第二章 彼女の知らない彼女 〜第三節〜

「遊園地なんかでそのへん歩きながら食べてる子とかよく見るでしょ?」

「ええ。でも、見たことがあるだけで、実際に食べたことはないと思う……」

「じゃあ美和子みわこさんにでも作ってもらえばいいじゃん。よく知らないけど、みんなが学祭で作ろうとかいうくらいだから、きっとそんなに難しいもんじゃないと思うし」

 霧華は幼い頃は今よりももっと病弱だったという。それに、財閥当主のたったひとりの孫娘ということもあって、気軽に遊園地に遊びにいけるような環境ではなかったのだろう。学園の誰よりも豪華な食生活を送れるはずの彼女が、これまでチュロスの一本も食べたことがないというのは、いっそ皮肉なことといえるのかもしれない。

「――――」

 その時、不意に霧華がシートの上に放り出されていた葉月の手を握ってきた。

「お嬢?」

「……近くにいる」

「えっ?」

「山内さん、ちょっと停めて」

 霧華の横顔が緊張に強張っている。葉月は霧華の手を握り返し、窓越しに宵の口の夜景を眺め渡した。

「どっち?」

「左……一〇時の方向から感じる。まだちょっと遠いけど」

「どうしましょう、お嬢さま? 誰か応援を呼びましょうか?」

 通行量の少ない道の路肩にリムジンを停め、山内は手袋をはずした。山内は応援を呼ぶことを提案したが、この時間、こんな郊外まですぐに駆けつけられる助っ人はそうはいない。いざとなれば、葉月と山内のふたりで霧華を守らなければならないだろう。すでに山内の顔からも、いつもの人のよさそうな微笑みは消えている。

 霧華はじっと目を細め、窓越しに夕闇の向こうを凝視していた。

「……ぜんぜん動いてない。まるで身を隠してるみたい」

「こっちには気づいてないってこと?」

「それは判らない。気づいているけどこっちが気づいていないと思ってやりすごそうとしているのかもしれないし、そもそもエローダーかどうかもまだ判らないから……」

 霧華が持つ“天耳通てんにつう”は、異能力を持つ人間の存在を漠然と感じ取る“スキル”である。これに加えて、対象が自分に向けてくる感情を色として視認できる“天眼通てんげんつう”を組み合わせることで、霧華は目の前に立つ相手がリターナーかエローダーかを判別している。すなわち、人外の能力を持って自分を敵視する者はエローダーであり、そうでないならリターナー――はなはだ心もとないが、今はほかに敵味方の区別をつける方法がないのが実情だった。

「…………」

 霧華が考え込んでいたのはほんの一〇秒ほどだった。

「ちょ、お嬢!?」

 迷わずリムジンのドアを開ける霧華を追って、葉月も慌てて車外に出た。山内もそれに続く。

 この期におよんでまだどこかで弱々しく蝉が鳴いていた。湿気を含んだぬるい夜気が肌にまとわりついてくるのが不快だったが、葉月が最近ようやく感じ取れるようになってきた自分に向けられる殺気のようなものは――幸か不幸か――まだ感じ取れない。

 道路脇に放置されている子供用の自転車と、ガードレールの向こうに広がる雑木林を交互に見やり、葉月は霧華に小声で尋ねた。

「まさか子供が襲われてるってことはないよね?」

「そう思いたいけど……」

「相手がひとりなのは確実なわけ?」

「ええ」

 もしそれがリターナーなら、自分が置かれている状況が理解できずに混乱している可能性もある。逆にもしエローダーなら――勝ちやすきに勝つという単純な鉄則を守るべきなのかもしれない。

「とにかく、お嬢はわたしの後ろからついてきて。山内さんは殿をお願いします」

「判ったよ」

 山内の“バブルスライム”は、相手に直接手で触れなければ攻撃できないが、葉月の“テンション・サンダー”は距離を問わない上に攻撃にも防御にも使える。先陣を切るのは葉月のほうが適任だった。

「……やけに静かね」

 ほとんど夕映えも射さなくない日没直後の雑木林の中は静まり返っている。殺気も感じられないが、血の臭いもただよってこない。

 その手のことに詳しくない葉月には、何という種類の木なのか見当もつかないが、とにかく周囲には幹の太い木々が無数に生えていて、たとえ日中であっても視界は通りにくく、身をひそめる場所には事欠かないだろう。葉月はあたりを見回し、霧華に確認を取った。

「……どこ?」

「この先、あと一〇メートルも離れてない」

「え……? そんな近いの?」

 一〇メートルならもはや葉月にとっては充分に射程圏内、山内でもひと飛びで接敵して攻撃できるくらいの至近距離といえる。ここまで接近しているというのに、それでも何もしてこないというのは、相手に戦意がないからなのかもしれない。

「…………」

 葉月は右手の先から雷の鞭を五〇センチほど垂らし、三人の正面の視界をさえぎって佇立する巨木の脇へと一足飛びに移動した。

「――!?」

「葉月? どうしたの?」

 鞭を振りかぶったまま動きを止めた葉月に、霧華が尋ねる。

「いや、その――」

 確かに霧華のいう一〇メートル圏内に彼はいた。ただ、その姿は葉月が思い描いていたものとあまりにかけ離れていて、その驚きのせいで一瞬動きを止めてしまったのだった。

「……何なの?」

 霧華と山内が、慎重な足取りで葉月のところへとやってきた。

「! ま、まさか……お嬢さま、もしかしてあの子が……?」

「……どうやらそうみたい」

 暗い雑木林の奥の茂みに隠れるようにして、小さな男の子が頭をかかえてしゃがみ込んでいた。どう見てもまだ小学校の低学年くらいで、Tシャツにハーフパンツ姿、すぐそばには小さなバッグが転がっている。

 霧華はぐっと目を細めてその少年を見据えた。

「……この子で間違いない」

「どっち? 何色!?」

 雷光の鞭を構えたまま、葉月は霧華に問いただした。この少年が何らかの“スキル”を持っているのは間違いない。だからこそ霧華はそれを感じ取った、なら、次に確認すべきは少年の“色”だった。少年が霧華に対してどんな感情をいだくか――もしエローダーであれば、霧香に対して激しい敵意を意味する赤に染まって見えるという。

「赤……くはない。これは敵意じゃない、恐怖とか、怯えとか――」

「てことは、エローダーじゃなくて、リターナー……? こんな小さな子が――」

 葉月が知る中でもっとも若い――あくまでこの現代社会における年齢という意味で若いリターナーは、一七歳の自分と林崎はやしざき重信で、あとは大人ばかりだった。

「……自分の身に何が起きたか判らなくて、それで混乱してるってこと――?」

 少年は両手で頭をかかえ込み、全身をぶるぶる震わせて、先ほどからずっと小さな声で何事か呟いている。嫌だ、とか、そんなこと、とか、断片的にもれ聞こえてくる言葉をつなぎ合わせても、さほど明確な文章にはなりそうにない。「……どうする、お嬢?」

 雷の鞭を下ろし、葉月は霧華の意見を求めるように振り返った。

「……ちょっと待ってください」

 思案顔の霧華が口を開くより先に、山内が珍しく険しい表情でいった。

「妙じゃありませんか? 私はちょっとおかしいと思うんですが――」

「何が?」

「だって、私たちは基本的に、臨死体験をしている間に“精神転移シフト”して異世界の住人になって、そこで一生を終えてからこっちへ戻ってくる――そうですよね?」

「まあ……うん、たぶんみんなそうだと思うけど」

「じゃあ、この子はここで一度“死”を迎えて、それからここで覚醒したんですか? どういう状況で? どうやって蘇生したんでしょう?」

「――――」

 葉月にしろ霧華にしろ、それに山内にしても、それぞれの死の形は違うが、この世界に帰還してきた時は、いずれも病院のベッドの上にいた。完全な死を迎える前に適切な処置をほどこされたからこそ、肉体がそこなわれることなく異世界から帰還してこられたのである。

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