第五章 這い寄る夕闇 〜第六節〜

「……きみのほうこそ大丈夫か? 顔色がよくないような気がするんだが」

「えっ? あ、うん、少し疲れただけ……」

 そう答えながら、葉月は自分の両手をさかんにこすり合わせている。それはまるで、手にこびりついた汚れをこそぎ落とそうとしているかのようだった。「…………」

 おそらく葉月は、まだエローダーを倒すこと――殺すことに慣れていないのだろう。夏休みの終わりに“初体験”をすませたばかりの彼女にとっては、いくらそれが人々のため、霧華のためと頭で理解してはいても、心のほうにはしっかりと忌避感が残っている。それがためらいとなって戦う彼女の足を引っ張らずに勝利できたのは、もしかすると運がよかったのかもしれない。

 いつもの重信なら、わざわざそんなことを指摘して、今の葉月をさらにナーバスにさせるほどお節介な真似はしない。ただ、今ここで何もいわなかったら、葉月はこの精神状態のままでまた敵との戦いにおもむくだろう。

 重信は繰り返し葉月に尋ねた。

「本当に大丈夫か?」

「だから大丈夫だってば」

「エローダーを殺すのにためらいがあるのは悪いことじゃないよ、葉月ちゃん」

 重信と同じことを感じていたのか、山内がおだやかな口調でいった。

「それが人間としての正しい状態だからね。……ただ、私らはそれでも戦わなきゃならないわけでしょう? 戦う時はそういうのは割り切らなきゃ」

「……判ってます」

「まあ、やるせない話だが、このへんはもう場数を踏んで倫理観を麻痺させるしかないとは思うが」

 山内が切り出してくれたことにほっとし、重信はうなずいた。

「……ただ、見るからに今のきみは動揺しているようだ。戦い続けるにしても、ここで少し休んでからにしたほうがいい」

「そうだね……ちょうどいい、包帯を巻いてくれるかい、葉月ちゃん?」

「……はい」

 葉月が山内の傷口を消毒し始めたのを見て、重信は先に地上に向かおうとした。

「――ザキ」

「ん?」

 自分の手もとを見つめたまま、葉月は重信を呼び止めた。

「ついでだからいっとくけど」

「何だ?」

「お嬢や“機構”がわたしたちにそこまで信頼を置いてないって話」

「ああ……あれがどうかしたのか?」

「……あっちから戻ってきたばかりの頃、わたしは何をしていいか判らなくなってた」

 そうすることで、自分自身の心を落ち着かようとでもしているのか、葉月はゆっくりと一定のペースで山内の腕に包帯を巻いていく。その横顔は何かを深く思い詰めているようで、彼女なりに何かを決意しているのかもしれない。

「そもそもあっちに飛ばされる前から、自分は何のために生きてるのかよく判らなかったし、毎日つまらなくてやりたいことも見つけられずにいた。だけどわたしは、お嬢に会ってその理想を聞いて、自分の力の使い道が判ったと思った。お嬢はわたしにそれを教えてくれた。お嬢がわたしに生き甲斐をくれたんだよ」

「そうか」

「あんたに判りやすく時代劇っぽくたとえるなら、お嬢はわたしにとってお殿さまみたいなもので、わたしは武士なわけ。だからとことん尽くすのがわたしの生き方なの。もしその中でお嬢が自分を裏切ったとしても恨みはしないし、たとえ信用してくれていなかったとしても文句はいわない。だからあれこれ秘密にされていたからって怒ったりしない。判った?」

「それは判ったが……なぜ今その話をする?」

「だからついでっていったでしょ!」

「は、葉月ちゃん、きつすぎるよ……」

「あ……ご、ごめんなさい」

 思わず思い切り包帯を締め上げてしまった葉月は、山内の悲鳴に慌てて手をゆるめた。

「つらつらと説明してくれたところを悪いが、おれは別に時代劇好きでもなければマニアでもないから、きみのそのたとえは今ひとつピンと来ないな。むしろそれは、身勝手な男に尽くす女みたいな考え方じゃないのか?」

「――――」

 重信のその言葉に、葉月はしばらくぽかんとしていたが、やがてその眉間に深いしわが寄ったのを見て、重信はさっさと歩き出した。

「おれは別の敵を釣りにいってくる。何かあったら連絡をくれ」

 重信への怒りで葉月のためらいが一時的にでも消えるのなら安いものである。葉月が何かわめいているのが聞こえたような気がしたが、あとのフォローは山内に押しつけ、重信は血臭ただよう地下から這いずり出た。

 ビルとビルの狭間から射す西日は、すでに暗い茜色にくすんでいる。水無瀬祭の一日目ももう幕引きが近い。

「……きょうはもう戻れそうにないな。田宮くんにはともかく、結城さんや桐山たちにどういいわけをしたものか――」

 乾いた笑みを浮かべ、重信は嘆息した。


          ☆


 水無瀬祭はこの土日の二日間にわたって開催される。その初日もすでに午後四時半を回り、閉幕の時間を迎えていた。

「……結局あいつ戻ってこなかったじゃねーか。どこで油売ってんだ?」

 あまりものの冷えたパンケーキをもそもそと食べながら、京川が不満げな顔を見せる。たぶん、昼すぎに出かけたまま戻ってこない重信のことをいっているんだろう。

 昼すぎにはかなり混み合っていた校舎内も、今はもうほとんど在校生だけになっていて、その落差のせいか、やけに閑散としているようにすら感じてしまう。

 教室内のテーブルをざっと拭いてきた夏帆が、使用ずみの紙皿をゴミ袋の中にぎゅうぎゅう詰め込んでいた藤原に尋ねた。

「――藤原ちゃん、あと生地どのくらい残ってる?」

「もうほとんどないよ。ワッフル用のがあと一個ぶんあるかないかってくらい」

「おー、無駄に作りすぎなくてよかったね」

「それはいいが、粉ってまだ半分以上残ってるだろ? あの量をまたあすの朝からカシャカシャやらされると思うと、今から気が重いな……」

 リーダー格のふたりの会話をもれ聞いていた桐山が、あからさまにうんざりしたような表情を見せた。クレープもパンケーキもうまく焼けない彼らは、調理の手伝いとなると、ボウルの中の生地をひたすら混ぜ続けるくらいしかやることがなかったのである。

 店じまいにいそしむクラスメイトを見渡し、京川が立ち上がった。

「おいおまえら、どうしてオレの言葉を無視すんだよ!?」

「だってどうせ大した話じゃないんだろ?」

「いや、ザキのことだよ! いなくなったっきり戻ってこね―だろ!」

 桐山は腕時計をちらりと一瞥し、

「まあ、初日はもう終わったし、別にいいんじゃないか?」

「は? だってあいつ、昼すぎに消えてからぜんぜん音沙汰ねーだろ! 勝手すぎねえ!?」

「つっても、ザキは開場前から男子の中じゃ一番はたらいてたしなー。クレープ焼く練習もしてたんだろ?」

「おまえはあれか、自分より誰かが楽してるのが許せないタイプか」

「だとしてもおまえよりはザキのほうがはたらいてたろ? おまえ、ただ校内を練り歩いてただけじゃん」

「プラカード片手に焼きそば食べてたって話も聞いてるし」

「うお……! また謎の勢力からのザキ擁護か! いくらあいつが事故で両親を失ったからって甘やかしすぎだろ!」

「……逆にいうと、おまえはすぐにそういう発言をするからどんな時にも甘やかしてもらえないんだと思うぞ?」

「ほんと、空気読めなさすぎっしょ」

「は?」

 京川を中心に、調理スペースの空気が徐々に悪くなっていく。スマホを見ていた美咲は、慌ててそこに割って入っていった。

「あ、あの! ちょっとここだけの話なんだけど」

「どしたの、美咲?」

「あの……のぶくんね、実は今、長野に向かってるの」

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