第四章 弱虫の命懸け 〜第一節〜
ふたりぶんの体臭が染みついたシーツが淫らなしわを描き出す大きなベッドに腰掛け、白い脚をストッキングに通そうとしていたシェルバイトは、自分自身の爪が微細な網目に引っかかった瞬間、頬をひきつらせた。
「ムカつく!」
伝線した真新しいストッキングを壁に投げつけ、シェルバイトは裸のままベッドに寝転んだ。その動きに合わせて、彼女の豊かな赤い髪が大きく広がる。
「――クロコリアス! クロコリアース!」
「……そうわめかなくとも聞こえている」
キッチンから顔を覗かせた痩身の男は、このマンションの世帯主を見て怪訝そうに眉をひそめた。
「仕事に行くと聞いたが、準備しなくていいのか?」
「その前にビール! 冷蔵庫にあるから一本取って!」
「……仕事の前に酒を飲んでいいのか。どんな仕事をしているのか知らないが、たぶん多くの人間は、おまえをうらやましいというだろうな」
「はぁ? あんた、ヒモのくせに何なの? わたしが稼いでるからあんたはこんないい部屋に住んでられるんでしょ?」
「俺は別にここにすんでいるわけじゃない」
実際、クロコリアスは、白と黒のモノトーンでまとめられたこのシェルバイトの部屋に住んでいるわけではない。シェルバイトが呼びつけるとやってくるだけで、それもせいぜい週に一、二度、泊まっていくかいかないかという程度だった。
クロコリアスが差し出した缶ビールを受け取り、シェルバイトは身を起こした。
「……あんた、この世界に来て何年? よくそれで今まで生きてこられたわね?」
「生きていくだけなら特に問題ない。……おまえのように欲深いと、それなりに頭を使って生きていく努力が必要だろうが」
クロコリアスはベッドのそばに腰を下ろした。その手にはグラスが握られていたが、氷といっしょに満たされているのは酒ではなく、おそらく何も足されていないレモン果汁だろう。この男がアルコールを飲まないことは判っている。それは、彼がもともといた世界での、彼が守るべき戒律のひとつだという話だった。
「わたしは昔から自分の欲しいもののために戦ってきたの。何かが欲しいから戦う、それって悪いこと?」
「悪くはない。悪いといった覚えもない」
「ふん」
シェルバイトはビールを飲みながら、クロコリアスに見せつけるつもりで長い脚を大胆に開いて組み替えてみる。だが、男は冷たいレモンジュースを静かに飲んでいるだけで、特に顔色も変えなければ視線も動かさなかった。
「……賢者タイム長すぎない?」
「賢者ではない。“預言者”だ」
「は?」
「……俺のことをいったんだろう?」
「いや、そうじゃなくて……もういいわ」
賢者タイムが何なのかを説明しようとして、シェルバイトは深い溜息とともにすぐに諦めた。この世界へやってきた仲間たちには、ここでの生活に慣れてうまく潜伏しろと指示を出すくせに、クロコリアス自身はそれがまるでできていない。この世界、日本という国の社会の一員として仕事を得て、表面上はおだやかに、人目につくことなく暮らしていく――エローダーと勝手に名づけられた自分たちには、それがある意味で義務のはずなのに、クロコリアスはそうしていない。
シェルバイトは長い赤毛をかき上げ、サイドテーブルに缶ビールを置いた。
「あんた、それでちゃんとほかの仲間たちに指示出せてんの? マトモなシャカイジンも演じられないのに?」
「指示を出すのはおれの役目ではない。“評議会”からの指示を預かり、伝えることが役目だ」
「それはそうかもしれないけど――ただ、あんたがそれじゃしめしがつかないでしょ。現に、あんたがそのポジションにいることに不満を持つ奴もいないわけじゃないし」
今度は伝線させないよう、慎重に新しいストッキングを履きながら、シェルバイトは上目遣いにクロコリアスを睨んだ。
「……あんた、ここに来てない時ってどこで何してるの?」
「どういう意味だ?」
「ぶっちゃけ、よそにほかのオンナいるよね? ひとりふたりじゃなく?」
「……おまえが何をいっているのかよく判らないが、仲間なら連絡も取り合うし、顔も合わせる。ただ、俺のすぐ下でほかの仲間たちをまとめているのは――」
「じゃなくて!」
シェルバイトは脱ぎ散らされていた下着を手に取り、クロコリアスの言葉をさえぎった。
「仲間の話なんかしてないのよ、こっちは。……要するに、わたしのほかにあんたをやしなってくれるオンナが何人いるか聞いてんの」
「……俺はおまえにやしなわれているのか?」
「あんたが自分で稼げてなくて、ここへ来るたびにわたしが小遣いあげてる現状で、それでもやしなわれてないっていい張るわけ、あんたは?」
「そういう相手がいるかという話なら、ほかにはいないが」
「は? ……ホントに?」
「おまえに嘘をつく意味がない。それを信じるかどうかはおまえの勝手だ」
「…………」 クロコリアスの表情には相変わらず変化が見られなかった。感情の抑揚を完璧にコントロールできているというより、もしかするとこの男は、もともと感情が希薄なのかもしれない。少なくともシェルバイトは、怒ったり哀しんだり、あるいは喜んだりするクロコリアスを見たことがなかった。たとえそれがベッドの上であっても、表情を変化させるのはシェルバイトのほうだけで、女にはそのことが何よりも腹立たしい。
両手を背中に回してブラのホックを留めながら、シェルバイトはつっけんどんにいった。
「ビールもう一本」
「そこにある」
「これもう空だし」
「…………」
シェルバイトから頭ごなしにそういいつけられても、クロコリアスは特に不満そうな顔も見せずに立ち上がり、キッチンへと向かった。
その後ろから、毛足の長いラグの上を、音もなく赤い波が追いかけていく。その源は、鼻歌交じりに黒のタンガを履こうとしているシェルバイトだった。彼女の艷やかな髪が赤い滝となって白い背中を流れ落ちるように延び、その足元で淵となって、そこからあふれて静かな波と化しているのである。
「……女という生き物は不可解だ」
冷蔵庫を開ける音に続いて、淡々としたクロコリアスの声が聞こえてきた。
「あるいは、女とひとくくりにせず、おまえが不可解というべきか」
「……!」
いつしかシェルバイトの鼻歌は途切れ、その額には大粒の汗の珠が浮かんでいた。
「……俺が目の前に立ったリターナーをどう始末してきたか、実際に見たことのある仲間はほとんどいない。だから、俺の力を疑問視する者が出てきてもおかしくはない。そこまでは俺にも理解できる」
ビールを持って戻ってきたクロコリアスは、いまや床を埋め尽くすほどに広がった赤い髪を踏みつけることなく、リビングへと戻ってきた。厳密にいえば、クロコリアスが歩を進めるのに合わせて――さながら海を割って歩く伝説の預言者のように――シェルバイトの髪が、見えない力に押しのけられていくのである。
「――だが、まさかおまえが俺の力をためそうとするとは思ってもみなかった。意外だ」
「た、ためそうと思ったわけじゃないから」
震えるように大きく息を吸い込み、シェルバイトは右手を軽く振るった。そのとたん、潮が引いていくかのごとく、床一面に広がっていた彼女の髪がもとの長さへと戻っていく。シェルバイトは腕組みし、クロコリアスから視線を逸らした。「あんたが……何をどこまでやったら怒るかなって、そう思っただけ」
「それをためすというんじゃないのか?」
「少なくともあんたの力をためしたわけじゃないから。ためしたのは寛容さのほう!」
「そのために不意討ちされるほうはいい迷惑だ」
「どうせわたしが本気で不意討ちしたとしても、あんたならたぶんその前に気づくでしょ」
「どうだろうな」
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