第五章 這い寄る夕闇 〜第四節〜

 弥生は肩をすくめつつ、周囲にほかに殺気がないか確認した。エローダーたちのようにこちらの存在を明確に嗅ぎつける力がない弥生にとっては、殺気という漠然としたものであっても、それを感じ取って敵の襲撃に備えるのは、もはや生き延びるために必須の、それこそある種の“スキル”といってもいいだろう。

 だが、少なくとも今この近くに、弥生が感じる殺気はひとつ――目の前の赤毛だけだった。少し前まで弥生が戦っていたのは、もっと若い女の姿をしたエローダーだったが、近くにいないのであれば今は忘れてもいい。

「先手必勝――」

 路地裏の薄闇のなかでネオンの輝きのように目につく女の赤毛をじっと凝視する。その瞬間、無造作に弥生との距離を詰めようとしていた女の髪に朱色の炎がともった。

「ちょ!?」

 女はぎょっとして慌てて炎をはたき消した。だが、すぐにまた別のところに火がつく。突然のことに狼狽している女のもとへ、今度は弥生から積極的に踏み込んでいった。

「!」

 常人離れした速度の助走から、女のみぞおちに膝蹴りを叩き込む。対応が遅れた女はまともにそれを食らって大きく吹っ飛んだ。この世界での弥生はあくまで女子大生だが、異世界では素手での戦いの経験をかなり積んできている。ふつうの人間が食らえば、まず間違いなく内臓破裂で即死しかねない一撃のはずだった。

「……さすがにこれじゃ終わらないわよね」

 咄嗟に両手でガードされていたのを察した弥生は、ふたたび女を凝視した。

 弥生の持つ“虫眼鏡”は、肉眼で見つめた物質の温度を急激に上昇させる“スキル”である。ただ、その効果が生じるポイントがそれこそ現実の虫眼鏡が太陽光を集めて何かを焦がすようなごくせまい部分に限定されるため、ひと睨みするだけで敵を火達磨にするような便利なものではない。

 しかも、一点を凝視しづらい動きの速い相手は苦手だし、一度に発火させられるポイントもひとつしかない。弥生が自分の“スキル”を弱いと断言するのはそのためである。

 ただ、それだけに弥生は、自分が生き延びるための効率的な戦い方をつねに考えている。エローダーが相手の場合、“虫眼鏡”でおとなしく焼き殺されてくれることはまずない。だからあくまで“虫眼鏡”は補助として割り切り、最終的には自分の手足で撲殺することにしている。

「…………」

 弥生はすぐさま立ち上がった女の髪を凝視し、ふたたび発火させた。

 弥生の能力で人間の皮膚が発火するほど温度を上昇させるには、かなりの時間、対象を見つめ続ける必要がある。だが、仮にそれだけの時間的猶予があったとしても、せいぜい相手の身体のほんの一部に重度の火傷を負わせることくらいしかできない。

 一方、毛髪なら、一瞬ではないにしても、ほんの一秒ほどで発火させられる。“恩寵”を持つリターナーが、運動能力の劇的な上昇に合わせて身体そのものも頑健さを増すように、強力なエローダーは肉体そのものも常人より頑丈なものだが、そんなエローダーが相手でも、弥生の視線はわずか一秒で髪を発火させられる。

「今が冬場でダウンジャケットでも着ててくれればもっと楽なんだけど……さすがに本革のライダースは燃やせないわ」

「は? 何よ、これ!? あんたがやってんの!?」

 はたき消すそばから次々に髪に火をともされ、女は腹立たしげにわめいた。それ自体は相手へさほどのダメージをあたえられなくとも、牽制としては充分な効果を持つ。特に若い女が相手なら、髪にオイルやスプレーといった引火性の高いものを使っているケースも多く、より効果的だった。

 その混乱の隙をついて女の懐に踏み込み、弥生は相手の襟首を掴んだ。

「ぐっ――」

 ふたたびの膝蹴り、そして背負投げ――容赦なく女を背中から地面に投げ落とし、がら空きの顔面へ拳を叩き込む。

「!?」

 女の顔面に拳がめり込む寸前、不意に誰かが弥生の足首を掴み、すさまじいいきおいで投げ飛ばした。

「くっ……?」

 壁面に激突するのをあやうく回避して着地した弥生は、動揺を鎮めながらあたりを見回した。しかし、あらたな殺気は感じないし、そもそもこの路地裏にあらたに登場したキャストはいない。

「……今のでこっちにとどめを刺せないってことは、あんたにはほかに“武器”がないってことよね?」

「!」

 赤毛の女は半身を起こしてみぞおちをさすった。

「馬鹿力と、あとは小さな火を熾せる力、あとは――何かちょっと調子が悪いカンジがするけど、それもひょっとしてあんたのせい? まあどっちでもいいけど」

 のろのろと立ち上がる赤毛の女を見据え、弥生はじっとりと汗がにじむ拳を握り締めた。もう一度、目立つ赤毛を凝視して火をともし、同時に女に肉薄する。

「ネタが割れたらもうおしまいだって判るでしょ! 往生際が悪いと痛い目見るよ!?」

 嬉しそうにそう叫んだ女の髪がぶわっとふくれ上がった。

「え――っ!?」

 驚きに足が止まった弥生を赤いうねりが包み込む。女の髪がまるで生き物の触手のように長く延びて弥生の手足に絡みついた。

「……!」

 ふつうの人間の髪なら、今の弥生の腕力でなら強引に引きちぎることもできたかもしれない。だが、女の赤毛は一本一本が鋼線のように強靭で、ちぎるどころか四肢の自由を奪われないようにするだけで精一杯だった。しかも、たとえ“虫眼鏡”で焼き切っても、その上からあらたな髪が際限なく巻きついてくる。

「相性ってのをご存じでない? 要するに、あんたの“スキル”じゃわたしには太刀打ちできないってことよ!」

「ふ……づっ!?」

 波打つ赤毛に絡め取られた弥生の身体が力任せに振り回され、今度こそ壁面へと叩きつけられた。その刹那、激しい痛みと衝撃が弥生の肺の中の空気を強制的に吐き出させ、そこにまた赤毛が絡みついて容赦なく締め上げていく。

「は、ぁ……っ……」

 外から客観的に眺めれば、おそらく今の弥生は棺に納められたエジプトのミイラのように見えただろう。それは弥生の視界をふさぎ、呼吸を奪い、さらにはすべての活力すら奪っていくかのようだった。

「…………」

 最後にもう一度、激しくどこかに叩きつけられたところで、弥生の意識は完全に途絶えた。

 家族とともに事故に巻き込まれた時とは違って、その時の弥生は、自分は死ぬのだとはっきり理解していた。


          ☆


 早石がトイレに行っている間に、泪はマスターに連絡を入れた。文化祭の初日もまもなく終りを迎える頃合いで、昇降口付近は多くの人々で混雑していたが、欅の樹の下でスマホをいじる泪に注目しているものはいない。

「――すみません、ちゃんと送れてますか?」

『ちょうど麻子さんと確認してるところだけど……うん、データの破損とかはないみたいだね』

『文化祭ってこんな感じなの? けっこう人が来るのねえ。ときどき聞こえる男の子の声はもしかしてあれ、泪ちゃんのカレシとか?』

 不躾に割り込んでくる麻子の声は、今は無視しておくにかぎる。泪は眼鏡を押し上げ、人の流れを見つめたまま、少し前に送信した動画ファイルについて説明した。

「バッグに仕込んだカメラでわたしの後方の風景を撮影したものなので、もしかしたらピンボケとかきちんとフレームに入っていなかったりするかもしれませんけど、まずわたしが最初の教室に入ってしばらくたった頃に、わたしを確認するために戸口に姿を見せた生徒がいるはずです」

『そうだね……二〇分すぎくらいかな? 確かに戸口に立って、教室に入らずにじっとカメラのほうを見ている男の子がいるよ』

『何だかこの子……泪ちゃんのほうに近づこうとしたところで誰かに呼ばれたみたいに引き返してってるけど?』

「その少年、リターナーです」

『間違いないのかい?』

「はい」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る