第五章 這い寄る夕闇 〜第三節〜
「……確かにわたしは戦えないわね」
「え? でも、みんなといっしょに戦いに出ることもあるのよね?」
「それはそう。……詳しく説明すると長くなるから端折るけど、わたしはたくさんの人間の中からリターナーやエローダーを識別することができる。すみれさんは救護班ならわたしはレーダーみたいなものね」
「へえ……」
美咲は重信がリターナーとして“戸隠機構”の一員となったことは知っていても、そこに所属しているほかのリターナーたちが、具体的にどんな力を持っているのかまでは聞いていない。実際にその目で見たことがあるのも重信と葉月の力くらいだし、霧華の“スキル”の話も初耳だった。
ただ、表情の微妙な変化から察するに、どうも霧華は、仲間ばかりが危険にさらされ、自分は安全な場所で見ているしかない今の立ち位置を心苦しく思っているようだった。
「まあ、戸隠さんはお殿さまみたいなものだもんね」
「……そうかもしれない」
「お殿さまは臆病なくらいがいいっていうし、むしろ前に出て戦わないのが正解だと思うけど」
「理屈ではね」
「もしかしてのぶくん、そういうことでキツいこといったりしてない?」
「……ザキくんが?」
霧華は顔を上げ、まじまじと美咲を見つめた。
「のぶくんてちょっと……何だろ、正論パンチ? そういうのが好きっていうか――昔からちょっとそういう理屈屋っぽいところはあったんだけど、こっちに戻ってきてからはさらに容赦がなくなった感じがするんだよね」
もちろん誰彼構わず論戦をふっかけてねじ伏せるような真似はしない。ただ、いざという時には完膚なきまでに叩き伏せる。いつも空気を読まずにおかしなことをいっては場を凍りつかせる京川が、目下のところその一番の犠牲者といえるが、その矛先が霧華に向いたりしているんじゃないかと思うと気が気ではない。
「彼は、基本的にはわたしの判断を尊重してくれるから、滅多にそういうことはないけど……葉月はよくやり込められているわね」
「葉月ちゃんが?」
「葉月からすると、新参者に大きな顔をされたくなかったんでしょうけど、ザキくんはとにかく最初から強かったから……葉月もいいたいことがあると黙ってられない性分だし、それで何かをいうと、ザキくんに現実を突きつけられるみたいな感じかしら」
「え……? もしかして仲悪いの、あのふたり?」
「それは最初だけ。今はもうそんなにギスギスしてないから。葉月は素直じゃないからあまり表に出さないけど、今はちゃんとザキくんを認めてる」
「うーん……葉月ちゃんがややツンデレっぽいのはわたしも感じてたけど」
「それ、本人にいうと怒られると思う」
「だよねー」
美咲は霧華と顔を見合わせ、あっけらかんと笑った。
☆
日が西に傾いていた。いまだに残暑の暑さが残るこの時期でも、さすがにこの時間になると、吹く風にも冷ややかさが混じり始めている。
「……ひさびさだとやっぱりキツいわ」
タバコを一本、ゆっくり時間をかけて灰に変えた熊谷弥生は、路地裏のビルの壁に背中を預けたまま、重苦しい溜息とともに立ち上がった。
山内と分かれてからかなりの時間が経過している。遭遇したエローダーはひとりだったが、たがいに致命傷はあたえていない。どうにか山内がリムジンを停めている地下駐車場までおびき寄せようとしたが、うまく誘導できなかった。複数の敵を同時に相手取るはめにならなかっただけでも、ここは御の字というべきかもしれない。弥生の“スキル”――“虫眼鏡”は、複数の敵と同時に戦えるような強力なものではないのである。
「……入院前に買ったばっかりだったんだけど」
大きな切れ目が入ってしまった白いサマーコートを一瞥し、弥生は吸い殻を投げ捨てた。しかし、そうぼやいたくせに、実はさほど惜しいとは思っていない。今に始まったことではないが、近頃は特に、いろいろなものに対する執着が薄れていっているような自覚が弥生にはあった。
リターナーになるきっかけとなった事故で、弥生は両親と妹を同時に失っていた。その事実に対する衝撃は、異世界ですごしてきた仮初の人生の間に風化してしまっている。だから、こうして本来いるべき世界に戻ってきても、深い嘆きと哀しみに襲われるということはなかった。
ただ、それ以外の感情が揺さぶられることもほとんどなくなっていた。哀しみもなければ怒りや喜びもない。今は何となく惰性で生きているだけのような気がする。自分のことなのに、気がする、というような他人ごとめいた表現になってしまうこと自体が、今の弥生の生きざまを端的に物語っていた。
要するに、弥生はただ流されている。
病院では葉月を相手に小市民じみた将来設計を語ったりもしたが、あれもほとんどがでたらめだった。悲惨な事故でひとりだけ生き延びてしまった弥生には、九桁に近い保険金がもたらされている。焦って就職先を見つけなければならない必要性はまったくない。こうして“機構”のひとりとして戦っているのも、単に覚醒直後の混乱の中で、霧華たちがいろいろと事情を説明してくれ、わずらわしい手続きなどをすべて肩代わりしてくれたからという、ちょっとした恩返しでしかなかった。それに、エローダーと戦って死ぬことも、さほど怖いとは感じない。完全に世間に背を向けて、家族の命の代償ともいえる保険金を少しずつ崩しながら、淡々と平坦な生活を送ることも可能だった熊谷弥生が戸隠霧華に手を貸しているのは、つまるところそれが理由だった。
もうひとつ、しいて理由を捜すのなら、弥生の死んだ妹が、霧華と同じ年頃の女子高生だったということもあるのかもしれないが、弥生にもよく判らない。
とりあえず今は、霧華の指示を受けてそれにしたがって生きていればいい。あの子のために戦うのも、盾になるのも、余計なことを考えずにすむという意味では、とても楽な毎日だった。
「――さて、と」
さっきまで戦っていたエローダーが今どこにいるのか、弥生には判らない。弥生を手強い相手だと思ったのならすでに逃げたという可能性もあるし、そうでないなら、今もどこかからこちらを監視しているという可能性もある。相手を誘うためにあえて隙を見せたつもりだったが、一服している最中に弥生が殺気を感じることはなかった。
「あらためて考えると、向こうはこっちをすぐに見つけられるのにこっちは見つけられないって、かなりのハンデよね。……仕方ないからいったん山内さんと合流しようかしら?」
そうひとりごち、路地を出ていこうと歩き出した弥生の足が、三歩と進まず止まった。直後、大きく跳躍し、その場から高速で移動する。
「!」
「……やっぱ無理なものは無理なのよ」
少し前まで弥生がいた場所に、長身の女がしゃがみ込んでいた。
「殺気を抑えるとか……面倒臭いっての!」
豊かな赤毛をかきむしりながら立ち上がったのは、グラマラスな肢体を上下つなぎのレザーのライダースに押し込めた美女だった。年齢的には弥生とそう変わらないだろう。
弥生はかたわらのビルの屋上を見上げ、それからふたたび正面の赤毛の女に視線を戻した。
「……あなた、エローダーってことでいい? 少なくとも常人じゃないわよね?」
「わたしがここで違いますっていったらどうすんの? おとなしくわたしに殺されてくれるわけ?」
「はいはい、よく判りました。……まあ、聞く前から判ってたけど」
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