第三章 人よ、呪われるべし 〜第三節〜

「もし泪ちゃんに何かあれば、私たちはかなりの打撃を受けることになる。そのリスクを取るのは――」

「そこは俺がフォローする」

「クロコリアスくんが? 泪ちゃんの護衛につくつもりかい?」

「俺がついていたらかえって目立つだろう」

「そりゃそうだけど――じゃあどうするの?」

「あの娘の安全は俺が確保する。考えていることはある」

「それならいいけど……」

 クロコリアスとはそれなりに長いつき合いだが、そんなマスターでも、この男の胸中は読めなかった。もともとクロコリアスは口数が少なく、たとえ口を開いても、なかなか自分の考えを語らない。ただ、クロコリアスのそんな秘密主義は、自分たちの情報がいつどこからもれようともダメージを最小限に抑えるためなのだと、マスターも理解している。

 だからこの時も、マスターは詳しいことは聞かなかった。

 何より、クロコリアスの指示にはかならずしたがうべしというのが、“神託評議会ネドハノール”のおおせなのである。


          ☆


 この世界に戻ってくる前から、重信しげのぶは深い眠りに就くということがない。熟睡していてはいつ命を失うか判らない危険な世界を渡り歩いていた経験が、おのずとそうさせているのである。

「――はい」

 枕元においてあったスマホが震えるのとほとんど同時に目を覚まし、重信はすぐさま電話に出た。

『ザキくん? 寝てるところごめんね』

「何かありましたか、滝川たきがわさん?」

『あったというか……“機構”のリターナーたちから、今夜だけで五件もエローダーとの遭遇の報告があって』

「五件?」

 重信は身を起こしあらためてあたりの気配を探ってみたが、近くに妙な殺気を放つ相手はいない。

「……それ、この前の連中みたいに、五人で群れてるところを見つけたとかいうのではないんですか?」

『それぞれ別の場所で五件。……もし組織的に動いているんだとしたら、その狙いも気になるし――』

 すみれの声からはいつにない緊張感が窺える。それなりに長く“機構”に身を置いている彼女にしても、あまり経験したことのない事態なのかもしれない。

「戸隠さんには?」

『もう伝えてある。……とりあえずあそこには葉月ちゃんともうひとり、護衛役がいるからたぶん大丈夫だと思うけど、念のために山内やまうちさんに向かってもらってる』

「何か指示は?」

『特に動く必要はないけど、一応はみんなに警戒しておいてって……あ、立花たちばなさんにはもう連絡してあるから』

「そういうことなら、おれもちょっとあたりを回ってきてみます」

 立花けいは、重信の不在時や就寝時に、美咲みさきの身の安全を確保してくれている。ただ、遠距離狙撃に特化しているという彼女の“スキル”を考えると、複数のエローダーがこの近くに現れた場合、そのすべてに対処しづらいかもしれない。

『向こうから仕掛けてこないかぎり、ザキくんも無理だけはしないでね?』

「そういう滝川さんも気をつけてください」

 すみれの声の背景には、自動車のモーター音が混じっていた。おそらく戦闘を終えたリターナーの治療のために、この深夜に走り回るはめになっているのだろう。

『こっちはわたしもいっしょだから大丈夫よう』

 どこか陽気な美和子みわこの声が唐突に割り込んでくる。外見こそ太り気味の中年女だが、すみれのボディガードとしては充分だろう。

「――こっちでも何かあったら連絡します」

 通話を切り、重信は闇にまぎれるような濃紺のトレーナーに着替えた。いちいち玄関を開け閉めせずにすむよう、ベランダに置きっ放しにしてあるスニーカーを履き、手摺を蹴って飛び出す。

「……気のせいかな」

 クレープ修行の時に着ていたトレーナーを適当にはおってきたせいか、全身からほんのり甘い匂いがする気がする。

「まあ、匂いうんぬん関係なく、向こうはすぐにこっちに気づくだろうが」

 夜の闇に跳梁するエローダーたちを、重信のほうで積極的に捜し出すのは難しい。重信が敵の存在を感知できるとすれば、それは相手がこちらに明確な殺気を向けてきた時くらいのものだからである。重信が自宅を離れたのは、この近くにいるかもしれないエローダーを釣っておびき出し、美咲から遠ざける意味もあった。

 民家の屋根から屋根へと跳躍し、地上をバイクで走るより速く移動した重信は、小さな駅にほど近い大型マンションの屋上までやってきたところで足を止め、振り返った。

「…………」

 ぬるい夜風が吹く屋上には、大量の室外機の静かな唸りが聞こえるだけで、当然ながら人影はない。例外は、振り返った重信の正面に立つふたり組だった。

 自宅を離れて数キロほど移動したところで、彼らが自分を追跡し始めたことにはすぐに気づいていた。判りやすく明確な殺気を放ち、つかず離れずここまでついてこられた時点で、ふたりとも常人ではない。重信がリターナーだと認識しているエローダーと見て間違いないだろう。

「……なぜ急に動きが派手になった?」

 問うでもなく、重信はそう呟いた。敵がわざわざ自分たちの内情を明かすとは思っていない。

 が、予想外に男の片割れが口を開いた。

「知らねえよ」

 すさんだ目をした小太りの男が、憎々しげに吐き捨てた。

「――でもよ、おめえらを捜し出して始末しろっていうんだよ。解せねえよな」

「おい」

 となりの眼鏡の少年が小太りを睨む。

「……余計なことをいうな」

「は? おめえも文句いってたじゃねえか。どうして俺たちにこんな仕事が回ってくんだよって。下手すりゃ捨て石だぞ?」

「いうな」

 小太りのほうは薄汚れたつなぎの作業服姿を着た中年男で、少年のほうは重信と同年代の生真面目そうな風貌をしていた。ふつうなら接点が生まれるようなふたりとは思えない。

「……捨て石になるかどうかは僕たち次第だ。ほかのリターナーどもが来る前に片をつけるぞ。こっちは試験が近いんだ」

 眼鏡を押し上げた優等生が溜息交じりにいう。

「くだらねえ……」

 さらに吐き捨て、小太りが跳ねた。

「染まってんじゃねえよ!」

 ぴょんと飛んだ小太りが、急激に軌道を変えて重信に突っ込んできた。慣性を無視した動きで重信に迫った小太りの手からは、鈍い輝きを放つ光の刃が生えている。重信がこの世界に戻ってきたその日に出会ったエローダーが、確かこれと似たような“スキル”を使っていたが、同様のものだとすれば、その切れ味はスチール製の防火扉をあっさりと切断するだろう。人体ならいわずもがなだった。

 重信は軽く後ろに飛んで間合いをはずそうとしたが、硬いはずの足場が急にやわらかくなったように感じ、そのせいで一歩出遅れた。

「!?」

 何番目の人生だったか、以前どこかの世界で、底なし沼に足を踏み入れたことがある。今の感覚はまさにそれだった。しかし、足元を確認している余裕はない。肉薄してきた小太りの目もとを狙い、重信は右手の中指で小さな光弾をはじいて飛ばした。

「ちっ」

 かなりの至近距離から放った“印地いんじ”を、小太りは寸前でかわした。地に足が着いていないのに、ふたたび慣性の法則をゆがめて不自然に真横に移動したのである。

 その隙に“朔風赤光さくふうしゃっこう”の構えを取り、重信は自分の足元を一瞥した。

「……?」

 コンクリート製のタイルがぐにゃりとゆがんでいた。今も少しずつ、スニーカーの足が沈みつつある。まるで硬化前に戻ってしまったようだった。どういう理屈でこうなっているのかは判らないが、この不可解な現象を引き起こしているのは、少し離れたところにいる優等生に違いない。

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