第四章 弱虫の命懸け 〜第二節〜

 クロコリアスは缶ビールを投げ渡し、茫洋とした表情のままかぶりを振った。だが、シェルバイトがいうように、もしこの時の彼女に掛け値なしの殺意があったとしても、おそらくクロコリアスは彼女の不意討ちを歯牙にもかけなかっただろう。というより、そういう男でなければ困るというのがシェルバイトの本音だった。

 長い赤毛をかきむしり、シェルバイトはけさ二本目のビールを開けた。

「……意図してやってるわけじゃないとしても、あんたはいつも、そういうふてぶてしい男でいてよね」

「何の話だ?」

「こっちはあんたに命を預けてるんだから、ちょっとやそっとでぐらつくような男じゃ困るってこと!」

「……よく判らないが、ひとまず判ったといっておこう」

「何よ、それ? ホント、テキトーすぎ」

 ビール片手にドレッサーの前に座ったシェルバイトは、クロコリアスのその言葉に口もとをほころばせ、鏡越しに男を見つめた。

「――それより、ゆうべいったこと、忘れていないだろうな?」

「判ってるって。よさげな子を何人か見つくろっておくし、何ならわたしが出向くから」

「ならいい」

 シェルバイトがメイクに取り掛かっているかたわらで、クロコリアスはハンガーにかけていたシャツを手に取っていた。今クロコリアスが身に着けている服はすべてシェルバイトが買ってやったもので、その視点でいえば、確かに男としてのクロコリアスをそこまで気遣ってくれるような女は、彼の周りにはほかにいないのかもしれない。

「――でもさ」

 ヘアターバンで赤毛を押さえ、シェルバイトはいまさらのように疑問を口にした。

「急にそんなにたくさん駒を動かしていいわけ? 向こうにもわたしたちを感知できるヤツがいるのよね?」

「それを見極めるのも目的のひとつだ」

「だとしても、あんたみずから前に出て、ほかにも多くの仲間を使うわけでしょ? もしかしてこれ、しくじったらかなりヤバいんじゃない?」

「失敗した時のことを考えるのは無意味だ。……特におまえは」

「は? あんたね――」

「責任を取るのは俺の役目だからな」

 サングラスとマスクをかけた男の言葉が急にくぐもる。シェルバイトは筆を動かす手を止め、鏡越しに男の背中をじっと見据えた。

「――ねえ、変なこと聞いていい?」

「おまえが俺に聞くことの八割ほどは変なことなんだが」

「それはあんたの感性がまだこの世界にフィットしてないからそう感じるだけだし。……ねえ、あんたはふだんほかの人間の前で素顔を見せたりするわけ?」

「……あまり見せないな」

「食事の時ははずすでしょ?」

「さすがにはずすが、そもそも俺は人前では食事をしない」

 その返答に、シェルバイトはかすかに眉根を寄せた。

「ゆうべあんたは誰の手料理食べたっけ?」

「……俺が作った料理を食べたが」

「じゃない、誰といっしょに食べたっけ?」

「おまえだ」

「ふぅん」

「何だ?」

「何でもない」

「……やはりおまえの聞くことはどこか変だ。何の意味があるのか俺にはよく判らない」

「だろうねー」

 ふふんと小さく笑って、シェルバイトはメイクに戻った。


          ☆


 さいわいに、といっていいのか、当日は薄曇りで陽射しも弱々しく、心配していたほどの気温にはならなさそうだった。

 それでも、暗幕で区切られた調理スペースの中は、ホットプレートが放つ熱が籠もってかなり暑い。その片隅でしゃかしゃかとボウルの中身をかき回していた京川きょうかわは、首からかけたタオルで汗をぬぐってぼやいた。

「……ふつうよ、文化祭っていったら、女の子とあちこち回って恋が芽生えたりするもんだろ? なのにどうしてオレはこんな――」

「誰かと回ろうって約束してるのか? だったらほかのやつに事情話して時間の融通つけてもらえばいいだろ」

 機械のような正確な動きでワッフルを量産しながら、桐山きりやまがその合間に眼鏡を押し上げる。

「つか、だいたいウチのクラスは男子の当日の仕事量ってそんなに多くなくねえ? ほっといたってじきに交代じゃん」

「そうだな。おれ以外は」

 こちらもまた機械のようにクレープを焼き続けていた重信しげのぶは、長友ながともの言葉に小さくうなずいた。

 万事においてがさつな連中の多い男子には、あまり細かい仕事は任せられないという夏帆かほたち女子の総意で、男子は前日までの買い出しやセッティングなどの力仕事を中心にはたらかされてきた。そのぶん、女子たちは文化祭当日の接客や調理担当をメインにおこなうことで話がついている。今この調理スペースの中が男ばかりなのは、この時間、女子たちがランチタイムを兼ねた休憩に出ているからだった。

 重信が焼いたクレープに、きっちり測ってクリームとフルーツを乗せて慎重に折りたたみながら、長友は続けた。

「……あれだろ、んなこといったって、どうせ誰とも約束してないんだろ、京川?」

「これからするかもしれねーだろ!」

「ふだんのおまえの言動を見ている女子が、きょうにかぎっておまえに友好的になるとは思えないけどな」

「はあ!?」

「……そもそもの話」

 かかえていたボウルの中の生地がなくなり、重信はマスクをずらしてひと息ついた。

「文化祭であらたな恋が芽生えるというのは本当なのか? おれには都市伝説にしか思えないんだが、本当に新しくカップルが誕生したりするのか?」

「去年のうちのクラスでは何組かできたぞ? 二年に上がってクラス替えになったらそいつらみんな自然消滅したっぽいけど」

「あれだ、修学旅行と同じだろ。男子も女子も、ふだんの学校生活じゃ見えない面が見えて、それで何かほら、三割増くらいに可愛くカッコよく見える、みたいなよ」

「それな」

「それだとザキはけっこう株上がったんじゃね?」

「あ、何か判る」

 この場に女子としてただひとり残り、男子たちがやらかさないよう目を光らせていた藤原ふじわらさんが、ワッフルにデコレーションしていた手を止めて同意の声をあげた。

「――美咲みさきちゃんからザキくんがクレープ焼けるって聞いた時はどんなもんだろって思ったけど、予想してたよりずっと上手なんだもん。何か料理全般何でもできちゃいそう」

「つまりギャップか!? そこにキュンとなるのか、女子は?」

 目の色を変えた京川に、藤原さんがすかさず冷ややかな言葉を投げかける。

「いっとくけど、京川くんはみんなが思ってた通りというか、思ってた以上に役に立ってないから、今のところ。ただ生地を混ぜるだけなのにたらたらしてるし……間違ってもオレが焼くとかいわないでね?」

「なっ、お、おまえエスパーか!? どうしてオレが考えてることが判った!?」

「おい、ただでさえ暑いんだから少し黙ってろよ。というか、おまえもういい、ほかのやつに代われ」

 京川が持っていたボウルをひったくって重信に渡し、桐山は京川を追い出しにかかった。

「お、ちょっ、おい?」

「万が一の可能性に賭けて、そのへんの女子に声かけてみろ。可能性はゼロじゃない」

「え? ……そ、そうか? そう思う?」

 最初こそ戸惑っていた京川は、明らかに投げやりな桐山の態度にも気づいていないのか、その言葉にそそのかされてその気になっていた。空気が読めない上に非常に単純な少年である。 マスクと手袋をはずし、浮かれ顔で京川が暗幕の向こうに出ていくついでに、重信はそっと顔を出して教室内の様子を窺った。

 重信たちのクラスは、教室の前四分の一を調理スペース、残り四分の三を飲食スペースにしている。椅子と机をそれなりに綺麗に見栄えよく飾って作った席はほとんどが埋まっていて、重信たちが大汗をかきながらはたらかされている理由がよく判った。

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