第五章 這い寄る夕闇 〜第七節〜
「長野? 長野県? 何でだ?」
「のぶくんのおじいちゃんがひとりで長野に住んでるんだけど、ついさっき救急車で運ばれたって知らせが来て――」
「え!? 大丈夫なの、それ?」
「そのへんはまだ……でも、のぶくんにはもう身寄りがそのおじいちゃんしかいないし、おじいちゃんにしてものぶくんが唯一の肉親なんで、それでまあ……急だったんで、みんなには知らせてる暇がなくてごめんって」
「そういうことか……まあ、慶事ならともかく、クラスのグループチャットで回すような話でもないしな」
眼鏡をくいっと押し上げ、桐山は京川を振り返った。
「……おまえが騒ぐから田宮が教えてくれたけど、たぶん本当なら、先生だって伏せとくはずの話だからな? おまえ、絶対によそで勝手に話すなよ?」
「よそでっていうのは学校の外でってことだよな? 大丈夫だって、オレを信用しろよ」
「学校外だけじゃないっしょ。美咲が今、ここだけの話っていったの聞こえてなかったわけ、あんたは?」
夏帆が舌打ちとともに京川を睨みつける。京川は夏帆のことが好きだという話だから、彼女からきつくいわれればさすがにおとなしくなるだろう。美咲はほっと胸を撫で下ろしつつ、同時に、会ったこともない重信の祖父を危篤状態にしたことを心の中で詫びた。
「――おう、田宮」
教室内の片づけを夏帆たちに任せ、使い終わったボウルを家庭科室に運ぼうとしていた美咲を、ちょうど職員室から出てきた石動が呼び止めた。
「……さっき古田先生のところにザキから電話があって、聞くでもなく聞いちまったんだが」
「のぶくんのおじいちゃんの話ですか?」
「おまえのところにも連絡来てたか」
「……そういう体でごまかしておいてくれって」
溜息交じりにうなずく。もし何もなければ、あしたは重信といっしょに水無瀬祭を回りたいと思っていたけど、長野に住む危篤の祖父のもとへ向かったといういいわけを使ってしまったのでは、重信もあしたは学校には顔を出せないだろう。
「そいつは残念だったな」
「別にいいんです、のぶくんが無事なら」
「しかし、ってことはおまえ、帰りはひとりか」
「そうですけど……」
「なら、ホームルーム終わっても勝手に帰るな。ちょっと戸隠やすみれさんと話し合ってみる」
「え? な、何です?」
「だから、ザキへの義理立てもあるから、おまえをひとりで帰すわけにもいかんだろ? 家まで送ってってやるよ」
美咲がふたたびエローダーに狙われることのないよう、重信がつねに気を配っているのは判っているけど、正直、美咲は少しだけ重信が神経質すぎると思っている。実際に美咲が見の危険を感じたのはゴールデンウィーク後の一度きりで、それからはそういう兆候すら感じたことがない。
ただ、美咲も自分のその考え方を、もしかしたら感覚が麻痺しているのかもしれないと思うことがあるので、石動にそんなことはいわなかったし、もちろん重信にもいったことはない。重信はあの通り淡々とした少年で、時に真正面から正論をぶつけてしまうような、融通の効かない一面も持っているけど、それでも彼が自分のことを思ってくれているのは感じるし、それを疑ったことは一度もない。
いったん石動と別れ、家庭科室で汚れたボウルや泡立て器を鼻歌交じりに洗いながら、美咲は重信が無事に生還してくれることを信じ、祈っていた。
それがとても他人ごとのようなものの考え方だったということに、この時の美咲はまだ気づいていなかった。
☆
水無瀬祭から帰宅してきた泪は、店の二階にある自室で着替えをすませると、マスターたちが待つ一階に下りていった。
「……どんな感じです?」
「クロコリアスくんたちかい?」
マスターはグラスを洗う手を止めることなく、カウンターの上に置かれたスマホを一瞥した。
「ま、彼も取り込み中だからねえ。こっちからせっついて状況を聞くというのもあれだし、向こうから状況を伝えてくるのを待つしかないんだが――今のところ、かんばしくはないようだね」
「どうしてわたしたちにはお呼びがかからないのって腹立ってたけど、こうなるとむしろ呼ばれなくてよかったわぁ」
大雑把に床に掃除機をかけていた麻子が冗談めかして笑った。
「……そんなに旗色が悪いんですか?」
「今のところ、だよ?」
「祐介さんはそういうけどさ、わたしとか、クロコリアスさんの強さとか何も知らないじゃない? そこまで信用していいわけ?」
「麻子さん……クロコリアスくんを信用できないっていうのは問題だよ? この世界に来てしまった以上、私たちと“神託評議会”をつなぐのは彼だけなんだし」
「そこが問題なのよねえ……そのせいで、わたしたちは彼にしたがわざるをえなくなってるんだもの。……ねえ、泪ちゃんはどう思う?」
掃除をサボってソファに腰を下ろした麻子が不意に泪に話を振ってくる。大人たちの顔をぼんやりと見ていた泪は、思わず的はずれなことを口走ってしまった。
「……マスターって、祐介って名前なんですか?」
「は? ――いや、うん、ここでは町田祐介って名乗ってるけど……まさか泪ちゃん、私の名前がマスターだって思ってたわけじゃないよね?」
「それはまあ……」
考えてみれば、住所をここに変更する際、学校に提出する書類で目にしていたことがあったはずなのに、まったく記憶に残っていなかった。正直、マスターの本名などどうでもいいと思っていたのだろう。
泪は眼鏡を押し上げ、静かにうなずいた。
「……姪なのに叔父の名前を知らないというのは不自然なので、覚えておくことにします」
「何か嬉しいねえ」
「じゃなくて! クロコリアスくんのことを話してたんだけど?」
「まあまあ、落ち着いてよ、麻子さん」
「さっき旗色が悪いっていってましたけど、実際どうなんです?」
「具体的に誰ってことは判らないけど、もう四、五人はやられてるみたいよ? この調子でクロコリアスくんまでやられちゃったらどうするわけ?」
「さすがにそれはないと思うけどなあ。彼は私なんかより強いわけだし」
「わたしは祐介さんの強さ自体知らないんだけど?」
「そこはまあいずれ……ね?」
「そうやっていつもはぐらかすし!」
「…………」
マスターと麻子のやり取りを見て小さく笑うと、泪は店の前に看板を持ち出し、コンセントを差した。
これまでの泪にはマスターの姪を演じているという意識が稀薄だったが、麻子はマスターと内縁関係にある女という役柄をうまく演じている。あるいは、演じているというよりあれが麻子の素なのかもしれないが、いずれにしても、今のあのふたりはそういう関係性の男女のように見えた。泪にももう少しこの世界の住人になりきるための努力は必要だろう。
その時、泪のパーカーのポケットの中でスマホが震えた。画面を確認すると、早石の名前が表示されている。
「…………」
最近は、こうして早石とメッセージのやり取りをすることが増えた。少なくともふつうの女子高生を演じるという意味では、泪もそれなりにうまくやれていると思う。
ただ、ふと不安に駆られたのは、ほかのエローダーたちが倒されているという知らせを聞かされた直後だというのに、こうして早石とやり取りをしていることに心が浮つく感覚があると気づいた瞬間だった。
自分は少しずつ変わっている。この世界で生きていくことに対する気構え、心持ちが徐々に変わっててきいるという自覚がある。
ただ、その変化が正しいかどうか、泪には自信が持てない。
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