第三章 人よ、呪われるべし 〜第七節〜
ふたつめの要塞を陥落させた美和子が、甘ったるいミルクコーヒーを飲み干し、満足気に溜息をつく。重信は自分の腕時計を一瞥して続けた。
「おれたちがこの席に着いて少ししてから、そのセダンはあそこに停まりました。ただ、停まっても誰も下りてこなかった。ということは、このへんに何か用事があったわけでもないらしい。なら何のためにあそこに路駐したんだろうか……ということが、ふと疑問に感じられたもので」
「変なことが気になるのねえ、ザキくんは」
「激しい殺意を向けられないかぎり、おれは敵の存在を感知できませんからね。用心深くもなります」
「もしかしたら敵が乗ってたかもしれないってこと? でも、結局そのクルマはどこか行っちゃったんでしょう?」
「ええ、すみれさんが戻ってくる少し前に。トータルで三〇分以上は路駐していたと思いますが」
「仮眠でも取ってたんじゃないのぅ?」
「目の前に駐車場つきのファミレスがあるのにですか? そもそもあんな高級なセダンのオーナーは、車内で仮眠なんか取りませんよ。長距離トラックの運転手でもあるまいし」
「そんなに気になるの? ナンバー覚えてる? もしあれなら、できるかどうか判らないけど、昔のつてで――」
「いえ、別にいいです」
重信がすんなり引き下がってくれたことに、すみれは内心ほっとした。もし何が何でも調べてほしいといわれたら、非常に面倒なことになっていただろう。
「ここでの話題が話題でしたから、少し過敏になっていたかもしれません」
「そう……かもね」
すみれの意識がすぐに“機構”の一員としてのそれに戻った。エローダーたちの動きに変化の兆しが現れ始めた今、本来の仕事をおろそかにはできない。
伝票をもってレジのほうへ歩きながら、すみれは重信にいった。
「何となくザキくんのお宅に近いからこの店を選んじゃったけど、ザキくんさえよければ、もっとランダムにいろんなところで会うことにする? でなければお屋敷とか」
「おれはどこでも構いませんよ。ただ、おれがたびたび戸隠さんのところへお邪魔するのは、エローダーに気づかれるうんぬんより、学校の人間に気づかれた時のほうが面倒かもしれませんが」
「子供はそういうのすぐに騒ぐのよねえ。……って、ザキくんくらいの頃のわたし、ろくに学校にも行かないくせに、そういってクラスメイトたちを馬鹿にしてたわぁ」
「そのことを後悔してるんですか?」
「後悔っていうか、そういうのって、学生時代にしか味わえないイベントじゃなぁい? いまさらながら、惜しいことしたなぁってねえ」
「そうですか」
「今のザキくん、当時のわたし以上に斜に構えてるみたいだし、わたしみたいにならないほうがいいわよう?」
「まあ、後悔はしないようにしてますよ」
重信は素直に頷いたが、そこには何か含みがあるようにも思えた。ファミレスを出た重信は、暗いオレンジ色の夕映えに目を細め、
「――むしろおれにとっての一番の問題は、精神的なギャップのほうだと思います」
「ギャップ?」
「正直、このところ田宮くんたちが文化祭の準備で浮かれているのを見ても、おれ自身はそういう気分になれないんですよ。微笑ましいなとは思いますが、それだけです。まだ精神面でのリハビリが足りないのか、それとももうこの感覚は戻らないのか――おれにもよく判りません」
「でもさあ、なるようにしかならないんじゃなぁい? あれこれ考え込んだって仕方ないって」
「また美和子さんはそんな無責任な……」
仕事柄、“機構”に加わるリターナーの全員に接する機会のあるすみれからすると、異世界ですごしてきた時間が長いリターナーほど、重信のいう精神的なギャップを強く感じ、生まれ故郷であるこの世界に適応し直すための時間や努力を必要とする傾向にあるが、その反面、異世界での過酷な経験がもたらすのか、ある種の開き直りを見せる者もいる。美和子はその典型だった。
「若い頃はあれこれと思い悩んで、けどその現実を直視したくなくてひたすら世間や他人を拒絶して引き籠もってたけどさぁ、ま、異世界に行って何度か死ぬような目に遭えば、この世界でのたいていのことなんかどーでもいいやって思えるけどねえ」
「ですから、みんながみんな、美和子さんみたいに大雑把に割り切れるもんじゃないんですってば」
すみれが苦笑しているかたわら、重信はどこか神妙そうな顔つきで美和子に尋ねた。
「……立ち入ったことを聞くようですけど、美和子さんのご家族はどうしてるんです、今?」
「親ってこと? それがまた皮肉な話なんだけどさ」
美和子は大仰に肩をすくめて笑った。
「――わたしがこっちに戻ってきて、お嬢さまのところで住み込み家政婦としてはたらくことになったよって伝えたら、あの親不孝娘が立派になってって泣いて喜んでねぇ。そこまでならいい話で終わってたのに、わたしっていう人生で一番大きな心配ごとがなくなってほっとしたからなのか、急にボケちゃって」
「それは……どちらが?」
「父親」
「その……美和子さんのところはいろいろあったから」
「気を遣わなくたっていいんだって、すみれちゃん。――ウチはもともと父子家庭でね。母親は今どこで何してるのか判らないし、知りたくもない」
美和子の父は、今は松仁会系列の特養ホームで介護を受けている。ただ、自分の娘のことはもうほとんど覚えていない。美和子が明朗かつ大胆に割り切った考え方をできるのも、いってみれば、実の家族がいなくなったも同然だからなのかもしれない。
そう考えて、すみれはふと
林崎重信もまた、この世界に戻ってきた時点ですでに両親を亡くし、肉親は長野に住む祖父ひとりとなっていた。ただ、重信が美和子のようにあっけらかんとしていられないのは、彼にはまだ美咲という少女がいるからだろう。
実際、重信も自分が戦うのは美咲を守るためだとつねづね発言している。もし彼女が何らかの理由で命を落とすようなことがあれば、重信は“機構”に協力してくれなくなるかもしれない。
「――それじゃ、おれはこれで。ごちそうさまでした」
律儀に一礼する少年の言葉にはっと立ち返り、すみれはぎこちなく笑って少年を見送った。
「どしたの、すみれちゃん?」
「もし……仮定の話ですよ?」
小型の電気自動車に乗り込み、すみれは美和子に尋ねた。
「もし美咲ちゃんに何かあったら、ザキくんはどうすると思います?」
「そりゃまあ……わたしらを手伝ってくれなくなるんじゃないの? もともとちょっと非協力的だったんでしょ、あの子は?」
「ええ」
「ま、その時はその時ってことで、仕方ないんじゃない? そういう約束だしさ。わたしはほら、親のことがなくても、自分がこの先もふつうに食ってくためにはお嬢さまのところでお世話にならなきゃダメって判ってるけど、ザキくんはひとりでもふつうに生きていけそうだもんねえ。――でも何でそんなこと聞くわけ?」
「あまり考えたくないですけど……もし美咲ちゃんが命を落としたとして、その責任がわたしたちにあるって彼が判断したら、ザキくんはわたしたちの敵に回ったりしませんか?」
「…………」
みしりと車体を揺らして助手席に座り、シートベルトを締めようとしていた美和子は、すみれが口にした仮定の話にしばし絶句した。美和子はたいていいつもほがらかな笑みを浮かべているが、この時ばかりはそれが消え、彼女らしからぬシリアスな顔つきになっていた。
「……それこそ今考えたってしかたなくない、そんなこと?」
すみれがモーターを始動させて駐車場からクルマを出した頃、美和子はようやくそれだけいって、また無言になった。
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