第三章 人よ、呪われるべし 〜第一節〜



 るいにとって、それはこの世界に来た時以来の、もっとも勇気の必要な決断だったかもしれない。

「……いやいや、それは危険すぎないかい、泪ちゃん?」

 バーの閉店準備にかかっていたマスターは、泪の提案を聞いてグラスを磨く手を止めた。

「確かにそれなら――何だっけ、その学校? 水無瀬みなせ学園? に入り込むことはできると思うけど、少し向こう見ずすぎるよ」

「確かにそうですけど、ほかに手はないですし」

「うーん……でもね、きみは自分の身を守れないよね?」

「そこはあんまり考えても意味なくない?」

 店頭のスタンド看板を持って入ってきた麻子あさこが、ドアに施錠して溜息交じりに口をはさんだ。

「――そのガッコには複数のリターナーがいるかもしれないのよねえ?」

「可能性は高いです」

 以前、水無瀬学園に潜入した佐藤と田中は同時に連絡を絶った。戦い慣れしたあのふたりが同時に不覚を取ったとなれば、彼らを倒した相手は複数のリターナーだと想定しておくべきだろう。

「じゃあやっぱり焼け石に水とかいうアレじゃない? 泪ちゃんじゃなくてわたしが潜入したとしても、そんな連中が相手じゃ無事に生還できる保証なんてないってば」

「だからといって――」

高梨たかなしまひろがいってたんですけど」

 渋い表情のマスターに、泪はいった。

「その“機構”に、わたしたちの存在を感知できるリターナーはほとんどいないらしいです。少なくとも明確に識別できるリターナーはいない、唯一わたしたちを見つけられる者がいるとすれば、組織のトップにいる少女くらいだと」

「ああ、複数の“スキル”を組み合わせて敵と味方を判別するとかいうやつかい?」

「そうです」

「そうねえ……強い殺意や敵意を持つ能力者を判別することができるリターナーが相手なら、逆に泪ちゃんみたいなタイプは、敵としては認識されないのかも」

 タバコに火をつけ、麻子はソファに腰を下ろした。いまだに泪は目にしたことはないが、マスターや麻子は泪と違ってかなり攻撃的な“スキル”を持っているという。だから泪のようにリターナーに怯えることもないが、それゆえに、敵意を抑えることもできないだろう。

 逆に、臆病な泪は、リターナーに対して敵意も殺意も持ちえず、それを判別する“スキル”に見破られることもない。

「一理あるけど……ただ、泪ちゃんだって“スキル”を持っている以上、そのことはバレでしまうよね?」

「それは避けられないと思いますけど、だとしても、敵か味方か判然としない段階で、いきなり攻撃されることはないはずです。まして、無関係な人間がたくさんいるところで仕掛けてくるとは思えません」

「そこはリターナーたちの弱みといえば弱みよねえ」

「だとしてもだよ」

 鼻の下の髭を指で撫で、マスターは首を振った。

「――もしそれで目をつけられて、尾行されたりしたらどうする? 人目につかないところで襲われたら? 向こうには地の利があるし、数だってこっちよりずっと多い。やっぱり危険すぎる」

「でも、だからこそ敵の詳しい情報が必要だと思います」

「だとしてもね……」

 マスターはまだ納得がいっていないようだった。しかし、泪としては、これが自分にできる精一杯だと思っている。

「……わたし、怖いんです」

 眼鏡を押し上げ、泪はいった。

 泪にとって、次々に仲間たちが倒されている現実は、自分自身が危険にさらされるのと同じくらいに耐えがたいことだった。泪ひとりが戦いから距離を置いていたとしても、この状況が続けば、いずれ仲間たちが全滅し、自分ひとりがこの“異世界”に取り残されかねないからである。

「この世界に自分ひとりだけが残されて……そういう状況を考えたら、どこかで一度危ない橋を渡るくらい、何でもないかなって。それに、リターナーと夜の公園で一対一で出くわすよりはよっぽどリスクは低いと思うし」

「なるほどねえ……」

 口紅の跡が残るタバコを灰皿の底になすりつけ、麻子はうなずいた。

「――ねえマスター、とりあえずほら、彼に聞いてみたら? 泪ちゃんの作戦どう? って」

「クロコリアスくんにかい? ……そうだね。まあ、泪ちゃんの考えも判るし、ここは彼にお伺いを立ててみるとしようか」

 いつになく頑固な泪の説得は難しいと感じたのか、マスターはついに妥協の姿勢を見せてくれた。

 その結果に満足して掃除を再開した泪は、なぜ臆病な自分が――たとえ仲間のためとはいえ――ここまで積極的に敵の矢面に立とうとしているのか、ふっと自分自身が理解できなくなった。

 このまま行けば自分ひとりだけが生き残ってしまうという孤独感と、自身が敵に最接近する恐怖感を天秤にかけて、結果、恐怖に耐えるほうを選んだのだと自己分析してみたが、そもそも自分がそこまで孤独を回避しようとすること自体が、今の泪には意外に思えた。もしかすると、自分でも意識しないままに、泪はこの異世界で出会った仲間たちに愛着のようなものを覚えるようになっていたのかもしれない。


          ☆


 広い病室に追加で簡易ベッドを入れ、そこで横になっていた葉月はづきは、妙な気配を察して身を起こした。

「――――」

 時刻は午前二時すぎ、夜勤のナース以外はみな寝静まっているような真夜中に、誰かがうろついている。それも院内ではなく、もっと上のほう――おそらく屋上だろう。ただ、殺気のようなものは感じない。もし殺気を放つような相手が接近していれば、葉月よりまず霧華きりかのほうが先に飛び起きていただろう。

 ひとつ年上の友人が静かに眠り続けているのを確認し、葉月はパジャマの上からカーディガンをはおって病室を出た。

 日中でも静かな病院内は、今はそれ以上の静けさに包まれていて、スリッパの足音さえもやけに大きく響いて聞こえる。葉月はスリッパを脱いで裸足になると、窓を開けて窓枠に足をかけた。

「よっ……」

  窓の外に生えていた木の梢を蹴り、一気に病院の屋上へと飛び上がった葉月は、高いフェンスの上に危なげなく下り立った。

「――やっぱり」

 屋上にずらりと並ぶ大型の室外機に腰掛け、ガウン姿の女がタバコの煙をくゆらせていた。

「……何してるんですか、熊谷くまがいさん?」

「あなたにはわたしが何してるように見えるの?」

「夜中に病室を抜け出してタバコを吸ってるように見えますけど」

「おおむね正解」

 葉月を一瞥してにっと笑った熊谷弥生やよいの足元には、すでに五、六本ぶんの煙草の吸い殻が落ちている。先日、彼女の病室で初めて対面した時には、ふんわりした雰囲気の女子大生風に見えたから、彼女がここまでのヘビースモーカーだということ自体が、葉月にはちょっとした驚きだった。

 葉月は手にしていたスリッパを履き直し、あたりを見回した。

「……別に敵の気配を感じたとかじゃないんですね?」

「あいにく、わたしはそんな便利な“スキル”持ってないもの」

「じゃあ、ホントにタバコを吸うためだけに……?」

「喫煙ルームに行くより屋上に上がるほうが手っ取り早いでしょう?」

 そういって、弥生はまたあたらしいタバコを取り出した。葉月は彼女のことを、もっと女子力の高い――それこそ花屋でバイトでもしていそうな、おっとりしたやさしいおねえさん系だと思っていたが、どうも実態はかなり違うらしい。

 特に警戒すべきことがないのなら霧華のそばに戻ろうと思った葉月は、その前にひとつ弥生に尋ねてみることにした。

「――ちょっと疑問なんですけど」

「何が?」

「熊谷さんもリターナーなら、すみれさんにある程度は傷を治してもらえるはずですよね? そんな半月も入院が必要になるって、どれだけの怪我だったんですか?」

「あら、聞いてないの?」

「何をです?」

「わたしはすみれさんの“スキル”が効かないっていうか、効きにくいのよ。効果なしってほどではないけど」

「え? そんなことあるんですか?」

「体質かしらね? よく判らないけど」

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