、近くに敵の気配がないからだろう。完全に安全なわけではないが、それでもある程度の緊張感の中に、どこかほっとするような安堵感が入り混じって、霧華もつられて口もとをほころばせかけた。

 まさにその瞬間、それを狙っていたかのようなタイミングだった。

「!? 先生!」

 霧華は悲鳴にも似た甲高い声とともに石動の袖を引いた。

「どうした!?」

「いきなり誰かが――」

 エローダーがいる現場にみずからで向いたことはこれまでにも何度もある。じかに命を狙われたこともある。だが、こんな経験は初めてだった。

 まるでそこに瞬間移動してきたかのように――霧華は自分の背後五メートルほどのところに、ついさっきまではまったく感じなかった能力者の気配を唐突に感じたのである。

「!」

 石動は霧華にマグライトを渡すと、美咲とすみれを自分の背後にかばうように押しやった。

「おまえ……?」

 石動はじっと目を凝らし、そこに現れた男を見据えた。

「やたら足の速いホームレス――ってことはないな。俺が俺たち以外の足音を聞き逃すはずもなし……」

「…………」

 シンプルなTシャツにジーンズにパーカーといういでたちの男は、サングラス越しに霧華たちを見つめている。石動は両手を開いて腰を落とし、油断なく身構えたまま、肩越しに霧華に尋ねた。

「……どう見える、戸隠? こいつはリターナーか、エローダーか?」

「わ、判りません……」

「は?」

「い、色がない――ないんです」

 霧華にとって友好的な人間は、おおむね明るい緑のオーラをまとっているように見える。逆に敵意や殺意をいだいている人間――特にエローダーたちは、燃え上がるような赤いオーラをまとっている。

 しかしこの男には、どんな色もついていない。敵意もなく、かといって友愛の感情も、恐怖や怯えを意味する青白さもまとっていない。まったくの無色だった。

「そんなことあるのか!?」

「この人がわたしを認識していないか、さもなければ、感情を持たない人間なら、もしかすると――」

「……ま、どうでもいいか」

 一瞬で動揺を鎮めたのか、石動は静かに前に進み出ると、男に問いかけた。

「――ハナっから決めつけるのは悪いが、たぶんおまえ、エローダーだよな?」

「……そうだ」

 抑揚に欠けた男の声が返ってくる。

「こりゃまた素直なことで……なら、ここに出てきたのは俺たちを始末するためか? 熊谷さんはどうした?」

「……おまえと会話する必要はない」

「!」

 男が右手をかかげる。それに反応したのか、石動は両手を突き出し、そこに“アストラル・シェル”で力場の壁を作り出した。いつもの石動なら、一も二もなく不可視の鎧をまとって男に踊りかかっていただろうが、おそらく背後にいる霧華たちの安全を確保することを最優先に考えたのだろう。

「……?」

 守りを固めて相手の出方を見ようとした石動の眉間に、深いしわが走る。右手をかかげた男はその場から一歩も動こうとはせず、代わりに、人差し指で虚空に大きな円を描いた。

「あ? 何の真似だ?」

「……おまえと戦う必要もない」

 そう呟いた男の姿が不意にゆがむ。石動と男の間に陽炎のようなものが立ち昇り、それが周囲の光景を屈折させているようだった。

「すみれさん!」

「は、はい! ――ふたりとも、こっちへ!」

 呆然としていたすみれは、石動の呼びかけを聞くなり、霧華と美咲をうながして石動たちとの距離を取った。

「……!」

 その間もじっと男の様子を窺っていた霧華は、その陽炎に真っ赤な“色”がつくのが判った。正確には、陽炎の向こうから、霧華たちに対して激しい敵意を持つ何かが現れようとしているのである。

「先生、気をつけて! 何か出てくる!」

「出て……くる!? 何がだ!?」

「来ます!」

「!?」

 コンクリートで固められた閉鎖空間にすさまじい咆哮がとどろき、油断なく身構えていたはずの石動の身体が大きく押し込まれた。

「えっ!? うそ!?」

「……!」

 美咲が驚きの声をあげる隣で、霧華は驚きに声を失っていた。

 端的にいえば、それはちょっとしたドラゴンだった。トンネルをせまく感じさせる四トントラックほどのサイズで、巨大な口には凶悪な牙、頭からは一対の角が生えている。そして何より、窮屈そうに背中に折りたたまれている翼が、この生物がこの世界には存在しないはずのものだと雄弁に物語っていた。

「ばっ……冗談だろ!? ひさびさに見たぜ、こんなもん――」

 ドラゴンの突進を食い止めた石動のスニーカーの靴底から、ゴムが焦げるような臭いが立ち昇る。ありえないモンスターがこの場に出現したことも驚きだったが、それを真正面から受け止める石動のパワーもまた尋常ではない。

「すみれさん! ふたりを連れてここを離れろ! こいつ、火を吐くかもしれねえ!」

「は、はい!」

 すみれにうながされ、霧華たちは駆け出した。

 霧華が飛ばされた異世界――“機構”の分類でいう第一異世界は、比較的ふつうの、中世ヨーロッパ風の世界で、魔法はあってもあの手の幻想的な生物は存在していなかった。少なくとも霧華自身が遭遇したことはない。だが、異世界生活の長かった石動は、ドラゴンとの邂逅も初めてではないのだろう。ならば対処も可能なのかもしれない。

 ただ、それはそれで、非常に厄介な可能性を想定しなければならなくなる。

「――ね、ねえ、戸隠さん」

 断続的なドラゴンの吠え声を背中で聞きながら、美咲が霧華に声をかけた。

「もっ、もしかしてさっきの男の人ってさ、いわゆるあれかな?」

「あ、あれって何なの、美咲ちゃん?」

「あれですよ、ほら! 召喚魔法? みたいな? 滝川さんが僧侶だとすると、あの男の人は、召喚士ってことなんじゃないんですか?」

「…………」

 やけに早口な美咲の言葉に、霧華は何もいえなかった。あのドラゴンを目の当たりにした時に霧華の脳裏をよぎったのが、まさに美咲が口にした可能性だったからである。

「……すみれさん」

 女三人、息を切らせて数百メートルほど走ってきたところで、霧華は大きく深呼吸してから切り出した。

「……さっきのあの男が、この世界にエローダーたちを呼び込んでるという可能性、あると思いますか?」

「え……?」

「もしあの男が異世界からドラゴンを召喚したのだとして――その“スキル”で、仲間のエローダーたちを呼び寄せている可能性は?」

「……判りません」

 すみれは背後の闇を振り返り、胸もとに手を添えて大きくかぶりを振った。

「ちょっとまだ……わたしもあんなのを見たのは初めてで――」

 すみれが飛ばされた第二異世界も、霧華が経験した第一異世界とほぼ同様の、比較的理解しやすい場所だったという。第一異世界と第二異世界が実は同一の異世界だった可能性もある。ならば彼女にとっても、あんなドラゴンは驚愕の存在でしかないだろう。

 しかし、霧華たち以上に異世界の存在から縁遠いはずの美咲は、意外に落ち着いた様子で何か考え込んでいる。

「……田宮さん……?」

「わたしは――何か違うと思うんだけど」

「何が?」

「だから、あの召喚士がエローダーたちをこの世界に呼び寄せてるって話」

 どうも美咲の中では、あの茫洋とした男は完全に召喚士ということになっているらしい。

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