第二章 彼女の知らない彼女 〜第二節〜
そんな重信の胸中も知らぬげに、美咲はうつむき、眉根を寄せている。
「……きみも高梨さんとは特に接点はなかったと思うが、やはり死んだと聞くとショックか?」
「それは……でも、それ以上に、のぶくんのことが心配っていうか」
同じクラスの生徒がある日突然死んだと聞けば、少なからず衝撃を受けるのは当然だが、美咲はそれを、重信の身の上にも起こりうることだと捉えている。それが判って、重信は小さく笑った。
「……今になってこんなことをいうのは申し訳ないが、高梨さんには慎重さが足りなかったんだろう」
「慎重さ……って?」
「彼女が異世界でどんな経験を積んできたのかは知るよしもないが、おれたちが生きているこの世界をベースに考えると、異世界から戻ってきた直後は、自分が急に超人になったような気がする」
事実、異世界から持ち帰った“スキル”は、この世界の人間にはまず持ちえないもので、その意味では、確かにリターナーのほとんどは超人になったといっていいのかもしれない。だが、だからといって不死身になったわけでもない。
「この世界、特に今の日本には、火を吐く龍もいなければ旅人の寝込みを襲う盗賊団もいないからな。周囲にいるのはたいてい丸腰の人間だから、自分が無敵になったように感じるのも判らなくはない。……そのせいで、高梨さんは少し大胆になりすぎていたんだろう。ひとりだけで敵と戦いたがるというのもその現れだった」
「のぶくんはそんなことしないってこと?」
「自分の万能感に浸って有頂天になるという経験ならなくはなかった。……ただ、それもはるか昔のことだからな」
いびつなクレープの表面が乾いていくのをぼんやりと見つめ、重信はいった。
「そのことで何度も死にかけたし、実際、何度か死んだ。そういうことを繰り返すうちに、必要のないところでは力を隠しておだやかにふるまうことを覚えた。本当の意味で無敵でいられないかぎり、強さを誇示することは、無駄に敵を増やすことにもなるからな」
「……そういうものなんだ」
「ああ。たとえるなら
「のぶくん、わたしが知ってる前提でちょいちょい時代劇の話をたとえに使ってくるけど、時代劇が好きなのはうちのおとうさんだけで、わたしは詳しくないからね?」
「いや、でもこの家のリビングには宮本武蔵の小説が――」
「わたしは読んでないもん。のぶくんはちょっと自覚したほうがいいよ? 何だかんだいいながら、のぶくんはおじいさんの影響で、ふつうの人よりかなり時代劇に詳しいから」
「……そういうものか」
今度は重信のほうがうつむいた。ただ、おかげで重苦しくなりかけていた空気が、何となくなごんだような気はする。
「――とにかくおれがいいたいのは、自分が強くなったと浮かれてみずから危険に飛び込むような、そういううっかりなことをしでかすような時期は、おれの場合はとっくの昔に経験して通りすぎているということだ。要するに、今のおれはかなり強くてなおかつ油断しないからそう心配しなくていい」
「そう自信たっぷりに断言されると――」
「それに、おれは何でもそつなくこなすらしいからな」
いびつな三枚目を素手で掴んでむしゃむしゃと消滅させた重信は、四枚目の生地を綺麗に丸く広げて薄く伸ばした。
「――おれの練習用だとしてもこんなに粉を溶く必要はなかったな。もう勝手は判った」
「それ、当日までに夏帆ちゃんとかの前でいわないほうがいいよ? そんなにうまく焼けるならって、手伝いじゃなくメインでローテーションに組み込まれるから」
「そうか。それはそれで困るな……」
残った生地を順繰りに焼きながら、重信は、霧華と
☆
日中の風にはまだ酷暑の名残はあるものの、確実に日は短くなっていた。午後六時を回れば夕日は山の稜線の向こうに沈み、蒸すような夜気とともに夜がやってくる。
そんな季節の移り変わりとは無関係に、車内の気温はつねに一定にたもたれている。もともと身体が丈夫ではない霧華は、こうした季節の変わり目には風邪をひきやすく、それを避けるためでもあった。
「――気分でも悪いの?」
じっと窓の外を見つめていた葉月の視線が、ガラスに映る霧華の視線と絡んだ。
「別にそうじゃないけど」
葉月は霧華に向き直り、静かに嘆息した。
きょうの霧華は、放課後、郊外にある
ただ、葉月は霧華の護衛として同行しただけで、相手のことをよく知らない。判っているのは相手も自分と同じ女性、かつリターナーで、以前、霧華をかばって大怪我をしたということくらいだった。
よくよく考えてみれば、校内では葉月がつねに霧華のそばについているものの、それ以外のすべての時間をいっしょにすごしているわけではない。葉月がいない時には別の誰かが霧華の護衛を勤めているわけで、つまりはその怪我人が、葉月が不在の間に霧華を守って負傷した護衛ということなのだろう。
その存在も、葉月はつい最近まで知らなかった。葉月が聞かなかったということもあるが、霧華のほうにも、それを葉月にいわなければならないという意識自体なかったのかもしれない。
「あの人、どういう“スキル”を使うの?」
「
「熊谷さんていうんだ、あの人」
ベッドの上に身を起こし、包帯だらけであっけらかんと笑っていた可愛らしい女性は、葉月よりずっと年上のように見えた。女子大生か、新卒社会人くらいの年齢だろう。少しだけ、故郷にいる年上の従姉妹に似ている気がした。
「それを聞くのはルール違反。熊谷さんが自分で教えてもいいといわないかぎり、わたしの口からは教えられないから」
「判ってる。ちょっと気になっただけ」
ここであっさりと教えてくれるようなら、霧華はそもそも彼女の存在を――それ以前に
霧華が自分にもいろいろと秘密にしていることには、今でももやもやとしたものを捨てきれずにいるし、さびしくもある。ただ、そう感じる一方で、霧華には簡単に情にほだされたりしない高潔なリーダーであってほしかった。
そんなアンビバレンツが、このところ葉月を無口にさせていた。
「……そろそろ文化祭ですねえ」
車内に落ちてきた重苦しい沈黙を嫌ったのか、ハンドルを握っていた山内がそんな話題を振ってきた。
「お嬢さまたちのクラスではどんなことをなさるんです?」
「……何だっけ?」
一瞬の間を置いて霧華が呟く。葉月は額に手を当て、また大きな溜息をついた。
「わたしがいうことじゃないけど、お嬢はもう少し周りに関心を持ったほうがいいよ。でないと学校に通ってる意味がないから」
「それは判ってるけど……それで、何をすることに決まったの?」
「チュロス屋」
「……作れるの、教室で?」
「作れるんじゃない? フライヤーを持ち込むとか何とかいってたし」
「いってた?」
「いってたよ」
本当にクラスのことに関心がないんだねとは、さすがにいえなかった。“機構”のこと、病床にある祖父のことだけでも頭がいっぱいだろうに、霧華は学業ではつねにほぼトップの座をキープしている。その状態なら、勉強以外の高校生活の部分が犠牲になるのは仕方のないことだろう。
「葉月ちゃん、チュロスっていうのは何なんだい?」
「山内さん、食べたことないんですか?」
「チュロスって食べ物があるの?」
「そうそう。ドーナツみたいに揚げて作るんだけど、もっとカリッとしてて――」
「あれってカリッとしてるの?」
「え? お嬢、食べたことないの?」
「……ないわね」
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