第四章 弱虫の命懸け 〜第四節〜
「戸隠さんは、先日のことを気にしているのか?」
「……気にしていないとはいえないかも」
唇についた粉砂糖をハンカチでぬぐい、少女は小さくうなずいた。
霧華と葉月が短期間とはいえ入院することになったのは、殺意を持たないエローダーの自爆特攻にひとしい攻撃を受けたからだった。今回もそれと同じことが起きないともかぎらないし、たとえそうでなかったにせよ、その一件が霧華の心にしこりとなって残っているのは当たり前のことだった。相手が何者であれ、霧華は目の前で幼い少年に“自殺”されたのである。
「同じことが起きやしないかと不安になれるぶんだけ、きみはおれよりはよほどしあわせかもしれない」
「……え?」
「あんた何いってんの?」
「おれはもうそうは感じないからな」
不審そうにこちらを見る少女たちに、重信はいった。だが、それは決して自嘲ではない。単に事実を述べただけだった。
「――もしそんなテロ行為をされたとしても、おれはただ面倒だなと思うだけだ。きみたちといっしょに後始末に奔走するはめになるのはうんざりするだろうが、だからといって、のちのちまでそのことを引きずったりはしないだろう。おれは子供に殺されかけたこともあるし、子供を殺したこともある。だから、子供の姿をした敵のひとりやふたり、自爆しようがこの手で始末しようが心は動かない。……どうやら摩滅した人間性を取り戻すのは思っていた以上に難しいようだ」
異世界からこの現代日本に戻ってきて数か月、形だけはもとの生活に戻ったようにふるまえている。ただ、闘争や人の死に対する鈍感さは治っていない。美咲を守るという至上命題がなかったら、重信はもっと早くにこの無駄とも思える努力を放棄していただろう。
「……もしそいつが明らかにエローダーだと判断できたら、どうにかおれが別の場所に引きずっていって始末するか、最悪、ここから追い払う。風丘さんは戸隠さんを守ることを最優先で考えてくれ」
「わたしはそれはいいけど……」
ためらいがちに呟き、葉月は霧華を見やった。
そこでようやく重信は、霧華の表情が浮かないもうひとつの理由に気づいた。
「――――」
きつく唇を噛み締めているこの少女は――胸中をつまびらかにしないために判りづらかったが――おそらく、いずれ目の前に立つであろうその能力者が、リターナーなのかエローダーなのか、判断できる自信がないのだろう。もしくは、判断をくだすことそのものを恐れている。
「お嬢……いざって時にはわたしがついてるから」
葉月は霧華の形に手を添え、はげましの言葉をかけた。
「もしすぐに判断がつかなくたっていいよ。時間かかっても、お嬢は正しい判断を下してくれればいい。――だよね、ザキ?」
急に話を振られ、重信は肩をすくめた。
「まあ、それ以外には何もいえないな」
「あんたねえ……! もうちょっと――」
「戸隠さんが感じているのは、多かれ少なかれ、責任ある立場に置かれた者が感じるたぐいのプレッシャーだと思う。きみが感じてしかるべきものだ。きみは多くのリターナーたちを集めてエローダーと戦っている組織の責任者なんだからな。さすがにこればかりはおれや風丘さんが肩代わりしてやることはできない」
「ザキくん……」
「……とはいえ、風丘さんのいいようじゃないが、いざという時にはおれたちが盾になれる。時間は気にせず正確に見極めてくれればいい」
「あんたのそういう理屈っぽいところ、何かムカつくわ。もっとシンプルにいえないわけ?」
「次からはそうするよ」
重信は少女たちから少し距離を取り、先に立って一階へ向かった。
去年は特に意識もせずにいたが、水無瀬祭には他校の制服を着た少年少女たちの姿がとても多い。いつもの数倍の人口密度となっている校内をどうにか一階へたどり着いた重信は、背後の霧華にいった。
「……どのくらい離れてる?」
「ふたつ先の教室の中にいる……と思う。数はやっぱりひとり」
「そうか。なら、ここからはおれひとりで行ってくる。――風丘さん」
「うん、お嬢のことは任せて」
葉月は霧華を廊下の壁際に立たせ、みずからはその前でプラカードをかかげた。ふつうはあの状態で周囲に声をかけて呼び込みをするものだろうが、今の霧華は見るからにぴりぴりしていて、むしろ道行く人々を威圧するかのようだった。
「……戸隠さんの力がモニター越しでも効果を発揮するなら手っ取り早いんだがな」
相手の正体がまだ判らない以上、霧華を正対させるわけにはいかない。今は殺意を押さえていて、目の前にリターナーが現れた瞬間に牙を剥く――そんな狡猾なエローダーが相手だったとしても、重信なら対応できる。
重信は軽く首を回し、少女たちのそばを離れて歩き出した。
☆
その日、制服ではなく私服で出てきたことに、特に深い意味はなかったと思う。制服でいるところを見られ、そこから在籍している高校を調べられて足がつくのを警戒した――というのは、制服姿の同行者がいる時点でいいわけにはなっていないし、実際、
ただ何となく、というのが、おそらく正解なのだろう。どうしてそんな気分になったのかは、いまだに泪にも判らない。
「お化粧して髪まで巻いちゃって……いつもそうやって可愛くしてたらいいのに、どうして地味にしてるわけ?」
出かける時に
いつもと違うバス、違う電車に乗って、
「あ、高橋さん」
「お待たせ、
「いや、別に……僕も二本くらい前の電車で着いたばっかりだし」
ガードレールに腰を預けてスマホを見ていた早石
「ここから歩いて五分だって」
「駅から近いね」
「僕も毎日、バス電車バスって乗り継いで通ってるからうらやましいよ」
おしゃべりをしている泪たちのほかにも、同じ方向へ歩いている人たちは多い。おそらく泪たちと同様、水無瀬学園――水無瀬祭に向かっているのだろう。同年代の少年少女たちの姿も見える。
ただ、その人の流れの中から、エローダーの“匂い”は感じない。泪はひとまずはそのことにほっとした。
「……ど、どうしたの、高橋さん?」
泪の表情の変化に気づいたのか、早石がこちらの顔をそっと覗き込んできた。
「何でもない。ただ、男の子とこうやって出かけるの初めてだから……」
泪が語尾を濁してうつむくと、早石は言葉もなく口をぱくぱくさせ、判りやすいほどに戸惑っていた。
これも想定通りだと小さく微笑み、泪は顔を上げた。
「――――」
泪は以前、仲間に頼まれてエローダーの“匂い”の痕跡を追い、結果的に彼らを水無瀬学園へと送り込むことになったが、その仲間たちは戻ってこなかった。そして今、泪はみずからそこに乗り込もうとしている。
ただ、思っていたほど恐れはない。それは、泪自身がこの世界、この国の人間のメンタリティに充分に馴染み、彼らの取りそうな行動をある程度まで予想できるようになったからだった。
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