第五章 這い寄る夕闇 〜第五節〜
今、冷静になって過去の記憶と突き合わせてみれば、マスターたちのいうその少年の“匂い”は、今回初めて感じたものではない気がする。以前、鈴木といっしょにエローダーの残り香を強烈にただよわせる少女を追跡したことがあったが、あの時の“匂い”とよく似ている。
「……たぶん、鈴木さんを倒したリターナーじゃないかと思います」
『それはまた……じゃあ手強いってことだね』
「あと、わたしたちが二階に上がってレモネードを売っている教室に入る直前、同じようにわたしの背中をじっと見つめている女の子がいると思うんですけど。プラカードを手に持ってる子」
『この勤労意欲のなさそうな子ね?』
「その少女もリターナーです。今回の動画に映っている中で確実にリターナーだと断言できるのはそのふたりです」
『そうか……で、きみは大丈夫なの?』
「はい、詳しい話はまた戻ってから」
泪は顔を上げ、少し前まで自分がいた教室の窓を見やった。
「予想通り、彼らにはわたしがリターナーなのかエローダーなのか区別できていないんだと思います。クロコリアスさんが手を回してくれたんだと思いますけど、何人かリターナーが学校から出ていきましたし、今はわたしにかまっている余裕がないみたいで……」
『それは好都合だ。――それじゃ、この情報は私のほうからクロコリアスくんに送っておくから、泪ちゃんは今のうちに戻ってきて。あとをつけられたりしないよう、慎重にね』
「はい、判ってます」
早石が昇降口から出てきたのを見て、泪はスマホをしまった。
「お、お待たせ、高橋さん」
「ううん、気にしないで」
「それにしても、けっこう人が集まってたね。あしたはもっと混むのかな?」
「都内でもわりと名前の知られてる私立高だしね。中学生くらいの子も学校見学がてらにかなり来てたみたい」
早石といっしょにこの学校で数時間をすごして判ったことは、やはりここには“戸隠機構”のリターナーが複数在籍しており、一方で、校内ではそのことを伏せたまま、一生徒としてすごそうという意識があるということだった。
加えて彼らは、周囲の人間を極力巻き込みたくないとも考えている。それは組織としての行動が困難になることを恐れているのと同時に、メンバー個々人の倫理観によるものも強いのだろう。絶対数でおとる泪たちがつけ入る点があるとすれば、まずはそこと考えて間違いない。
だが、同時に泪は奇妙な思いに囚われてもいた。
そもそも自分たちは何のためにこの世界にいるのか――もちろんクロコリアスからたびたび指示は出される。その多くはエローダー同士で連携し、リターナーを倒せというものだった。ふつうの人間を襲うこともあるらしいが、それはあくまでリターナーを釣り出すための工作の一環で、この世界の住人を殺すことそのものは目的ではない。
ならば泪たちがこの世界まで来てリターナーたちと死闘を繰り広げるのはなんのためなのか。
その最終的な目標、根本的な戦う理由を、泪は知らない。おそらくマスターも知らないし、麻子も知らない。クロコリアスなら知っているかもしれないが、おそらく教えてはもらえないだろう。
ただ、“神託評議会”がそう定めた以上、泪たちにほかの選択肢はない。小さな不安や不満、漠然とした恐怖はつねに泪の胸のうちに渦巻いているが、それを押さえつけて戦うのが選ばれた者の使命なのだと泪は思っている。
しかし、きょう泪はひとつ奇妙なこと気づいた。気づいたというより、以前から何となく判っていたことをはっきりと自覚したというべきか。
自分の隣で気恥ずかしげに笑っている少年とすごしている間は、そんな不安も不満もすべて忘れ、ただ純粋に楽しい気分でいられる。それは、泪がもともといた世界に置いてきてしまった感情だった。
☆
一足飛びに接近して斬りかかった瞬間、重信の身体が大きく跳ね飛ばされた。
「……! なるほどな」
四角く角張ったコンクリートの柱に激突する寸前、態勢を入れ替えた重信は、柱を両足で蹴ってふたたび女に肉薄した。
「――――」
葉月に負けずおとらず派手な髪色をした化粧の濃い女は、重信に向かって大きく息を吸い込んだ。
「だいたい判った。……悪いな」
そのタイミングで、重信は右の中指をはじいて“印地”を飛ばした。殺傷力は低いが、弾速はきわめて速い。軽く身体をのけぞらせて攻撃態勢に入っていた女に、それをかわすことは不可能だった。
「ぐ――っ」
すでにここまでの攻防の中で、重信はこの女の武器が彼女自身の声だと見抜いていた。細く、短く、極限まで絞って発せられた吐息にも似た声は目に見えない針となって重信を襲い、すべてを吐き出すようなわめき声は、目に見えない盾となって彼女を守る。重信も初めて対峙するタイプの“スキル”の持ち主だった。
しかし、攻防どちらも声でおこなうと判れば対処もできる。
女の意識の間隙を縫うように走った光の礫は、女の細いのどを鋭く打ち据えていた。直撃ではあっても致命傷ではない。
「が……ほんの数秒でも声が出なければ何もできないのと同じだろう?」
先ほどは女が張りめぐらせた音の障壁によってあっさりはじき飛ばされたが、今度は邪魔されなかった。重信はのどを押さえてよろめいた女の懐へと一瞬で入り込み、腰に添えた左拳から赤い光の一刀を抜き放った。
「……!」
女はどうにか後ずさりつつ、何か叫ぼうを口を開いたが、重信が耳にしたのは、隙間風のようなかぼそい呼吸音だけだった。
「…………」
重信が女のかたわらから飛びすさった直後、女の口からあふれ出したのは、目に見えない針を飛ばすささやきでもなければ不可視の盾と化す叫びでもなく、気味の悪い水音をともなうおびただしい血潮だった。
びしゃりと赤い飛沫を立て、女は前のめりに倒れた。細い腰をほとんど切断寸前になる深さで斬り裂かれれば、たとえエローダーであっても致命傷はまぬがれないのだろう。倒れ伏して動かなくなった女のうなじをひと突きして完全にとどめを刺すと、重信は静かに呼吸を整えながらあたりを見回した。
この広大な空間は、地下駐車場として作られてはいたが、営業開始の目処は立っていない。ここが一般に開放されることがあるとすれば、それはおそらくエローダーの脅威が去ってからのことだろう。
「山内さん」
重信はぽつんと一台だけ停車しているリムジンのほうを振り返った。
「――大丈夫ですか?」
「ああ……何とかね」
バンパーに寄りかかり、山内は腕を押さえて苦笑している。そのくらいの元気はあるようだった。
「ここへおびき寄せて仕留めるつもりが、逆に仕留められるところだったよ。面目ない」
「相性が悪すぎたんでしょう。仕方ありませんよ」
山内の“バブルスライム”は、相手に触れなければ効力を発揮できない。今の女のように、遠距離からの攻撃手段と強力な防衛手段を持つ敵に対しては、山内ではただ一方的に攻撃されるだけになってしまう。重信があらたな敵を捜してここへタイミングよくやってきたのは不幸中のさいわいだった。
女の針の吐息を受けたのか、山内の左手には無数の裂傷ができていたが、その出血も止まりつつあるようだった。
「ふう……」
リムジンの車内から救急キットを持ち出してきた山内は、そこでまた腰を下ろし、大きく深呼吸した。
「――ザキ! 山内さん!」
スマホを片手に、葉月がスロープを下りてきた。
「そっちは大丈夫?」
「ちょっと手傷を負ったけど、何とか生きてるよ。ザキくんに助けられた」
「そう……よかった」
ほっと安堵の吐息をもらした葉月の微笑はどこかぎこちない。
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